2015年6月16日火曜日

消費税上げの回避

 昨年4月からの消費税について、黒田東彦日銀総裁は、やっと公式にその悪影響が予想以上であったことを認めた。5月13日の参院デフレ脱却・財政再建調査会で、「予想を超えた大きさだった」と答弁した。「消費増税の影響は軽微」と安易に予想したことが間違いであったわけである。わたしは、税金を増やすことは反対である。小さな政府がいい。大きな政府にすると、小さくしないといけない場合も小さく出来ず、結局増税に頼る。

景気を冷や水ためだけであれば、増税は望ましい。1989年の消費税創設は、バブル景気の真っただ中であり、その当時は、景気に冷や水をかけても問題なかった。しかし、税金が増えることに味を占めた財務省はその後も、必要以上に引き締め、「失われた20年」を招いてしまった。この政策を実行した官僚はどこにいったのだろう。金融政策の典型的な失敗であり、国民を豊かにすることに失敗したいい事例である。

今のままであれば、消費増税は法律によって景気条項なしでビルトインされている。政治的には、新たな法律で増税を消すことも可能だが、そのためには政治的なエネルギーが必要である。

20174月の前の政治イベントとしては、167月に予定されている参院選がある。このときの公約に消費税をどう盛り込むか。消費増税は、まだ最終的に確定ではない。是非、上げない方向で論議してほしい。

2015年6月15日月曜日

大阪都構想否決

橋下市長オフィシャルサイトより
 大阪都構想に決着に結果が出て、橋下市長や各党、メデイアがどう出るかと思っていたら、音無しである。橋下市長も静かである。傷ついた身体を癒しているのだろうか。次の生活の糧を探しているのであろうか。この騒ぎは何だったのだろうかと不思議に思う。

大阪都構想は、大きくなりすぎた大阪市を5つの特別区に分けて住民参加をしやすくするというものである。反対派は、「そもそも無駄な二重行政はない」「5つの特別区に分けると初期コストがかかる」などと反論した。また、「一度、大阪都になると元に戻れない」と不安をあおる人もいた。さらに「税金や公共料金が上がる」という声もあった。

賛成派は、大阪府がりんくうゲートタワービルに659億円、大阪市が旧WTC1193億円など、類似プロジェクトへの投資は至る所にあったと言った。

大阪都構想は、海外の大都市や東京都でも運営実績のある制度なので、失敗はまず考えられない。賛成派は大阪維新の会だけで、反対派は自民、民主、公明、共産のすべての会派が反対した。大阪都構想で反対派がこれだけそろうと、それぞれが組織票を持っているので、反対派票はかなりのものになったと推察される。反対派は政治思想がバラバラなので、大阪都構想への対案を作ることはできない。現状維持にならざるを得ない。またこれを望んでいる感がある。

菅義偉官房長官は記者会見で「人口約370万人の横浜市の職員が19000人なのに対し、人口270万人の大阪市の職員が約35000人いる」と指摘した。この指摘は当たっている。勤務時間中も喫茶店に行って時間を潰していた人たちが過去には多くいた。大阪は東京に比べて、交通インフラ整備の遅れなど都市問題も山積だが、現状維持でそれらをどう解決できるのだろうか。橋下市長も1回負けたくらいで、投げ出すのだろうか。

2015年6月12日金曜日

中国経済危機

  中国は、昨年11月以来3度目の政策金利引き下げに踏み切った。不況に陥った国は利下げにより内需を刺激すると同時に、利下げによって誘導される自国通貨安によって輸出をテコ入れをしようとする。

中国の場合、当局は人民元相場を安くするどころか、逆に上昇させている。利下げで景気を暖めながら、為替政策で冷や水をかける。実に矛盾に満ちていると云われている。

中国の外貨準備は昨年6月末をピークに減り続け、ピーク時に比べ昨年12月末で1500億ドル減、今年3月末2630億ドル減となった。中国は、年間3000億ドル前後のペースで外貨を調達しているが、それでも外準が大幅に減る。「世界一の外準保育」を誇っていても見せかけに過ぎず、内実は外貨窮乏症に悩まされている。だからアジアインフラ投資銀行(AIIB)の看板を掲げて、国際金融市場からも借り入れを容易にしようという算段であり、利下げは通常、資金流出を加速させる要因である。

