2015年5月31日日曜日

十八史略(62)-伍子胥と呉越戦争(23)

 使者の一行のなかに、彼は自分の息子を加えて、帰国のときは斉にのこした。斉の大臣の鮑氏にその息子を託した。

このことを夫差に告げたのは、西施であった。

「西施よ、どうしたのか?からだの工合が悪いのか?」

「からだではございませぬ。心の工合が良くないのでございます」

「からだは別だが、心はおなじ、と思っていた。からだの工合が悪いのには気づかないでも、心の揺れうごきはすぐにわかるはずだった。それがわからないとは。教えてくれ、心のどこが痛むのか?」

「あたしはもと貧しい洗濯女でございました。こうしてお情けを受けておりますが、いまは故郷の苧羅村に帰って、また川で衣類を洗う生活に戻りとうございます」

「なぜじゃ?わしのそばにいたくないと申すのか?」

「そうではございません。ただおそろしくて。あの方でございます」

「伍子胥だな」

「あの方はご息子を斉に残されました。後顧の憂いなく、思いきったことをなさるおつもりでございましょう。ふだんから、あの方はあたしによくありません。あたしを見るあの方の目……それはもうおそろしゅうございます。いざというとき、まず狙われるのは、あたしにちがいありません」

「心配いたすな。伍子胥め、思いきったことをしようにも、それが出来ぬようにしてやるわ」

西施の名は、『春秋左伝』や『史記』などの正史にはみえない。後漢時代につくられた『呉越春秋』など野史にしか登場しない。


 

2015年5月30日土曜日

十八史略(61)-伍子胥と呉越戦争(22)

 夫差即位11年(前485)、呉は動員令を下し、再び北伐を強行しようとした。
「斉を攻めるよりも、わが国にとって腹心の病根とでも言うべき越を、まず滅ぼさねばなりませぬ。でなければ、いつ背後を襲われるか、知れたものではありませんぞ」

夫差は唇を突き出して、「その越はのう、こんどの北伐に、かねて訓練した兵の三分の二を従軍させる、と申しておるぞ。それから、戦費も負担するそうじゃ。それが、わが背後を襲うかの?」

「ますますご用心なさいませ」

「おまえにはついて行けぬは」

顔さえ見たくない夫差は伍子胥を遠ざける方法を考えた。

「おまえは越のことばかり申して、斉の事情すら知らぬではないか。使者として派遣するから、一度斉を見て参れ。」

「命令でございますか?」

「そうじゃ」

「それでは、仕方がありません。行って参りましょう」

伍子胥は

「俺は嫌われている。それで、こうして遠ざけられるのだ」

と直感した。

楚の平王の屍体を鞭うった時、彼は老いをかんじ、「日暮れて道遠し」と言った。それからもう20年もたっている。どうやら、道も行き詰まりになっているらしい。

 

2015年5月29日金曜日

十八史略(60)-伍子胥と呉越戦争(21)

蘇州城内の伍子胥像.
 はたして伍子胥は、満面に朱をそそぎ、太い眉を吊り上げて回廊を走ってきて、反対した。

「范蠡の釈放は、すでに決めたことだ」

夫差は冷たく言い捨てた。

「勾践を許すときの約束でございましたぞ」

と、それでも伍子胥は詰め寄った。

彼の怒りは、あるじ夫差の心に、ふしぎな喜悦を導いた。

「勾践と范蠡の主従を、分離するという方針であった。しかし、勾践はたびたび呉に来て参内しておる。勾践は一年の半ばを呉と越ですごしておるのだから、范蠡をどちらに置いてもおなじではないか」

「おなじではございませぬ。越に放てば、手が届かなくなります。虎を放つようなものです」

「越はわが属国ぞ。どこにも手は届くわ」

「越では国もとの大夫種が、兵を訓練しているということです」

「知っておる。呉国に危急のときに、援兵を出せるように、兵を調教しておるそうじゃ。おまえは、くどいのう。敵はいつまでも敵ではない。恩恵を施すことによって、誰よりも頼りになる味方にすることもできるのだ」

