2014年8月29日金曜日

「十八史略(20)―鮑叔牙と管仲⑨」

 無知の天下は、数ヶ月しかもたなかった。無知の即位は紀元前686年で、無知の死は翌年の春であった。無知も襄公に似て、感情の走るままに接してきたために多くの恨みに思う人を作ってきた。無知は雍林の住人に殺された。住人は無知が雍林に来たときにいとも簡単に殺した。

 糾も小白も管仲も鮑叔牙も無知をいかにして除くかを考えていたが、無知はあっさりと死んでしまった。こうなると糾と小白の後継者争いである。

 魯は自分の国に亡命し、自分の国の女が生んだ糾を応援する立場にあった。このため、糾と管仲に兵を貸し、斉に帰国の上、斉の国主にしようと考えた。糾か小白かどちらが先に斉の国都、臨湽に駆けつけるかである。魯は管仲に、糾を臨湽に急ぎ帰らせるとともに、小白の帰国を妨害することを命じた。

 管仲は地理にも詳しく、莒から斉への道を間道にいたるまで熟知していた。管仲は小白がとるであろう道に待ち伏せをした。案の定、小白一行は狙いをつけた道を歩いてきた。

仕損じがあってはならない。管仲は自ら弓を引き絞った。矢には、猛毒が塗られている。わずかな傷でもその毒は全身にまわり、確実に死に至らしめる。小白に狙いをつけた。矢はまっすぐに小白を目がけて飛んだ。

矢は間違いなく小白の腹部に刺さった。馬に乗っていた小白は、「うおーっ」という呻き声をあげて、ドドーッと馬から落ちた。

小白の家来たちが、駆け寄ってきた。嗚咽の声に号泣も混じった。

小白の刺さった矢は、帯の留め金を固定する厚い革に突き立っていた。とっさに小白は死んだ真似をした。

「すぐに棺を用意しろ」と、小さな声で言い、棺が届くと、これに納まり、斉の臨湽へと急いだ。

一方、管仲は自分で矢を射、小白が落馬し、棺に納まったところまで確認した。これが、ひとがやったことなら信用できないが、自らやったことである。管仲は意気揚々と臨湽への道を6日もかけて歩いた。たしかに気が緩んでいた。

 

 

2014年8月28日木曜日

「十八史略(19)―鮑叔牙と管仲⑧」

「どこにかくれたらよいか」

 費は、そこに戸棚があったので、その戸を開いて、
「このなかにしばらく潜んでください」

「そうか、そうか」と襄公はその中に入った。

費は鍵を閉めた。

費が座所に戻ると、造反軍は待ち切れずにすでに突入していた。

座所に襄公はいなかった。無知は費に向かって、

「おまえが知らせたのか」

「そうだ」と費は胸を張って答えた。

そのときには、連称が大刀を振り下ろし、費の首を斬った。

結局、戸棚に隠れていた襄公も見つかり、殺されてしまった。こうして、クーデターは成功し、無知が新しい国主となった。

 この騒ぎに紛れて、まだ臨湽に残っていた襄公の弟で小白の兄の糾は、守役の管仲らと逃げ出した。糾の母は魯の国の出身であったためにこれを頼んで、亡命先に魯を選んだ。

 「無知では国は治まりますまい。あと少しの辛抱ですが、莒に逃げられた弟君の小白様の動向の方が大切です」と、管仲は魯への道中の間に言って聞かせた。

 

2014年8月27日水曜日

「十八史略(18)―鮑叔牙と管仲⑦」

  宮殿に戻った襄公は靴を失くしたことに気づき、靴係の費というものに、「靴はどこにやった」と問うた。

 費は正直に「拾ってくるのを忘れました」と答えると、襄公は凶暴な顔をして、
「鞭をもってまいれ!」と命令し、自ら費を打ち据えた。

『春秋左伝』では、血を見るまで打ち据えたとあり、『史記』には、鞭打つこと300とある。今でも鞭打ちの刑が刑罰としている国があるが、鞭打ちの刑は、瀕死の重傷ともいえる。300回も打たれれば、死の一歩手前といえるだろう。

 費が鞭打たれた体を引きずって、宮殿を出ようとすると造反軍が門の外で勢揃いしていた。

「宮中の人に気づかれずに、襄公のそばに行ける道があります。わたしが案内しましょう」

はじめは、造反軍の誰もが信用しなかったが、費が服を脱いで、背中の傷を見せると、納得し、
「案内しろ」と連称が言った。

費は造反軍の先頭に立って、宮殿の中に入った。座所に近づくと、費は
「先に行って様子を見てきましょう」と、ひとりで中に入った。

一足先に座所に入った費は、襄公たちに造反軍たちが迫っており、逃げるなり、隠れるなりさせるつもりであった。靴の係として、曽祖父の代から仕えている費はいくら鞭打たれても主にそむいてはならないと考えていた。しかし、襄公は凶暴そのものの目をしており、時折、ぴくぴくと動く頬を見ると、このまま助けてもよいのか、躊躇われたが、

「無知様の叛乱でございます。兵を率いてついそこまで乱入しました。急いでお隠れになってください」という言葉が費の口から発せられていた。



 

2014年8月26日火曜日

「十八史略(17)―鮑叔牙と管仲⑥」

 襄公の乱行は日増しに酷くなった。多くの人が襄公を恨んだ。従兄弟の無知は、襄公の父には公子待遇にされていたものが廃止になったために恨んだ。無知は、秘かに不平不満をもつ輩を集めた。

 襄公は連称(れんしょう)を守護隊長に任命していた。そして、その従妹が後宮にいたが、襄公から無視されて一度たりとも寵愛を受けたことがなく、連称は従妹からも不満を聞かされていた。この不満の連称の従妹をスパイとして情報を探らせ、好機が到来するのを待っていた。