 不動産相場が下落基調にある中では、やはりカネが逃げる。不動産がダメなら、株がある。党主導で上海株式市場に資金を誘導し、株価をつり上げている。利下げすることによって、さらに株価を引き上げる。日本、アメリカの株も上がっているが、中国の株は比較にならないくらいに高い。逆に言えば、日本の株は安いと証券会社なども煽る。しかし、上場企業の収益は悪化が止まらないので、株価は実力とはかけ離れていくばかりである。いつどーんと下がってもおかしくない。

2015年6月11日木曜日

東芝ショック

  529日、東芝は不適切な会計で激震が走った。日経ダウが好調に推移している中で、冷や水をかけたかんじであった。6月25日に一応定時株主総会を開くが、これで終わるものではない。第三者調査委員会の調査結果が、7月中旬に出て、8月中旬に有価証券報告書が出て、9月下旬に臨時株主総会という段取りになる。上場廃止となる可能性は必ずしもゼロではない。実際に決算発表が行われるまでは、不安定な状態が続くだろう。

123月期~143月期の営業利益を累計で500億円強、下方修正することを必要とした。下方修正がこのレベルで収まるかどうかはまったく不透明である。仮に有価証券報告書に“虚偽記載”があったと認定され、その上で、“影響が重大”と判断されたならば、東芝株は『管理銘柄』へ直行することになる。多分、そうとはならないと思うが。いずれにしろ、大東芝で何が起こったのだろう。まだ、詳しくは語られていない。

 

2015年6月10日水曜日

十八史略(70)-伍子胥と呉越戦争(31)

 陶朱公范蠡の墓

 范蠡は斉で海辺に耕し、実業にはげみ、数十万金の大資産家になった。斉の人たちは彼に宰相の地位についてほしいと懇願したが、彼はため息をつき、

「尊い名誉を久しく受けることは不祥である」

と言い、集めた財産をすべて知人に分け与え、陶という土地にのがれた。

 陶でも彼は実業家として、数億の資産を築いた。陶での彼は、陶朱公と自称したが、中国ではその後、富裕の形容に、「陶朱の富」という語を用いるようになった。

 古代では、一、十、百、千、万、億と、正確に十進法に従っていた。だから、億とは十万のことであった。人間の勘定能力が発達するに連れて、万と億にあいだが引き伸ばされ、十万、百万、千万から万万に至って現在の億になった。

宮仕えしては上将軍、宰相と、その位人臣をきわめ、下野してからは巨億の財産家となり、その上、西施のような美女を得たのだから、最高の人生といえる。

范蠡は実在したのではなく、架空の人物であるという説もある。いろんな人物の良いほうの事蹟が、彼の名の下に集められたという可能性はある。

呉の滅亡の六年前に孔子は死んでいる。孔子の編集したという『春秋』に呉の滅亡が記されているのはおかしい。これは、『春秋』の註釈を作った左氏が補筆したものだからである。

春秋と戦国は、晋の分裂をその境とする。

流浪の公子重耳が帰国して、超大国に育て上げた晋も、紀元前453年に、趙・韓・魏の三国に分裂した。呉の滅亡のちょうど20年後のことである。晋から分かれた三国が、周の王室から諸侯として正式に認められたのはさらに50年後の紀元前403年のことだった。春秋と戦国の境は、晋の事実上の分裂の年とする前453年説と、正式に分裂が承認された前403年説と、二説がある。

現在では、春秋と戦国と言ったわけ方よりも、奴隷制社会か封建制社会かと言った時代区分のほうが重要とされている。

 

 

2015年6月9日火曜日

十八史略(69)-伍子胥と呉越戦争(30)

范蠡と西施像
 予想は范蠡のほうが当たっていた。

越の密使がこのことを伝えたところ、夫差は謝して言った。

「私は年老いて、もはや君主に仕えることはできません。ただ、その綬は頂戴いたしましょう」

綬とは官職のしるしとして帯びる印鑑のひもについた飾りで、戦時にあって臨時応変、旗の代用にもした。密使がたずさえていたのは、百家の長の綬であった。巾は三尺である。

綬を受取った夫差は、家臣にむかって、「わしが死んだあと、顔にこの綬をかけてくれ。あの世へ行って、伍子胥に会わせる顔がないからのう」

と言った。

夫差は自刃して果て、呉は滅びた。

ときに周の元王3年(前473)であった。

 
 宿敵の呉を滅ぼしたあと、越は苦労の時代を終え、これから快楽の時代を迎える。

「王もこれまでの王とは違うようになるぞ」

范蠡はそう予見した。

「長居は無用だな。」

彼はそうひとりごとを呟き、身を退くことを考えた。

呉の滅亡のとき、彼はひそかに西施を救い出して、我が家に隠していた。その西施を范蠡は愛した。だが、彼女は、「あたしは越の国では暮らせませぬ。敵国の呉王に寵愛された女よと、ひとに指さされます。あたしが越のためにわが身をささげたことは、范蠡さま、あなたお一人だけがご存知でございます。誰もわかってくれません」