閨房のなかで、西施がこれに似たことを申しておった。真似ているのではない、二人の心はひとつなのだから、おなじことを口にするのは当然だ。

「甘すぎますぞ」と、伍子胥は声をあらげて言った。

「ものごとは、ほどほどがよいのじゃ。わしにはのう、死屍に鞭うつような真似はできぬ」

さすがにこれには伍子胥も返す言葉がなかった。

 

2015年5月28日木曜日

十八史略(59)-伍子胥と呉越戦争(20)

蠡園の西施像
 越の降伏後5年、呉王夫差(ふさ)は斉に出兵した。60年に近い治世をおこなった斉の景公が死に、その後、斉の国は乱れていた。上昇志向の強い夫差はこれを狙った。

「出兵の好機ぞ」と、夫差は判断した。

「背後に越があることをお忘れなく」と、伍子胥(ごししょ)は諫めて言った。

「越になにができるというのか」

夫差は構わずに北伐の兵をおこし、斉軍を艾陵というところで破った。

自分も南方の後進国風情であることを忘れていた。謙虚さを欠いていた。

越王勾践(こうせん)はあくまでも恭順を装っていた。妻とともに呉に出向くと、呉王に仕えること奴婢のようであった。呉王は勾践に、石室に住まわせ、わが父闔閭(こうりょ)の墓の番人をさせたりもした。勾践は唯々として、墓の番人をつとめた。墓域の草とりなどもした。

「この男、もはや王としての誇りもなければ気力もない」

夫差は勾践の勤めぶりを見て、見くびった。

これこそ勾践の思う壺であった。

蔑まれることがひどければひどいほど、越のためになる。

范蠡にそういわれている。

「可哀想に。范蠡さんを国に帰してあげたらどうでしょう。あたしと違って、あの方は、国に家族をのこしているのに」

愛妃の西施は眉をしかめて言った。

「越での収穫は、勾践を破ったことよりも、この西施を得たことだ」

夫差はそう考えるようになっていた。

彼女の言うことなら、どんなことでも彼は聞き入れた。

「よし、范蠡を帰国させよう」

夫差はその場で決定した。

理屈ではない、生理的な嫌悪感であった。

「なりませぬ、なりませぬ!」

 

2015年5月27日水曜日

十八史略(58)-伍子胥と呉越戦争(19)

蚶満寺境内に建つ西施の石像
 范蠡によって夫差好みに育てられた女は西施(せいし)という。

勾践のかすかな非難の表情を見て、范蠡は

「これは、昔から使われた手法です。かの妲己(だっき)も殷の紂王を暴虐に誘い、殷を滅亡させるために育てられた女でした」

勾践は、今となっては、これに期待せねばならないが、憮然とした表情をした。

勾践はあまり期待をしなかったが、西施が呉王夫差を動かした。

西施の役目は、それほど難しいものではなかった。

臥薪している夫差を本来の性格に戻すだけでよかった。

夫差は復讐の怨念の仮面を被るはいやで堪らなかった。

今、会稽山を厳重に囲み、父の仇の越王は袋のネズミであった。復習は、もう果たされたも同然であると思った。

そこに西施というすばらしい美少女が現れた。この世の汚れを知らぬ処女であった。西施は若いが言うことは、いちいち理屈に適っていた。夫差は美人でも愚かな女は嫌いであった。西施は夫差の理想的な女に思えた。

――夫差は西施に夢中になった。

「越を追い詰めては、怨みが残ります。怨みの道は、人の道ではありません」

西施に言われると、たしかにそうだと思った。

「わたしたちは、楚の人間ではありません」と、西施は言った。

このとき、楚の出身である伍子胥のことが、頭をかすめた。

楚は現在の湖南省、湖北省をさす。ここは、情熱家の産地で古来、激しい人物を産んだ。毛沢東主席は湖南で、劉少奇も湖南であり、副主席の林彪は湖北で、長老の董必武も河北だ。

