2014年10月1日水曜日

「十八史略(39)―重耳と驪姫(15)」

 重耳一行は、鄭へ行った。ここでは、冷遇され、すぐに楚へ移った。楚では、歓待された。

 「あなたが無事帰国できたら、わたしに何か恩返しをしていただきたいですな」と楚の成公は冗談交じりに言った。

重耳はゆっくり考えてから、
 「あなたは欲しいものは何でも持っていらっしゃる。なにを差し上げようかと迷います。将来、あなたの軍隊と戦うようになったら、このたびの恩返しとして、わたしの軍を三舎退かせましょう」
と、答えた。

舎とは、軍隊の一日の行軍距離で三舎とは、ほぼ六十キロに相当する。
重耳一行は、楚から秦に入った。秦の穆公は、断りもせずに秦から出奔した圉に腹を立てていたので、重耳に軍を貸した。かくして、重耳一行は、晋に戻れた。十九年は長かった。重耳は即位して文公となったが、そのときには六十を超えていた。したがって、在位期間も十年に満たないものであったが、斉の桓公なきあとの覇者となり、天下に号令をかけた。 

重耳は文公になったあと、曹を攻め、共公を捕虜とした。そして、曹の土地の一部を宋に与えた。そのとき宋の襄公は泓水の戦いでの負傷がもとで死んでおり、子の成公に代わっていた。

紀元前632年、楚がふたたび宋を攻めたときに、宋のために城濮で楚と戦った。以前に三舎退くとの約束にしたがって、三舎退いたが、楚を破った。

また、曹を占領したときには、食べ物を持参して、主人の無礼を詫びた釐負羇の一家を保護した。あのとき、宝玉を返したのは、「おまえの主君は許さぬ、食べ物を受け取ったのは、おまえだけは助けてやろう」という意味を示していた。
 

 紀元前632年、河陽(黄河の北)の践土(河南省)で会盟を行なった。斉の桓公が紀元前651年、葵丘(河南省)で楚に対抗するために会盟を行なって以来である。文公は四年後に亡くなったが晋の覇者の地位は百年続いたといわれる。

文公が短期間に覇者となりえたのは、母方の狄の支援があったためと考える。中原の国が戦車と歩兵の時代に騎馬の狄を味方にしたことは、機動力で圧倒的に有利に立ち、戦争を行なううえで凄まじいメリットがあったと思われる。中原の農業は人が食べるものを作っていたのに対し、狄では牧草で馬や羊に食べさせるものを作り、人が食べるものは、交易もしくは略奪で得ていた。のちに中国が蒙古によって征服されるが、その予兆がすでにこの時代からあったものと思う。