と、泣きつづけた。

「よし、ではこの越を出よう」

范蠡は西施を連れて、海路、斉へ行った。

彼は斉から越の大臣種に手紙を送り、

「鳥がいなくなれば、良い弓でもしまわれます。兎が死に絶えると、猟犬も煮られて食われるものです。越王の人相は、頸が長く、口は鳥のようにとがっていますが、このような人物は、苦しみを共にすることはできるが、楽しみを共にすることはできません。あなたはどうして越王から去らないのですか」と忠告した。

 はたして越王勾践は、種を疑って自殺を命じた。

 

2015年6月8日月曜日

十八史略(68)-伍子胥と呉越戦争(29)

春秋時代の中国
 21年前、会稽に包囲された勾践は、その身を殺され、国土を奪われるところまで追い詰められ、夫差の温情で救われた。いま、その返しとして、夫差を救ってやってもよいのではないか。

このとき、范蠡は立ち上がっていった。

「会稽のことは、天が越を呉に与えたのに、呉王夫差が天に逆らって受け取らなかっただけですぞ。いま天が呉を越に賜うのであります。天に逆らえるでしょうか?ごらんなさい、21年前、天に逆らった者の運命が、目の前にございます」

「むごいことよのう」

越王勾践は呟いた。

范蠡はかまわずに太鼓を打った。

「講和は拒否された。呉の使者よ、早々に立ち去るがよい」

呉の使者公孫雄は泣いて去った。

「わしはせめて夫差の命は助けたい。そのかわり、呉の国はのこさぬことにする。どうじゃな」

「夫差をどうなさいます?」

「舟山の小島に流し、漁村の村長ぐらいにすればよかろう。あそこでは、兵を集めることもかなわぬはずじゃ。いまの夫差の苦しみ、わが身にかんじるぞ」

「夫差を舟山の島で、百家の長にする。しかし、夫差がそれを受けますかな?」

「受けるほかはなかろう」

「私は受けないと思います」

 

2015年6月5日金曜日

十八史略(67)-伍子胥と呉越戦争(28)


蘇州博物館:呉王夫差の剣
 太子の友が殺されたという情報は、夫差に衝撃を与えた。

太子の殺害は、越の自信を示している。

夫差もさすがに事の重大さを悟り、宋を討つことをやめて、まっすぐに帰国した。

王の命令で、破損された宮殿、庭園の修理が、最優先された。庶民の生活に関連のある場の損害は、あとまわしにされた。軍事施設の回復も、なかなかはかどらない。越では呉から持って帰った戦利品は、民生の面にまわされ、軍備もますます拡張された。

差はひらくばかりである。

覇者になりたいばかりに、「正義の味方」を気取り、あちこちに出兵していた。いつの時代の戦争でも、優秀な兵士が真っ先に死ぬものなのだ。気がついてみると、呉には精兵はいなくなっていた。

越は手をゆるめない。ときどき国境線をつっつく。呉兵は翻弄され、土地を割譲したり、賠償金を支払うことで、その場を糊塗する始末である。

越はじわじわと呉を追い詰めて行く。

国家非常の際というのに、宮殿だけは旧にまして立派に再建される。そして、呉の兵士の武器は、多年の外征でくたびれたままであった。宮殿造営費を捻出するために、しばしば増税がおこなわれた。人民も疲れ果てていた。

越王勾践みずから兵を率いて、かなり大きな作戦を敢行した。太湖に近い笠沢というところで、呉軍は越の大軍に惨敗を喫した。

呉はじり貧であった。

笠沢の役の2年後、呉に侵攻した越軍は、そのまま残留した。呉の国都姑蘇は包囲された。包囲は3年に及んだ。呉王夫差は遂に屈した。

覇者の夢が破れたばかりか、亡国のあるじとなるうきめをみた。降伏の使節として、呉で大臣公孫雄が越の陣地に送られた。彼は肌ぬぎとなり、膝を使って越王の前にいざり進んだ。これは奴隷のしきたりである。

