2015年6月16日火曜日

消費税上げの回避

 昨年4月からの消費税について、黒田東彦日銀総裁は、やっと公式にその悪影響が予想以上であったことを認めた。5月13日の参院デフレ脱却・財政再建調査会で、「予想を超えた大きさだった」と答弁した。「消費増税の影響は軽微」と安易に予想したことが間違いであったわけである。わたしは、税金を増やすことは反対である。小さな政府がいい。大きな政府にすると、小さくしないといけない場合も小さく出来ず、結局増税に頼る。

景気を冷や水ためだけであれば、増税は望ましい。1989年の消費税創設は、バブル景気の真っただ中であり、その当時は、景気に冷や水をかけても問題なかった。しかし、税金が増えることに味を占めた財務省はその後も、必要以上に引き締め、「失われた20年」を招いてしまった。この政策を実行した官僚はどこにいったのだろう。金融政策の典型的な失敗であり、国民を豊かにすることに失敗したいい事例である。

今のままであれば、消費増税は法律によって景気条項なしでビルトインされている。政治的には、新たな法律で増税を消すことも可能だが、そのためには政治的なエネルギーが必要である。

20174月の前の政治イベントとしては、167月に予定されている参院選がある。このときの公約に消費税をどう盛り込むか。消費増税は、まだ最終的に確定ではない。是非、上げない方向で論議してほしい。

2015年6月15日月曜日

大阪都構想否決

橋下市長オフィシャルサイトより
 大阪都構想に決着に結果が出て、橋下市長や各党、メデイアがどう出るかと思っていたら、音無しである。橋下市長も静かである。傷ついた身体を癒しているのだろうか。次の生活の糧を探しているのであろうか。この騒ぎは何だったのだろうかと不思議に思う。

大阪都構想は、大きくなりすぎた大阪市を5つの特別区に分けて住民参加をしやすくするというものである。反対派は、「そもそも無駄な二重行政はない」「5つの特別区に分けると初期コストがかかる」などと反論した。また、「一度、大阪都になると元に戻れない」と不安をあおる人もいた。さらに「税金や公共料金が上がる」という声もあった。

賛成派は、大阪府がりんくうゲートタワービルに659億円、大阪市が旧WTC1193億円など、類似プロジェクトへの投資は至る所にあったと言った。

大阪都構想は、海外の大都市や東京都でも運営実績のある制度なので、失敗はまず考えられない。賛成派は大阪維新の会だけで、反対派は自民、民主、公明、共産のすべての会派が反対した。大阪都構想で反対派がこれだけそろうと、それぞれが組織票を持っているので、反対派票はかなりのものになったと推察される。反対派は政治思想がバラバラなので、大阪都構想への対案を作ることはできない。現状維持にならざるを得ない。またこれを望んでいる感がある。

菅義偉官房長官は記者会見で「人口約370万人の横浜市の職員が19000人なのに対し、人口270万人の大阪市の職員が約35000人いる」と指摘した。この指摘は当たっている。勤務時間中も喫茶店に行って時間を潰していた人たちが過去には多くいた。大阪は東京に比べて、交通インフラ整備の遅れなど都市問題も山積だが、現状維持でそれらをどう解決できるのだろうか。橋下市長も1回負けたくらいで、投げ出すのだろうか。

2015年6月12日金曜日

中国経済危機

  中国は、昨年11月以来3度目の政策金利引き下げに踏み切った。不況に陥った国は利下げにより内需を刺激すると同時に、利下げによって誘導される自国通貨安によって輸出をテコ入れをしようとする。

中国の場合、当局は人民元相場を安くするどころか、逆に上昇させている。利下げで景気を暖めながら、為替政策で冷や水をかける。実に矛盾に満ちていると云われている。

中国の外貨準備は昨年6月末をピークに減り続け、ピーク時に比べ昨年12月末で1500億ドル減、今年3月末2630億ドル減となった。中国は、年間3000億ドル前後のペースで外貨を調達しているが、それでも外準が大幅に減る。「世界一の外準保育」を誇っていても見せかけに過ぎず、内実は外貨窮乏症に悩まされている。だからアジアインフラ投資銀行(AIIB)の看板を掲げて、国際金融市場からも借り入れを容易にしようという算段であり、利下げは通常、資金流出を加速させる要因である。