その楚の人である伍子胥は

「今は天が呉に与えたもうた機会です。この機に越を滅ぼしてしまいましょう」

と、夫差に勧めた。

だが、夫差は首を横に振った。

「復讐はすでに成った。父との誓いは果たした。越は滅びたも同然だ。これ以上、屍体に鞭打つことはせぬ」

もうひとりの重臣伯嚭は越に買収されているので、越王を許すことに賛成した。

伍子胥は、

「あとできっと後悔されますぞ」と、言ったが負け犬の遠吠えのようなものであった。

越王勾践は許されたが、会稽山を包囲され、呉に降伏した屈辱は身にしみた。

これを忘れぬために部屋に胆を吊るし、寝起きには、必ずこの苦い胆を嘗めた。

夫差の復讐を忘れぬために薪の上に寝た『臥薪』と勾践が苦い胆を嘗めたという『嘗胆』をあわせて『臥薪嘗胆』という四字熟語が出来た。

勾践は胆を嘗めるたびに

「汝、会稽の恥を忘れたか!」と叫び、おのれを叱咤した。

 
 ある日から范蠡は越王勾践に内政のことや軍事のことを事細かに教え始めた。

「あとで、ゆっくりよいではないか。今生の別れでもあるまいに」と勾践は言ったが、范蠡は、

「たしかに今生の別れにはならないでしょうが、しばらく分かれねばならないでしょう」

と言い、教えを続けた。

 

2015年5月26日火曜日

十八史略(57)-伍子胥と呉越戦争(18)

 「范蠡、そなたの言葉に従わなかったためにこういう羽目に陥った。しかし、どうしたらよいであろうか」

勾践は范蠡の前にうなだれた。

范蠡は答えた。

「恥を忍んで降伏する以外にないでしょう。越の宝物をすべて呉に献上し、わが君自らが、呉王にお仕えなさい」

「わたしに夫差の奴隷になれと申すのか」

「奴隷になれたら、めっけものです。命があれば今日の恥を雪ぐ日もございましょう」

「夫差はわたしを許すであろうか」

「伍子胥が反対するでしょう」

「それでは、わたしの命はないではないか」

「呉王夫差が必ずしも伍子胥の進言を聞くとはかぎりません」

「しかし、夫差は伍子胥の言を聞くこと父のごとしというぞ」

「呉の重臣は伍子胥だけではありません。伯嚭もかなりの影響力をもっています。この男、財物に弱いと聞いております」

「買収するというわけだな」

「その役目なら種(しよう)がよかろう。しかし、それだけで、大丈夫だろうか」

「呉王夫差が伍子胥の主張にどこまで対応できるかでしょう。1対1では、夫差は伍子胥に屈するでしょう。だから、伯嚭に夫差を応援させるのです」

「伍子胥の強い意見に伯嚭の後押しだけで勝てるだろうか」

「まだほかに打ってございます」

「どんな手か?」

「西湖のほとりにひとりの女をおいてあります。呉王に献上するためです。呉王への影響力を発揮する術は、その女に授けてあります」

「どのような女か?」

「絶世の美女でございます。幼い頃からわたしの手元においておりましたが、長じては、呉王夫差の性格を研究し、夫差が喜びそうな女に育て上げました」

「范蠡、おまえは?」

勾践は絶句した。

范蠡は複雑な表情をした。

そこまで用意していたというのは、范蠡は勾践が夫差に敗れることを見通していたということになる。

 

2015年5月25日月曜日

十八史略(56)-伍子胥と呉越戦争(17)