「かつて大王を会稽に苦しめましたが、そのとき和を結んで帰国いたしました。このたびも、和を結びとうございます」

范蠡はじっと勾践の表情をみつめた。彼はそこに動揺の色を認めた。

 

2015年6月4日木曜日

十八史略(66)-伍子胥と呉越戦争(27)

 
黄池会盟 呉王夫差 晋の定公と覇権を争う
越兵が呉都に乱入したしらせは、早馬によって、黄池にいる夫差にもたらされた。


「小癪な!」

「この事実を外に漏らす者は斬る!」

と夫差は厳重な箝口令をしいた。

秘密漏洩のかどで、斬刑に処せられた者が7名いた、とある。黄池の会盟は、結局晋の定公が長となった。地理的に、いつでも大軍を繰り出すことができたので、その力のまえには、夫差もどうすることもできなかった。

「大王さま、勾践のような賤しい者の名を、そう口になさいますな」

と、西施は眉をしかめて言った。

夫差は出征のときも、陣中に西施を伴っていた。片時も離さなかった。西施は眉をひそめると、一そう美しくみえた。眉のあたりに、ひきしまったポイントがつくられ、それが新しい魅力を生む。当時、呉王の宮殿では、宮女たちが西施を真似て、悲しくもなんともないのに、眉をひそめるポーズをつくるのが流行ったという。西施捧心という。

「ほう、勾践は賤しいか」

「カラスのような口をしております」

「なるほど、勾践の口はとがっておるわい」

口のつき出たのは、卑賤の相とされていた。

怒りはエネルギーである。本来なら、そのエネルギーが燃えているうちに、急ぎ東南にとって返し、越を討つべきであろう。それなのに、西施は夫差の怒りを操作した。

黄池での会盟のあと、彼はすぐに帰国せずに、宋を討とうとして、中原の地をうろうろしていた。

「宋を討って、勝てないことはありませんが、国もとがしっかりしておりませんから、いずれにしても帰国しなければなりません」

と、大臣の伯嚭は言った。

帰国の途中で宋を討伐するのは、余力をみせるためである。現実は厳しかった。詳報が入るにつれて、越の進攻がたんなる駆け足のひっかきまわしではなく、予想以上のダメージを与えられたことが判明した。

 

2015年6月3日水曜日

十八史略(65)-伍子胥と呉越戦争(26)

 呉に攻め込んでの戦いは、水戦が主になるだろう。それを予想して、越では水軍の訓練に力を入れていた。4万の将士に、水泳の名手二千を配し、親衛軍と幕僚6千、兵站経理などを司る官員一千。これが越の討呉軍であった。

国を空っぽにしている呉が、この越の精兵を支え切れるわけはない。

「なに越兵だと?まさか」

少数の留守部隊も、越兵侵攻の知らせを聞いて、しばらく半信半疑であった。

范蠡の指導した「恭順作戦」がみごとに成功したともいえる。勾践のうやうやしさは、とても見せかけとは思えなかった。

それを見破りうる唯一の人材伍子胥(ごししょ)は、すでにこの世の人ではなかった。

周の敬王38年(前482)の6月に、越軍は呉に攻め込んだ。乙酉の日に、越兵5千が呉の留守部隊を、呉都の前方で撃滅した。呉の太子の友は捕虜となった。丁亥の日には、越兵が呉都に入った。

勾践以下越の大軍は、呉の東門から入城した。伍子胥が死ぬ直前、わが目玉をくり抜いて、呉のみやこの東門にのせてくれ。越兵が攻めこんで、呉を滅ぼすのをこの目で見物してやろうぞ!と叫んだあの東門である。

揚子江に投げ込まれたので、伍子胥の目玉はそこにはない。呉の滅亡はもうすこし先になる。しかし、大勢は伍子胥が予想している方向にうごきつつあった。

 

2015年6月2日火曜日

十八史略(64)-伍子胥と呉越戦争(25)