 不動産相場が下落基調にある中では、やはりカネが逃げる。不動産がダメなら、株がある。党主導で上海株式市場に資金を誘導し、株価をつり上げている。利下げすることによって、さらに株価を引き上げる。日本、アメリカの株も上がっているが、中国の株は比較にならないくらいに高い。逆に言えば、日本の株は安いと証券会社なども煽る。しかし、上場企業の収益は悪化が止まらないので、株価は実力とはかけ離れていくばかりである。いつどーんと下がってもおかしくない。

2015年6月11日木曜日

東芝ショック

  529日、東芝は不適切な会計で激震が走った。日経ダウが好調に推移している中で、冷や水をかけたかんじであった。6月25日に一応定時株主総会を開くが、これで終わるものではない。第三者調査委員会の調査結果が、7月中旬に出て、8月中旬に有価証券報告書が出て、9月下旬に臨時株主総会という段取りになる。上場廃止となる可能性は必ずしもゼロではない。実際に決算発表が行われるまでは、不安定な状態が続くだろう。

123月期~143月期の営業利益を累計で500億円強、下方修正することを必要とした。下方修正がこのレベルで収まるかどうかはまったく不透明である。仮に有価証券報告書に“虚偽記載”があったと認定され、その上で、“影響が重大”と判断されたならば、東芝株は『管理銘柄』へ直行することになる。多分、そうとはならないと思うが。いずれにしろ、大東芝で何が起こったのだろう。まだ、詳しくは語られていない。

 

2015年6月10日水曜日

十八史略(70)-伍子胥と呉越戦争(31)

 陶朱公范蠡の墓

 范蠡は斉で海辺に耕し、実業にはげみ、数十万金の大資産家になった。斉の人たちは彼に宰相の地位についてほしいと懇願したが、彼はため息をつき、

「尊い名誉を久しく受けることは不祥である」

と言い、集めた財産をすべて知人に分け与え、陶という土地にのがれた。

 陶でも彼は実業家として、数億の資産を築いた。陶での彼は、陶朱公と自称したが、中国ではその後、富裕の形容に、「陶朱の富」という語を用いるようになった。

 古代では、一、十、百、千、万、億と、正確に十進法に従っていた。だから、億とは十万のことであった。人間の勘定能力が発達するに連れて、万と億にあいだが引き伸ばされ、十万、百万、千万から万万に至って現在の億になった。

宮仕えしては上将軍、宰相と、その位人臣をきわめ、下野してからは巨億の財産家となり、その上、西施のような美女を得たのだから、最高の人生といえる。

范蠡は実在したのではなく、架空の人物であるという説もある。いろんな人物の良いほうの事蹟が、彼の名の下に集められたという可能性はある。

呉の滅亡の六年前に孔子は死んでいる。孔子の編集したという『春秋』に呉の滅亡が記されているのはおかしい。これは、『春秋』の註釈を作った左氏が補筆したものだからである。

春秋と戦国は、晋の分裂をその境とする。

流浪の公子重耳が帰国して、超大国に育て上げた晋も、紀元前453年に、趙・韓・魏の三国に分裂した。呉の滅亡のちょうど20年後のことである。晋から分かれた三国が、周の王室から諸侯として正式に認められたのはさらに50年後の紀元前403年のことだった。春秋と戦国の境は、晋の事実上の分裂の年とする前453年説と、正式に分裂が承認された前403年説と、二説がある。

現在では、春秋と戦国と言ったわけ方よりも、奴隷制社会か封建制社会かと言った時代区分のほうが重要とされている。

 

 

2015年6月9日火曜日

十八史略(69)-伍子胥と呉越戦争(30)