 闔閭(こうりょ)のあと、夫差(ふさ)が即位した。夫差は父との約束を忘れぬように、宮殿の庭先に兵士を立たせ、自分が出入りするたびに、

「夫差よ!父が越王勾践に殺されたことを忘れたのか!」と大声で叫ばせた。そして、

「いえ、けっして忘れはいたしませぬ」と答えた。

夫差もついつい忘れそうになったが、庭先の兵士の怒号で体を震わせた。

 夫差は伍子胥(ごししょ)がそばにいると体が竦む気がした。庭先の兵士が教えられたとおりの言葉を叫ぶと、伍子胥の唇が冷笑しているように思えた。

伍子胥の楚の平王に対する怨恨はじつに凄まじいものであった。16年経っても薄くならず、かれは平王の屍体を形がとどめぬほどに滅多打ちした。おっとりとした江南の夫差にはできぬことであった。夫差は伍子胥の執念をどろどろしすぎていると不快に思うこともあった。

夫差は自らの意志が弱いことを自覚しており、寝るときは薪の上で寝た。これが“臥薪”である。そうでもしないと、ついつい忘れそうになることを戒めた。伍子胥の場合は、そのようなことをせずとも16年間復讐心が弱まったり、ましてや忘れることはなかった。

夫差の場合は、生まれながらに王の子であり、父の闔閭や伍子胥のように激しい闘争心を燃やす必要もなかった。夫差はこれまで怨念の塊のような伍子胥を毛嫌いしていた。ところが、父の臨終の言葉で、かれも怨念のひとの仲間入りした。呉王夫差と伍子胥の関係がうまくいったのは、夫差が越に対する復讐に燃えた3年間であったといえる。夫差は父との約束どおりに3年目に越を破った。この復讐劇の成功は、伍子胥と伯嚭(はくひ)という楚からの亡命者をよく使ったことが大きい。

呉が着々と富国強兵の実を上げていることに越王勾践(こうせん)は焦った。

「これは呉の準備が整わないうちに制しなければ、こちらが危ない」

と先制攻撃を決意した。

これには苑蟸(はんれい)が猛烈に反対した。先制攻撃の不利も説いたが、

「これは決まったことだ」と勾践は作戦を実行した。

 越軍は最初は国境線をやすやすと突破し、呉の奥まで侵入した。ところが、これは呉軍が弱かったとか、油断をしていたのではなく、越軍を懐深く誘い込もうという作戦であった。これを越王勾践は、呉軍は弱いと解した。敵を侮っていた。一方、呉軍は復讐の念に燃えていた。

 

2015年5月24日日曜日

十八史略(55)-伍子胥と呉越戦争(16)