越王勾践
 伍子胥亡きあと、もはや諌言の臣はいない。

子胥が死んで3年たった。

越王勾践は范蠡を呼び、「子胥亡きあと、呉には人材はいない。そろそろ兵をむけようか?」

と訊ねた。

「もうしばらくお待ちなさいませ。いまの呉は、たいへんな速度で、国力を消耗させております。遠からず好機が来るでしょう」

と、范蠡は答えた。

独り立ちおぼつかないわと死ぬ前に伍子胥がそう言ったと聞き、呉王夫差は発奮した。夫差は覇者になることに熱中した。

一種の道楽である。呉国のためではない。死んだ伍子胥にたいする意地もあった。

伍子胥が息子を託した斉の大臣鮑氏は、主君の悼公と折合いが悪く、 いつか誅殺されそうだ、それなら先手をうってやろうと、悼公を殺してしまった。

「不忠の臣である。天に代わって伐つ」

呉王夫差は礼儀に従って門外で3日つづけて哀悼の哭泣をおこなったのち、斉にむかって攻め込んだ。

斉軍は善戦して、呉軍を撃退した。

3年後、夫差は中原のまっただ中の黄池で、中原の諸侯と会盟した。この中国首長会議の議長を勤めた者が、すなわち覇者になる。

呉の始祖泰伯は、もともと周王室では長男であった。会盟の長は当然呉の当主でなければならない。

夫差はそう主張した。

これにたいして、晋の定公は、呉は子爵にすぎないが、晋は伯爵である。会盟の長は晋のあるじのほかはないと、譲らない。

実力――軍事力がものをいうのである。このため、夫差はほとんど全国の精兵を率いて北上していた。

「現在、呉は太子が留守を預かっておりますが、老人と女子供しかおりません。どうやら会稽の恥を雪ぐ時機が参ったようでございますな」

と、范蠡は越王勾践に言った。

「おう、長く待ったぞ。すぐに動員令を」

勾践は目をかがやかせた。

 

2015年6月1日月曜日

十八史略(63)-伍子胥と呉越戦争(24)

 呉王夫差は、彼女にために宮殿をさかんに造営した。宮殿や庭園の造営には、ずいぶん費用がかかり、それだけ国力が削られた。伍子胥の諫言は、このころになると、もはや逆効果でしかなかった。息子を斉にのこしてきたのも、伍子胥が呉に絶望したからであった。

呉王夫差はそれを指摘した。

「申しのこすことはあるか?」

呉王の使者が来たので、伍子胥は跪いているのである。

伍子胥は目を開いた。そこには名剣「属鏤(しょくる)」が置かれている。王が彼に下賜したものだ。たんなる贈物ではない。その剣で自殺せよ、というのである。

使者は、申しひらきではなく、申しのこすことはないかと訊いたのだった。

士大夫は弁解しないのが、中国古代のしきたりである。君主に疑われたなら死ぬほかない。それだけに、身を慎むことを要した。

「王に伝えよ」

伍子胥はそういって立ち上がった。もはや主従の礼をとらない意思を示した。彼は肩をそびやかして、激しい声で言葉をつづけた。

「わしはなんじの父闔閭を覇者にさせたし、諸公子のなかからなんじをえらんで即位させてやった。なんじははじめ、呉国の半分をわしにくれると言ったが、わしは受けなかった。それなのに、わしを疑って殺そうとする。いまになって、やっと人を疑うことを知ったのか。それなのに、まだ越王勾践や范蠡を疑おうとせぬ。たわけめ!そんなことでは、独り立ちもおぼつかないわ。わっ、はっ、はっ」

次に伍子胥は家の子郎党たちにむかって言った。

「よいか、わしの墓には梓を植えよ。それで呉王夫差の棺桶が造れるようにな。それから、わしの目玉をくり抜いて、呉のみやこの東門にのせてくれ。越兵が攻めこんで、呉を滅ぼすのをこの目で見物してやるからな」

言い終えると、彼は属鏤の剣を両手でつかみ、自分の喉に刃をあて、はずみをつけて前へ伏した。名剣である。伍子胥の首がとんだ。

伍子胥の最期の言葉を使者から聞いた夫差は、さすがに怒り狂った。

「ほざいたな、子胥め!墓のなかに入れるとでも思っておったか。たわけ者!」

残忍な処分を命じた。

「子胥の屍体は、馬の革に包んで、江(揚子江)に投げ込め!」

こうして、伍子胥は水と縁の深い怨霊になった。

 

2015年5月31日日曜日

十八史略(62)-伍子胥と呉越戦争(23)

 使者の一行のなかに、彼は自分の息子を加えて、帰国のときは斉にのこした。斉の大臣の鮑氏にその息子を託した。

このことを夫差に告げたのは、西施であった。

「西施よ、どうしたのか?からだの工合が悪いのか?」

「からだではございませぬ。心の工合が良くないのでございます」

「からだは別だが、心はおなじ、と思っていた。からだの工合が悪いのには気づかないでも、心の揺れうごきはすぐにわかるはずだった。それがわからないとは。教えてくれ、心のどこが痛むのか?」