范蠡と西施像
 予想は范蠡のほうが当たっていた。

越の密使がこのことを伝えたところ、夫差は謝して言った。

「私は年老いて、もはや君主に仕えることはできません。ただ、その綬は頂戴いたしましょう」

綬とは官職のしるしとして帯びる印鑑のひもについた飾りで、戦時にあって臨時応変、旗の代用にもした。密使がたずさえていたのは、百家の長の綬であった。巾は三尺である。

綬を受取った夫差は、家臣にむかって、「わしが死んだあと、顔にこの綬をかけてくれ。あの世へ行って、伍子胥に会わせる顔がないからのう」

と言った。

夫差は自刃して果て、呉は滅びた。

ときに周の元王3年(前473)であった。

 
 宿敵の呉を滅ぼしたあと、越は苦労の時代を終え、これから快楽の時代を迎える。

「王もこれまでの王とは違うようになるぞ」

范蠡はそう予見した。

「長居は無用だな。」

彼はそうひとりごとを呟き、身を退くことを考えた。

呉の滅亡のとき、彼はひそかに西施を救い出して、我が家に隠していた。その西施を范蠡は愛した。だが、彼女は、「あたしは越の国では暮らせませぬ。敵国の呉王に寵愛された女よと、ひとに指さされます。あたしが越のためにわが身をささげたことは、范蠡さま、あなたお一人だけがご存知でございます。誰もわかってくれません」

と、泣きつづけた。

「よし、ではこの越を出よう」

范蠡は西施を連れて、海路、斉へ行った。

彼は斉から越の大臣種に手紙を送り、

「鳥がいなくなれば、良い弓でもしまわれます。兎が死に絶えると、猟犬も煮られて食われるものです。越王の人相は、頸が長く、口は鳥のようにとがっていますが、このような人物は、苦しみを共にすることはできるが、楽しみを共にすることはできません。あなたはどうして越王から去らないのですか」と忠告した。

 はたして越王勾践は、種を疑って自殺を命じた。

 

2015年6月8日月曜日

十八史略(68)-伍子胥と呉越戦争(29)

春秋時代の中国
 21年前、会稽に包囲された勾践は、その身を殺され、国土を奪われるところまで追い詰められ、夫差の温情で救われた。いま、その返しとして、夫差を救ってやってもよいのではないか。

このとき、范蠡は立ち上がっていった。

「会稽のことは、天が越を呉に与えたのに、呉王夫差が天に逆らって受け取らなかっただけですぞ。いま天が呉を越に賜うのであります。天に逆らえるでしょうか?ごらんなさい、21年前、天に逆らった者の運命が、目の前にございます」

「むごいことよのう」

越王勾践は呟いた。

范蠡はかまわずに太鼓を打った。

「講和は拒否された。呉の使者よ、早々に立ち去るがよい」

呉の使者公孫雄は泣いて去った。

「わしはせめて夫差の命は助けたい。そのかわり、呉の国はのこさぬことにする。どうじゃな」

「夫差をどうなさいます?」

「舟山の小島に流し、漁村の村長ぐらいにすればよかろう。あそこでは、兵を集めることもかなわぬはずじゃ。いまの夫差の苦しみ、わが身にかんじるぞ」

「夫差を舟山の島で、百家の長にする。しかし、夫差がそれを受けますかな?」

「受けるほかはなかろう」

「私は受けないと思います」

 

2015年6月5日金曜日

十八史略(67)-伍子胥と呉越戦争(28)


蘇州博物館:呉王夫差の剣
 太子の友が殺されたという情報は、夫差に衝撃を与えた。

太子の殺害は、越の自信を示している。

夫差もさすがに事の重大さを悟り、宋を討つことをやめて、まっすぐに帰国した。

王の命令で、破損された宮殿、庭園の修理が、最優先された。庶民の生活に関連のある場の損害は、あとまわしにされた。軍事施設の回復も、なかなかはかどらない。越では呉から持って帰った戦利品は、民生の面にまわされ、軍備もますます拡張された。

差はひらくばかりである。

覇者になりたいばかりに、「正義の味方」を気取り、あちこちに出兵していた。いつの時代の戦争でも、優秀な兵士が真っ先に死ぬものなのだ。気がついてみると、呉には精兵はいなくなっていた。

越は手をゆるめない。ときどき国境線をつっつく。呉兵は翻弄され、土地を割譲したり、賠償金を支払うことで、その場を糊塗する始末である。

越はじわじわと呉を追い詰めて行く。

国家非常の際というのに、宮殿だけは旧にまして立派に再建される。そして、呉の兵士の武器は、多年の外征でくたびれたままであった。宮殿造営費を捻出するために、しばしば増税がおこなわれた。人民も疲れ果てていた。

越王勾践みずから兵を率いて、かなり大きな作戦を敢行した。太湖に近い笠沢というところで、呉軍は越の大軍に惨敗を喫した。

呉はじり貧であった。

笠沢の役の2年後、呉に侵攻した越軍は、そのまま残留した。呉の国都姑蘇は包囲された。包囲は3年に及んだ。呉王夫差は遂に屈した。

覇者の夢が破れたばかりか、亡国のあるじとなるうきめをみた。降伏の使節として、呉で大臣公孫雄が越の陣地に送られた。彼は肌ぬぎとなり、膝を使って越王の前にいざり進んだ。これは奴隷のしきたりである。