復讐の春秋 臥薪嘗胆より
 新しく即位した夫差は、宮殿の庭先に家臣を立たせ、自分が出入りするたびに、

「夫差よ!越王勾践がおまえの父王を殺したことをもう忘れたのか!」

と、大声で叫ばせた。

呉王夫差は、そのたびに越軍に追いまくられ、父が亡くなったときを思い出して、屈辱に震えた。

そして、

「いえ、忘れはいたしませぬ」

と、答えるのであった。

夫差は庭先の家臣の言葉を父の霊からの言葉として聞いた。

憎しみは時間とともに薄くなる。

夫差はそれを忘れぬために、家臣に父の霊の代役を命じた。

伍子胥は楚の平王に対する怨恨はじつに激しいものであった。

16年たっても少しも薄れずかれは、平王の屍体を滅多打ちにした。

だが、江南の文化人である夫差は伍子胥ほど徹底した復讐心は持たなかった。逆に夫差は伍子胥の執念をどろどろしすぎており、不快に思うこともあった。

夫差はふわふわした床には寝ず、ごつごつした薪の上で寝た。

――臥薪嘗胆の臥薪である。

伍子胥はそういうこともせずに復讐心が弱まることもなかった。

ここが呉王夫差と家臣の伍子胥の差であった。

夫差は生まれたときから王の子であった。おっとりと育ったのであった。

このため、怨念の塊のような伍子胥を心の奥で嫌っていた。

しかし、父の最期の言葉によって、怨念の人の仲間入りとなった。

呉王夫差と伍子胥の関係がうまくいったのは、夫差が越に対して復讐の怨念を燃やした3年間であった。

この3年間は伍子胥と伯嚭という楚からの亡命者の献策を用いたので、国力は充実した。

呉が着々と富国強兵を図っているという情報が入ってくると越王勾践は焦った。

呉がまだ充実せぬ間に先手を討とうと思った。

范蠡は猛然と反対した。

先制攻撃の欠点、問題点をこんこんと説いたが、勾践は

「これはすでに決めたことだ」と、先制攻撃を実践した。

はたして、范蠡の言うとおりになった。

越軍は簡単に呉領を蹂躙した。

勾践は、呉兵弱しと甘く見た。

このとき、呉は越兵を懐深く誘い込むという戦術であった。

太湖の夫椒山におびきこまれた越軍は、満を持した呉軍に攻められ壊滅的な敗北を喫した。

越王勾践は敗残兵をまとめて退却をしようとしたが、呉兵は執拗にどこまでも追撃してきた。

越軍は、追い詰められて会稽山に追い上げられた。呉軍は会稽山を十重二十重に包囲した。

絶体絶命である。

 

2015年5月23日土曜日

十八史略(54)-伍子胥と呉越戦争(15)

范蠡は

「兵を退くか、奇策を用いるかでしょう」

「兵を退けば、呉軍は勢いに乗って追撃してくるであろう」

「奇策は成功するとはかぎりません」

勾践は

「仕方がない。ここは奇策に賭けよう」

と覚悟を決めた。

大夫の霊姑浮(れいこふ)は

「われわれ、力仕事ならば、なんでもするが、奇策は駄目だ。奇策は范蠡どのにお願いするしかない」

と、范蠡を急かした。

「従軍している重罪人は60名でしたな」

今から言う奇策をいうのを躊躇われた。

「囚人をどうするのです」

霊姑浮が、またも急かした。

「かれらに死んでもらいましょう」

と、范蠡は答えた。あと、腕組みをした。

かれは60名の囚人を集めて言った。

「諸君の命を貰いたい。そのかわりの諸君の家族には大きな恩賞を与える。ここで約束しよう。文書にも残しておく。諸君の命で越を救い、諸君の父母や子たちは、のち裕福な生活ができるだろう。命の捨て所を考えてほしい」

60人の囚人は、いずれも死刑判決を受けたものばかりなので、刑の軽い囚人に比べると投げやりなところもあり、上官の命令でも聞かずに

――文句があるなら、早く殺せ

とうそぶく始末であった。

范蠡はかれらに命令を伝えた。

20名を一隊として、3隊作り、一人ひとりに鋭利な短剣を与えた。

そして、越軍の陣地で突如音楽が鳴り響いた。越軍の音楽隊が全員で演奏した。行進曲である。

呉の陣地でも突然の大きな音楽を聴いてそわそわと落ちつかなくなった。

伍子胥は大声で

「ただの音楽だ。おちつけ!」

(范蠡の智慧もこんなものかと思った)

だが、音楽だけではなく、20人の短剣を持った兵士が、横一列になって、呉の陣地に向かって歩いてきた。

呉の陣地も騒がしくなってきた。

「なんだ、なんだ、どうしたのだ」

伍子胥は、一斉に矢を放って、終わらせようと思ったが、范蠡の出方が読めなかった。

闔閭の命令は、しばし相手の出方を見よであった。

 

2015年5月22日金曜日

十八史略(53)-伍子胥と呉越戦争(14)

范蠡
 呉軍は勝っている間は、背後の越は気にならなかったが、負けると越が堪えるようになってきた。

これを呉王闔閭の弟の夫概(ふがい)は、この状況に目をつけていた。夫概は勇猛で知られており、闔閭は内心恐れていた。今回の楚遠征でも夫概が独断専行し、楚の本陣に殴り込みをかけ、結果的には楚軍を敗走させた。夫概は野戦で勝つたびに自信をつけた。