「あたしはもと貧しい洗濯女でございました。こうしてお情けを受けておりますが、いまは故郷の苧羅村に帰って、また川で衣類を洗う生活に戻りとうございます」

「なぜじゃ?わしのそばにいたくないと申すのか?」

「そうではございません。ただおそろしくて。あの方でございます」

「伍子胥だな」

「あの方はご息子を斉に残されました。後顧の憂いなく、思いきったことをなさるおつもりでございましょう。ふだんから、あの方はあたしによくありません。あたしを見るあの方の目……それはもうおそろしゅうございます。いざというとき、まず狙われるのは、あたしにちがいありません」

「心配いたすな。伍子胥め、思いきったことをしようにも、それが出来ぬようにしてやるわ」

西施の名は、『春秋左伝』や『史記』などの正史にはみえない。後漢時代につくられた『呉越春秋』など野史にしか登場しない。


 

2015年5月30日土曜日

十八史略(61)-伍子胥と呉越戦争(22)

 夫差即位11年(前485)、呉は動員令を下し、再び北伐を強行しようとした。
「斉を攻めるよりも、わが国にとって腹心の病根とでも言うべき越を、まず滅ぼさねばなりませぬ。でなければ、いつ背後を襲われるか、知れたものではありませんぞ」

夫差は唇を突き出して、「その越はのう、こんどの北伐に、かねて訓練した兵の三分の二を従軍させる、と申しておるぞ。それから、戦費も負担するそうじゃ。それが、わが背後を襲うかの?」

「ますますご用心なさいませ」

「おまえにはついて行けぬは」

顔さえ見たくない夫差は伍子胥を遠ざける方法を考えた。

「おまえは越のことばかり申して、斉の事情すら知らぬではないか。使者として派遣するから、一度斉を見て参れ。」

「命令でございますか?」

「そうじゃ」

「それでは、仕方がありません。行って参りましょう」

伍子胥は

「俺は嫌われている。それで、こうして遠ざけられるのだ」

と直感した。

楚の平王の屍体を鞭うった時、彼は老いをかんじ、「日暮れて道遠し」と言った。それからもう20年もたっている。どうやら、道も行き詰まりになっているらしい。

 

2015年5月29日金曜日

十八史略(60)-伍子胥と呉越戦争(21)

蘇州城内の伍子胥像.
 はたして伍子胥は、満面に朱をそそぎ、太い眉を吊り上げて回廊を走ってきて、反対した。

「范蠡の釈放は、すでに決めたことだ」

夫差は冷たく言い捨てた。

「勾践を許すときの約束でございましたぞ」

と、それでも伍子胥は詰め寄った。

彼の怒りは、あるじ夫差の心に、ふしぎな喜悦を導いた。

「勾践と范蠡の主従を、分離するという方針であった。しかし、勾践はたびたび呉に来て参内しておる。勾践は一年の半ばを呉と越ですごしておるのだから、范蠡をどちらに置いてもおなじではないか」

「おなじではございませぬ。越に放てば、手が届かなくなります。虎を放つようなものです」

「越はわが属国ぞ。どこにも手は届くわ」

「越では国もとの大夫種が、兵を訓練しているということです」

「知っておる。呉国に危急のときに、援兵を出せるように、兵を調教しておるそうじゃ。おまえは、くどいのう。敵はいつまでも敵ではない。恩恵を施すことによって、誰よりも頼りになる味方にすることもできるのだ」

閨房のなかで、西施がこれに似たことを申しておった。真似ているのではない、二人の心はひとつなのだから、おなじことを口にするのは当然だ。

「甘すぎますぞ」と、伍子胥は声をあらげて言った。

「ものごとは、ほどほどがよいのじゃ。わしにはのう、死屍に鞭うつような真似はできぬ」

さすがにこれには伍子胥も返す言葉がなかった。

 

2015年5月28日木曜日

十八史略(59)-伍子胥と呉越戦争(20)

蠡園の西施像
 越の降伏後5年、呉王夫差(ふさ)は斉に出兵した。60年に近い治世をおこなった斉の景公が死に、その後、斉の国は乱れていた。上昇志向の強い夫差はこれを狙った。