「かつて大王を会稽に苦しめましたが、そのとき和を結んで帰国いたしました。このたびも、和を結びとうございます」

范蠡はじっと勾践の表情をみつめた。彼はそこに動揺の色を認めた。

 

2015年6月4日木曜日

十八史略(66)-伍子胥と呉越戦争(27)

 
黄池会盟 呉王夫差 晋の定公と覇権を争う
越兵が呉都に乱入したしらせは、早馬によって、黄池にいる夫差にもたらされた。


「小癪な!」

「この事実を外に漏らす者は斬る!」

と夫差は厳重な箝口令をしいた。

秘密漏洩のかどで、斬刑に処せられた者が7名いた、とある。黄池の会盟は、結局晋の定公が長となった。地理的に、いつでも大軍を繰り出すことができたので、その力のまえには、夫差もどうすることもできなかった。

「大王さま、勾践のような賤しい者の名を、そう口になさいますな」

と、西施は眉をしかめて言った。

夫差は出征のときも、陣中に西施を伴っていた。片時も離さなかった。西施は眉をひそめると、一そう美しくみえた。眉のあたりに、ひきしまったポイントがつくられ、それが新しい魅力を生む。当時、呉王の宮殿では、宮女たちが西施を真似て、悲しくもなんともないのに、眉をひそめるポーズをつくるのが流行ったという。西施捧心という。

「ほう、勾践は賤しいか」

「カラスのような口をしております」

「なるほど、勾践の口はとがっておるわい」

口のつき出たのは、卑賤の相とされていた。

怒りはエネルギーである。本来なら、そのエネルギーが燃えているうちに、急ぎ東南にとって返し、越を討つべきであろう。それなのに、西施は夫差の怒りを操作した。

黄池での会盟のあと、彼はすぐに帰国せずに、宋を討とうとして、中原の地をうろうろしていた。

「宋を討って、勝てないことはありませんが、国もとがしっかりしておりませんから、いずれにしても帰国しなければなりません」

と、大臣の伯嚭は言った。

帰国の途中で宋を討伐するのは、余力をみせるためである。現実は厳しかった。詳報が入るにつれて、越の進攻がたんなる駆け足のひっかきまわしではなく、予想以上のダメージを与えられたことが判明した。

 

2015年6月3日水曜日

十八史略(65)-伍子胥と呉越戦争(26)

 呉に攻め込んでの戦いは、水戦が主になるだろう。それを予想して、越では水軍の訓練に力を入れていた。4万の将士に、水泳の名手二千を配し、親衛軍と幕僚6千、兵站経理などを司る官員一千。これが越の討呉軍であった。

国を空っぽにしている呉が、この越の精兵を支え切れるわけはない。

「なに越兵だと?まさか」

少数の留守部隊も、越兵侵攻の知らせを聞いて、しばらく半信半疑であった。

范蠡の指導した「恭順作戦」がみごとに成功したともいえる。勾践のうやうやしさは、とても見せかけとは思えなかった。

それを見破りうる唯一の人材伍子胥(ごししょ)は、すでにこの世の人ではなかった。

周の敬王38年(前482)の6月に、越軍は呉に攻め込んだ。乙酉の日に、越兵5千が呉の留守部隊を、呉都の前方で撃滅した。呉の太子の友は捕虜となった。丁亥の日には、越兵が呉都に入った。

勾践以下越の大軍は、呉の東門から入城した。伍子胥が死ぬ直前、わが目玉をくり抜いて、呉のみやこの東門にのせてくれ。越兵が攻めこんで、呉を滅ぼすのをこの目で見物してやろうぞ!と叫んだあの東門である。

揚子江に投げ込まれたので、伍子胥の目玉はそこにはない。呉の滅亡はもうすこし先になる。しかし、大勢は伍子胥が予想している方向にうごきつつあった。

 

2015年6月2日火曜日

十八史略(64)-伍子胥と呉越戦争(25)

