2015年6月5日金曜日

十八史略(67)-伍子胥と呉越戦争(28)


蘇州博物館:呉王夫差の剣
 太子の友が殺されたという情報は、夫差に衝撃を与えた。

太子の殺害は、越の自信を示している。

夫差もさすがに事の重大さを悟り、宋を討つことをやめて、まっすぐに帰国した。

王の命令で、破損された宮殿、庭園の修理が、最優先された。庶民の生活に関連のある場の損害は、あとまわしにされた。軍事施設の回復も、なかなかはかどらない。越では呉から持って帰った戦利品は、民生の面にまわされ、軍備もますます拡張された。

差はひらくばかりである。

覇者になりたいばかりに、「正義の味方」を気取り、あちこちに出兵していた。いつの時代の戦争でも、優秀な兵士が真っ先に死ぬものなのだ。気がついてみると、呉には精兵はいなくなっていた。

越は手をゆるめない。ときどき国境線をつっつく。呉兵は翻弄され、土地を割譲したり、賠償金を支払うことで、その場を糊塗する始末である。

越はじわじわと呉を追い詰めて行く。

国家非常の際というのに、宮殿だけは旧にまして立派に再建される。そして、呉の兵士の武器は、多年の外征でくたびれたままであった。宮殿造営費を捻出するために、しばしば増税がおこなわれた。人民も疲れ果てていた。

越王勾践みずから兵を率いて、かなり大きな作戦を敢行した。太湖に近い笠沢というところで、呉軍は越の大軍に惨敗を喫した。

呉はじり貧であった。

笠沢の役の2年後、呉に侵攻した越軍は、そのまま残留した。呉の国都姑蘇は包囲された。包囲は3年に及んだ。呉王夫差は遂に屈した。

覇者の夢が破れたばかりか、亡国のあるじとなるうきめをみた。降伏の使節として、呉で大臣公孫雄が越の陣地に送られた。彼は肌ぬぎとなり、膝を使って越王の前にいざり進んだ。これは奴隷のしきたりである。

「かつて大王を会稽に苦しめましたが、そのとき和を結んで帰国いたしました。このたびも、和を結びとうございます」

范蠡はじっと勾践の表情をみつめた。彼はそこに動揺の色を認めた。

 

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