「出兵の好機ぞ」と、夫差は判断した。

「背後に越があることをお忘れなく」と、伍子胥(ごししょ)は諫めて言った。

「越になにができるというのか」

夫差は構わずに北伐の兵をおこし、斉軍を艾陵というところで破った。

自分も南方の後進国風情であることを忘れていた。謙虚さを欠いていた。

越王勾践(こうせん)はあくまでも恭順を装っていた。妻とともに呉に出向くと、呉王に仕えること奴婢のようであった。呉王は勾践に、石室に住まわせ、わが父闔閭(こうりょ)の墓の番人をさせたりもした。勾践は唯々として、墓の番人をつとめた。墓域の草とりなどもした。

「この男、もはや王としての誇りもなければ気力もない」

夫差は勾践の勤めぶりを見て、見くびった。

これこそ勾践の思う壺であった。

蔑まれることがひどければひどいほど、越のためになる。

范蠡にそういわれている。

「可哀想に。范蠡さんを国に帰してあげたらどうでしょう。あたしと違って、あの方は、国に家族をのこしているのに」

愛妃の西施は眉をしかめて言った。

「越での収穫は、勾践を破ったことよりも、この西施を得たことだ」

夫差はそう考えるようになっていた。

彼女の言うことなら、どんなことでも彼は聞き入れた。

「よし、范蠡を帰国させよう」

夫差はその場で決定した。

理屈ではない、生理的な嫌悪感であった。

「なりませぬ、なりませぬ!」

 

2015年5月27日水曜日

十八史略(58)-伍子胥と呉越戦争(19)

蚶満寺境内に建つ西施の石像
 范蠡によって夫差好みに育てられた女は西施(せいし)という。

勾践のかすかな非難の表情を見て、范蠡は

「これは、昔から使われた手法です。かの妲己(だっき)も殷の紂王を暴虐に誘い、殷を滅亡させるために育てられた女でした」

勾践は、今となっては、これに期待せねばならないが、憮然とした表情をした。

勾践はあまり期待をしなかったが、西施が呉王夫差を動かした。

西施の役目は、それほど難しいものではなかった。

臥薪している夫差を本来の性格に戻すだけでよかった。

夫差は復讐の怨念の仮面を被るはいやで堪らなかった。

今、会稽山を厳重に囲み、父の仇の越王は袋のネズミであった。復習は、もう果たされたも同然であると思った。

そこに西施というすばらしい美少女が現れた。この世の汚れを知らぬ処女であった。西施は若いが言うことは、いちいち理屈に適っていた。夫差は美人でも愚かな女は嫌いであった。西施は夫差の理想的な女に思えた。

――夫差は西施に夢中になった。

「越を追い詰めては、怨みが残ります。怨みの道は、人の道ではありません」

西施に言われると、たしかにそうだと思った。

「わたしたちは、楚の人間ではありません」と、西施は言った。

このとき、楚の出身である伍子胥のことが、頭をかすめた。

楚は現在の湖南省、湖北省をさす。ここは、情熱家の産地で古来、激しい人物を産んだ。毛沢東主席は湖南で、劉少奇も湖南であり、副主席の林彪は湖北で、長老の董必武も河北だ。

その楚の人である伍子胥は

「今は天が呉に与えたもうた機会です。この機に越を滅ぼしてしまいましょう」

と、夫差に勧めた。

だが、夫差は首を横に振った。

「復讐はすでに成った。父との誓いは果たした。越は滅びたも同然だ。これ以上、屍体に鞭打つことはせぬ」

もうひとりの重臣伯嚭は越に買収されているので、越王を許すことに賛成した。

伍子胥は、

「あとできっと後悔されますぞ」と、言ったが負け犬の遠吠えのようなものであった。

越王勾践は許されたが、会稽山を包囲され、呉に降伏した屈辱は身にしみた。

これを忘れぬために部屋に胆を吊るし、寝起きには、必ずこの苦い胆を嘗めた。

夫差の復讐を忘れぬために薪の上に寝た『臥薪』と勾践が苦い胆を嘗めたという『嘗胆』をあわせて『臥薪嘗胆』という四字熟語が出来た。

勾践は胆を嘗めるたびに

「汝、会稽の恥を忘れたか!」と叫び、おのれを叱咤した。

 
 ある日から范蠡は越王勾践に内政のことや軍事のことを事細かに教え始めた。

「あとで、ゆっくりよいではないか。今生の別れでもあるまいに」と勾践は言ったが、范蠡は、

「たしかに今生の別れにはならないでしょうが、しばらく分かれねばならないでしょう」

と言い、教えを続けた。

 

2015年5月26日火曜日

十八史略(57)-伍子胥と呉越戦争(18)