そして、王位を狙おうと考え始めた。

夫概はひそかに戦線を離脱すると、呉の本国に帰って自立した。

ーー夫概、帰国して、王と称す

という知らせが入ると、闔閭は烈火の如く怒り、全軍を率いて、帰国した。

夫概は自信過剰で、現状の見極めが出来ていなかった。

兄闔閭の軍に一蹴された。命からがら逃げ出し、あろうことか、これまで戦った楚に亡命した。楚はかれを受け入れて、堂谿(どうけい)という土地を与えた。

闔閭は帰国後も楚に出兵したが、今回のことに懲りて自らは出陣せず、太子の夫差に指揮を執らせた。

この頃から呉の正面の敵は、楚ではなく、越に替っていた。

呉王闔閭は、楚に出陣中に空き巣狙い同然に呉に侵入した越をけっして許そうとはしなかった。

越のごとき国に隙を衝かれたことが我慢ならない。しかし、越は、名臣范蠡(はんれい)の努力によって隣国の強敵とも戦えるように成長していた。

越との国境戦争程度の小さな小競り合いはあったが、大きな衝突とはならなかった。呉王闔閭も范蠡の名を聞いてからは、無謀な戦はしかけなかった。

ところが、闔閭が即位して19年(前496年)に越王允常(いんじょう)が死に、呉はやっと越を討つ機会をもった。越王は勾践(こうせん)があとを継いだ。

闔閭は越討伐の動員令を発した。

このときも、伍子胥は

「越には范蠡がいることをお忘れなく」

と言ったが、闔閭の心の隅には、

――越、なにするものぞ。所詮は漁師上がりではないか

という侮蔑の気持ちがあった。

このとき、呉越の戦場は、檇李(すいり)というところであった。

両軍は対峙したまま、時間のみが過ぎた。

「こんなはずはない」

呉の陣営では、参謀たちが首を傾げた。

楚との戦争で実践で鍛えられているはずである。

越の都の会稽まで一気に攻め込もうと思ったのが、越軍に迎撃され、どうにも動かない形になっている。

ただし、長陣になった場合に重要になる補給線は、越の方が長く不利である。

「長引きそうじゃな」

と、勾践は眉を顰めて范蠡に言った。

 

2015年5月21日木曜日

十八史略(52)-伍子胥と呉越戦争(13)

7日7晩泣き続けたといわれる申包胥
 
「かならず楚を滅ぼしてみせる」

と、かつて伍子胥が言ったときに親友の申包胥は

「それなら、わたしは楚を興してみせる」と、答えた。

申包胥は、まっすぐに秦に行き、援軍を乞うた。

秦は断った。

申包胥は秦の宮殿の前の広場にて、7日7晩、泣き続けた。

飲まず食わずで泣き続けたのである。

伍子胥に負けぬ執念であった。

これには、秦の哀公も感動した。

哀公は大声で、『無衣』の詩を謡った。

 
君は衣がないわけじゃないが

きみと同じ服を着よう

いざ王が兵をおこすとき

われらは槍を磨き

きみと同じ敵に向かおう

という歌詞である。

これは秦の歌謡で『詩経』に収録されている。

――君と同じ敵に向かおう

ということで、援軍を引き受けたのである。

宮殿の塀越しに、この『無衣』の詩を聞くと、

申包胥は狂喜し、9回も頭を下げた。

秦は申包胥のために500乗の戦車を貸した。

1乗は馬4、士3、兵72、輜重25であるから、

 馬2000頭

士卒3万7500人

輜重1万2500人という兵力を動員したのである。

申包胥はこの秦の援軍とともに、呉軍と戦った。

そして、稷(河南省)でこれを破った。

これまで、呉は楚と5度戦い5度勝った。

稷ではじめて負けたのである。

 

2015年5月20日水曜日

十八史略(51)-呉越戦争(12)