越王勾践
 伍子胥亡きあと、もはや諌言の臣はいない。

子胥が死んで3年たった。

越王勾践は范蠡を呼び、「子胥亡きあと、呉には人材はいない。そろそろ兵をむけようか?」

と訊ねた。

「もうしばらくお待ちなさいませ。いまの呉は、たいへんな速度で、国力を消耗させております。遠からず好機が来るでしょう」

と、范蠡は答えた。

独り立ちおぼつかないわと死ぬ前に伍子胥がそう言ったと聞き、呉王夫差は発奮した。夫差は覇者になることに熱中した。

一種の道楽である。呉国のためではない。死んだ伍子胥にたいする意地もあった。

伍子胥が息子を託した斉の大臣鮑氏は、主君の悼公と折合いが悪く、 いつか誅殺されそうだ、それなら先手をうってやろうと、悼公を殺してしまった。

「不忠の臣である。天に代わって伐つ」

呉王夫差は礼儀に従って門外で3日つづけて哀悼の哭泣をおこなったのち、斉にむかって攻め込んだ。

斉軍は善戦して、呉軍を撃退した。

3年後、夫差は中原のまっただ中の黄池で、中原の諸侯と会盟した。この中国首長会議の議長を勤めた者が、すなわち覇者になる。

呉の始祖泰伯は、もともと周王室では長男であった。会盟の長は当然呉の当主でなければならない。

夫差はそう主張した。

これにたいして、晋の定公は、呉は子爵にすぎないが、晋は伯爵である。会盟の長は晋のあるじのほかはないと、譲らない。

実力――軍事力がものをいうのである。このため、夫差はほとんど全国の精兵を率いて北上していた。

「現在、呉は太子が留守を預かっておりますが、老人と女子供しかおりません。どうやら会稽の恥を雪ぐ時機が参ったようでございますな」

と、范蠡は越王勾践に言った。

「おう、長く待ったぞ。すぐに動員令を」

勾践は目をかがやかせた。

 

2015年6月1日月曜日

十八史略(63)-伍子胥と呉越戦争(24)

 呉王夫差は、彼女にために宮殿をさかんに造営した。宮殿や庭園の造営には、ずいぶん費用がかかり、それだけ国力が削られた。伍子胥の諫言は、このころになると、もはや逆効果でしかなかった。息子を斉にのこしてきたのも、伍子胥が呉に絶望したからであった。

呉王夫差はそれを指摘した。

「申しのこすことはあるか?」

呉王の使者が来たので、伍子胥は跪いているのである。

伍子胥は目を開いた。そこには名剣「属鏤(しょくる)」が置かれている。王が彼に下賜したものだ。たんなる贈物ではない。その剣で自殺せよ、というのである。

使者は、申しひらきではなく、申しのこすことはないかと訊いたのだった。

士大夫は弁解しないのが、中国古代のしきたりである。君主に疑われたなら死ぬほかない。それだけに、身を慎むことを要した。

「王に伝えよ」

伍子胥はそういって立ち上がった。もはや主従の礼をとらない意思を示した。彼は肩をそびやかして、激しい声で言葉をつづけた。

「わしはなんじの父闔閭を覇者にさせたし、諸公子のなかからなんじをえらんで即位させてやった。なんじははじめ、呉国の半分をわしにくれると言ったが、わしは受けなかった。それなのに、わしを疑って殺そうとする。いまになって、やっと人を疑うことを知ったのか。それなのに、まだ越王勾践や范蠡を疑おうとせぬ。たわけめ!そんなことでは、独り立ちもおぼつかないわ。わっ、はっ、はっ」

次に伍子胥は家の子郎党たちにむかって言った。

「よいか、わしの墓には梓を植えよ。それで呉王夫差の棺桶が造れるようにな。それから、わしの目玉をくり抜いて、呉のみやこの東門にのせてくれ。越兵が攻めこんで、呉を滅ぼすのをこの目で見物してやるからな」

言い終えると、彼は属鏤の剣を両手でつかみ、自分の喉に刃をあて、はずみをつけて前へ伏した。名剣である。伍子胥の首がとんだ。

伍子胥の最期の言葉を使者から聞いた夫差は、さすがに怒り狂った。

「ほざいたな、子胥め!墓のなかに入れるとでも思っておったか。たわけ者!」

残忍な処分を命じた。

「子胥の屍体は、馬の革に包んで、江(揚子江)に投げ込め!」

こうして、伍子胥は水と縁の深い怨霊になった。