 「范蠡、そなたの言葉に従わなかったためにこういう羽目に陥った。しかし、どうしたらよいであろうか」

勾践は范蠡の前にうなだれた。

范蠡は答えた。

「恥を忍んで降伏する以外にないでしょう。越の宝物をすべて呉に献上し、わが君自らが、呉王にお仕えなさい」

「わたしに夫差の奴隷になれと申すのか」

「奴隷になれたら、めっけものです。命があれば今日の恥を雪ぐ日もございましょう」

「夫差はわたしを許すであろうか」

「伍子胥が反対するでしょう」

「それでは、わたしの命はないではないか」

「呉王夫差が必ずしも伍子胥の進言を聞くとはかぎりません」

「しかし、夫差は伍子胥の言を聞くこと父のごとしというぞ」

「呉の重臣は伍子胥だけではありません。伯嚭もかなりの影響力をもっています。この男、財物に弱いと聞いております」

「買収するというわけだな」

「その役目なら種(しよう)がよかろう。しかし、それだけで、大丈夫だろうか」

「呉王夫差が伍子胥の主張にどこまで対応できるかでしょう。1対1では、夫差は伍子胥に屈するでしょう。だから、伯嚭に夫差を応援させるのです」

「伍子胥の強い意見に伯嚭の後押しだけで勝てるだろうか」

「まだほかに打ってございます」

「どんな手か?」

「西湖のほとりにひとりの女をおいてあります。呉王に献上するためです。呉王への影響力を発揮する術は、その女に授けてあります」

「どのような女か?」

「絶世の美女でございます。幼い頃からわたしの手元においておりましたが、長じては、呉王夫差の性格を研究し、夫差が喜びそうな女に育て上げました」

「范蠡、おまえは?」

勾践は絶句した。

范蠡は複雑な表情をした。

そこまで用意していたというのは、范蠡は勾践が夫差に敗れることを見通していたということになる。

 

2015年5月25日月曜日

十八史略(56)-伍子胥と呉越戦争(17)

 闔閭(こうりょ)のあと、夫差(ふさ)が即位した。夫差は父との約束を忘れぬように、宮殿の庭先に兵士を立たせ、自分が出入りするたびに、

「夫差よ!父が越王勾践に殺されたことを忘れたのか!」と大声で叫ばせた。そして、

「いえ、けっして忘れはいたしませぬ」と答えた。

夫差もついつい忘れそうになったが、庭先の兵士の怒号で体を震わせた。

 夫差は伍子胥(ごししょ)がそばにいると体が竦む気がした。庭先の兵士が教えられたとおりの言葉を叫ぶと、伍子胥の唇が冷笑しているように思えた。

伍子胥の楚の平王に対する怨恨はじつに凄まじいものであった。16年経っても薄くならず、かれは平王の屍体を形がとどめぬほどに滅多打ちした。おっとりとした江南の夫差にはできぬことであった。夫差は伍子胥の執念をどろどろしすぎていると不快に思うこともあった。

夫差は自らの意志が弱いことを自覚しており、寝るときは薪の上で寝た。これが“臥薪”である。そうでもしないと、ついつい忘れそうになることを戒めた。伍子胥の場合は、そのようなことをせずとも16年間復讐心が弱まったり、ましてや忘れることはなかった。

夫差の場合は、生まれながらに王の子であり、父の闔閭や伍子胥のように激しい闘争心を燃やす必要もなかった。夫差はこれまで怨念の塊のような伍子胥を毛嫌いしていた。ところが、父の臨終の言葉で、かれも怨念のひとの仲間入りした。呉王夫差と伍子胥の関係がうまくいったのは、夫差が越に対する復讐に燃えた3年間であったといえる。夫差は父との約束どおりに3年目に越を破った。この復讐劇の成功は、伍子胥と伯嚭(はくひ)という楚からの亡命者をよく使ったことが大きい。

呉が着々と富国強兵の実を上げていることに越王勾践(こうせん)は焦った。

「これは呉の準備が整わないうちに制しなければ、こちらが危ない」

と先制攻撃を決意した。

これには苑蟸(はんれい)が猛烈に反対した。先制攻撃の不利も説いたが、

「これは決まったことだ」と勾践は作戦を実行した。

 越軍は最初は国境線をやすやすと突破し、呉の奥まで侵入した。ところが、これは呉軍が弱かったとか、油断をしていたのではなく、越軍を懐深く誘い込もうという作戦であった。これを越王勾践は、呉軍は弱いと解した。敵を侮っていた。一方、呉軍は復讐の念に燃えていた。