 楚では、新王のもとで、新しい体制が構築され、前の王の時代の権力者が、次々と粛清された。

名門の伯州犂(はくしゅうり)も粛清され、その孫の伯嚭(はくひ)が呉に亡命した。

「お互いに楚の王には怨みが深いのう」

と、伯嚭が伍子胥に言った。

「あんたの怨みはわたしの怨みよりも深いかな」

と、伍子胥が言った。

「それは、わしの方が深いだろう。わしなら楚王の血につながる者を養おうとはせぬわ」

伯嚭は、勝ったと言わんばかりの顔をして、呉でえらくなった伍子胥の前から去った。

 たしかに伍子胥は楚の太子建とともに亡命し、建が鄭で殺されてからは、その子の勝を連れて、道中、病気になり、乞食までし、懸賞金をかけられてまで、楚王の血をひく勝を離さなかった。

伯嚭が帰った後、伍子胥は、たしかにそういう考え方もあるなと考えていると、うしろに人の気配がした。少年であった。

勝である。

「今の話を聞いたか?」

「はい」と、勝は頷いた。

伍子胥は説明せねばなるまいと思った。これまで、一緒に行動をともにしたが、説明をしたことはなかった。はたから見ると、伍子胥と勝の関係は、祖父と孫の関係に見えたに違いない。

「わたしのカタキは、そなたの祖父であった。もう亡くなったが、わたしの怨みは消えないのだ。カタキの孫であるそなたに、わたしが心を寄せ、今日までそなたを育てて来たかわかるか」

勝の父親の建とは、主従関係であったが、勝とは少し違う。

伯嚭に言われて、初めて考えてみた。

今は、勝を安心させねばならない。

どう話そうかと言う前に勝はきっぱりと言った。

「知っております。あなたは父と兄を殺されました。私も父を鄭に殺されました。同じようにカタキをもつ者どうしだからです」

勝の父である太子建は晋の頃(けい)王に唆されて、鄭を乗っ取ろうとし、従者の密告で殺された。

伍子胥は寒気が奔った。かれは、勝に

「おまえのカタキは鄭だ。鄭を恨め」と言ったことはなかった。

しかし、勝は伍子胥から、復讐心を吸収していたのである。

 

2015年5月19日火曜日

十八史略(50)-呉越戦争(11)

 光は、すぐに即位した。呉王闔閭(こうりょ)である。

闔閭が即位して、真っ先にやったのは、専諸の子を上卿(大臣)に取り立てることであった。

その翌日、新王の使者が伍子胥のところに迎えに来た。

呉王闔閭は伍子胥を「行人(こうじん)」に任命した。

行人は外相に相当するとも言われるが、もっと要職である。行人は王のまつりごとを補佐するわけであるが、宰相と考えていいだろう。

このとき、闔閭の叔父で、父諸樊の末弟である季札は、使者として晋に行っていた。

季札は、賢人の誉れが高い。闔閭の祖父の寿夢は、末子の季札に王位を譲ろうと考えていたが、当人が受けず、そのために王位が横に横に回されたことは前に述べた。

 季札が、晋から戻ると、国人はかれの発言を固唾をのんで待ち構えた。

季札は呉の王となるべき人物であった。それを譲りに譲り、どうしても受けねばならないときには、逃げ出した。どの王も彼には一目を置き、彼を王に次ぐ席を用意した。誰が王になっても彼はつねに第2位であった。

かれの意見は重んじられた。

そのかれが、何と言うのか?

季札は、

「新しい王が祖先の廟をたやさず、民があるじを廃さず、社稷が奉じられすれば、それはわたしの君主である。わたしは誰も怨まない。死んだ僚を哀悼し、生きている闔閭に仕え、天命を待とう」

と、言った。

 このとき、季札が闔閭を非難しておれば、呉の国は乱れたであろう。

闔閭は季札の話を聞いて、内心でほっとした。

 楚に出征して、楚に退路を断たれた僚の二人の弟は、兄の僚が殺され、光が呉王闔閭として立ったことを聞き、全軍を率いて、楚に下った。

 楚はこのふたりに領地を与えた。

 

2015年5月18日月曜日

十八史略(49)-伍子胥と呉越戦争(10)

