2015年5月24日日曜日

十八史略(55)-伍子胥と呉越戦争(16)

復讐の春秋 臥薪嘗胆より
 新しく即位した夫差は、宮殿の庭先に家臣を立たせ、自分が出入りするたびに、

「夫差よ!越王勾践がおまえの父王を殺したことをもう忘れたのか!」

と、大声で叫ばせた。

呉王夫差は、そのたびに越軍に追いまくられ、父が亡くなったときを思い出して、屈辱に震えた。

そして、

「いえ、忘れはいたしませぬ」

と、答えるのであった。

夫差は庭先の家臣の言葉を父の霊からの言葉として聞いた。

憎しみは時間とともに薄くなる。

夫差はそれを忘れぬために、家臣に父の霊の代役を命じた。

伍子胥は楚の平王に対する怨恨はじつに激しいものであった。

16年たっても少しも薄れずかれは、平王の屍体を滅多打ちにした。

だが、江南の文化人である夫差は伍子胥ほど徹底した復讐心は持たなかった。逆に夫差は伍子胥の執念をどろどろしすぎており、不快に思うこともあった。

夫差はふわふわした床には寝ず、ごつごつした薪の上で寝た。

――臥薪嘗胆の臥薪である。

伍子胥はそういうこともせずに復讐心が弱まることもなかった。

ここが呉王夫差と家臣の伍子胥の差であった。

夫差は生まれたときから王の子であった。おっとりと育ったのであった。

このため、怨念の塊のような伍子胥を心の奥で嫌っていた。

しかし、父の最期の言葉によって、怨念の人の仲間入りとなった。

呉王夫差と伍子胥の関係がうまくいったのは、夫差が越に対して復讐の怨念を燃やした3年間であった。

この3年間は伍子胥と伯嚭という楚からの亡命者の献策を用いたので、国力は充実した。

呉が着々と富国強兵を図っているという情報が入ってくると越王勾践は焦った。

呉がまだ充実せぬ間に先手を討とうと思った。

范蠡は猛然と反対した。

先制攻撃の欠点、問題点をこんこんと説いたが、勾践は

「これはすでに決めたことだ」と、先制攻撃を実践した。

はたして、范蠡の言うとおりになった。

越軍は簡単に呉領を蹂躙した。

勾践は、呉兵弱しと甘く見た。

このとき、呉は越兵を懐深く誘い込むという戦術であった。

太湖の夫椒山におびきこまれた越軍は、満を持した呉軍に攻められ壊滅的な敗北を喫した。

越王勾践は敗残兵をまとめて退却をしようとしたが、呉兵は執拗にどこまでも追撃してきた。

越軍は、追い詰められて会稽山に追い上げられた。呉軍は会稽山を十重二十重に包囲した。

絶体絶命である。

 

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