専諸
 伍子胥は、城築が終わったのち、光に願い出た。

「城造りで少し疲れました。しばらく休みをいただきたいと思います」

「わしを見限るのか」

「いえ、そうではありません。わたしの代わりに、いまの公子にもっと役に立つ人間を推挙したいと思います」

「ほう、何者じゃ」

「専諸(せんしょ)と申します。剣の達人です。それにすばらしい胆力をもっております。かれほど自分の命を軽く扱う人間は見たことがありません。是非、おそばで使ってください」

「そうか。分った。そなたは、大きな城を築くときまで、休養をとっておれ」

伍子胥は、あるじの許しを得て、田舎に籠もり、悠々自適、晴耕雨読の生活に入った。

楚の平王への復讐は、光が呉の王になるまでは、どうしようもない。光のクーデターには、よそ者の伍子胥は役に立たなかった。それまで眠ることにした。

 クーデターの引き金になるのは、専諸のような男であった。

 呉王僚の11年(紀元前516年)にいくら憎んでも憎みきれない楚の平王が死んだ。

伍子胥はしばらく起き上がれなかった。この悔しさを分かち合えるものも回りにいなかった。

 父と兄を殺した楚の平王への復讐こそが、生きがいであった。その復讐を果たさぬ前に相手は、死んでしまった。

(楚こそ、オレの仇だ)と自分に言い聞かせた。

伍子胥は、目的を失いかけたが、気を取り直した。

呉王の僚は平王の死を利用しようとした。楚の平王のあと太子の軫(しん)があとを継いだ。以前に話したが、太子建のために秦から公女を迎えようとしたが、これがあまりに美しかったので、平王の妃とした。これを画策したのが費無忌(ひむき)であった。この公女が産んだ子が軫である。軫は楚の昭王となった。

楚国の人心は動揺し、この乱れのもとを作ったのは、費無忌であったので、これを殺さねばならぬと国人は捜した。危険を感じた費無忌は、営営と貯えた家財を馬車に積み、楚を逃げ出そうとしたところを捕まり殺されてしまった。平王に続き費無忌までもが死んでしまった。

――これは、絶好の機会と、呉王僚は出兵した。

戦上手の楚は、これを迎え撃つふりをして、主力を迂回させ、呉軍の退路を断った。楚に進軍した呉軍は退路を断たれたために楚領内で膠着状態に陥った。

――これぞ天の与えた好機ぞ。

と、公子の光は思った。

――本来、自分が持つべき王位を取り返す好機である。都には、兵は少ない。楚から急に戻ることはできない。

さて、どのようにしてクーデターを起こすか?

伍子胥がおいていった専諸を呼んだ。

「どうすればよい?」

「今こそ、王を殺すべきときですな。楚に行った兵はすぐには戻れません」

光の望む答えが返ってきた。

専諸のことは、司馬遷の『史記』の刺客列伝の中にもある。

光は武装兵を地下室に潜ませた。そして、王をわが邸に招待した。戦線が膠着しており、これを慰めるためとした。呉王も警戒しながらも喜んで招きに応じた。

それでも呉王は用心しており、沿道にも警備兵を並べ、光の邸に入るときも、身内や腹心の部下に守らせた。

 専諸は、焼魚を盆にのせて、王の前にまかり出た。

 この時代は、王の前に出る者は、寸鉄も身に帯びることはできなかった。信任の厚い近衛兵だけが例外であった。

 専諸は焼魚の腹の中に匕首をのませて王の前に出たのである。

 焼魚を献上するふりをして、魚の腹から匕首を取り出し、間髪をいれず、王の心臓をまっすぐに衝いたのである。

 呉王僚は即死であった。

 専諸は期待に背かなかった。

 むろん、生還は期していない。

 王の心臓を衝き、血が噴流する中で、近衛兵の剣がかれの体をえぐっていた。

専諸もまた即死であった。
公子光はすばやく地下室の兵に突撃を命じ、王の側近を斬り殺した。あっけないクーデターであった。