 12月に襄公は狩りに出かけた。襄公はかなりの錯乱状態にあった。

 勢子に追われて、一頭の大猪が飛び出してきた。
 「彭生さまだ」
 と叫ぶ者がいた。

 彭生は、少し色も黒く、肥満体で猪に似てないでもなかった。さらに襄公は錯乱状態にあった。襄公は彭生を殺したことが多少気になっていた。

 「彭生は死んだはずだ!」と叫び、弓を引き絞って、猪に向かって、矢を放った。矢は眉間に突き刺さった。と同時に猪が立ち上がったように見えた。襄公は、悲鳴を上げて車から転げ落ちた。そのはずみで靴を失くした。

 

2014年8月25日月曜日

「十八史略(16)―鮑叔牙と管仲⑤」

 話を鮑叔牙と管仲の青年時代に戻そう。ふたりは幼馴染であった。
 ふたりは、共同で商売をしたことがあったが、そこから生まれる利益は、ほとんど管仲が持っていった。鮑叔牙は管仲が貧乏なので仕方がないとこれを許した。

鮑叔牙が運よく仕官し、斉の公子小白の守役となった。しばらくして、小白の兄の糾の守役が欠員になったために鮑叔牙は管仲を推薦した。小白の守役として、申し分のない鮑叔牙の推薦であったためにすぐに採用された。
 
斉の国の主である襄公は、息子の彭生に自分の妹文姜の夫の魯の国の主桓公を殺させたのちも文姜を斉にとどめたまま、不倫の恋に身を委ねた。私生活は乱れに乱れ、政治も乱れた。
 
処罰も気ままで規律もなかった。それでも国主としての権限があるので、
「そいつを殺せ!」というと、いつ殺されるか分らないということが続いた。
 
小白は鮑叔牙に
「今の状態では、いつとばっちりが来るかも分らない。わたしは、逃げようと思うがどう思う」
「そうでございます。ここは難を避けて国外に逃げるのが賢明でしょう」
「逃げるにしてもどこに逃げようか」
「すぐに帰国できるところでないといけません。莒(きょ)にしましょう」
 
 莒は山東半島の根元の南、黄海に近いところにある自立した国であるので、万事都合がいい。斉の都、臨湽(りんし)で何か起こってもすぐに駆けつけることができる。
 

2014年8月22日金曜日

「十八史略(15)―鮑叔牙と管仲④」

 襄公は魯の家臣に急病で死んだと伝えた。ところが、魯の家臣が主君のあばら骨が折れているのを発見した。

魯から、「わが主君の死因は折れるはずのないあばら骨の骨折でした。迎えに来られた彭生殿は天下無双の力持ち。その力があれば、あばら骨の2、3本折るのは、何の造作もないでしょう。なにとぞ、彭生殿を処分し、われらの無念を晴らしていただきたい」

襄公は彭生を見殺しにした。

 さて、桓公のあばら骨が折れていることを魯の家臣に知らせたのは、誰か。外観だけでは、死人のあばら骨が折れたのは分らない。

 鮑叔牙は管仲に訊ねた。

「知らせたのは、君か」

管仲は、面映げに顔を上げた。

「やっぱりそうか」

鮑叔牙は難しそうな顔をした。

 

2014年8月21日木曜日

「十八史略(14)―鮑叔牙と管仲③」

管仲像
 糾の守役が高齢で引退を申し出たときに、鮑叔牙は頼まれて後任者を探した。結局、鮑叔牙の幼馴染の管仲を推薦した。

管仲は糾の守役に徹した。糾もすばらしい才能を持った若者らしい。

管仲は鮑叔牙に
「斉の国は太子の諸児ではもたないが、糾か小白のどちらかが国主になるようにお互いに補佐しよう。どちらが国主になっても助け合おうではないか」と言い、強く手を握った。

 国主の僖(き)公が死に、太子の諸児が斉の国主となったのは、紀元前697年であった。これが襄公であった。

襄公が立って4年、魯に嫁いだ文姜が夫と一緒に斉に里帰りした。斉を出てから15年がたっていた。襄公は欲望を抑えられなかった。15年も会っていないので、想いは一層募っていた。襄公と桓公夫人の文姜は、愛し合った。魯の桓公はさすがに気付いた。

桓公は烈火のごとく怒った。

「犬にも劣るやつめ!」と、妻を足蹴にした。

文姜は襄公のところに逃げ帰って

「お兄様、助けてください。文姜は殺されます」

「殺される?それなら、こちらから殺してやろう」

と、こどもの中で力自慢の彭生に魯の桓公を殺すように命じた。

彭生は人間を殺すことにかけては、天才的であった。傷もつけずに桓公のあばら骨をへし折って殺した。

 

2014年8月20日水曜日

「十八史略(13)―鮑叔牙と管仲②」

鮑叔牙
 このとき、小白は太子の諸児(しょげい)と姉の文姜が愛し合っているショッキングな現場を見てしまった。
 当時も近親相姦は、タブーであった。日本でも中大兄皇子と妹の間人皇女の近親相姦は好ましく見られなかった。姉の文姜の白い裸体は、少年の小白には強烈な残像を残した。この体験が成人してからの生活に大きく影響したとも思われる。小白は、のちに女好きになった。夫人が3人、夫人のごとき人が6人。

鮑叔牙は、気になり、小白のことばが気になり、

「若殿はなぜこの国の主になりたいのですか」

「そうか、それでは、おまえだけには、言っておこう」

「北から、南から蛮族が中原を狙っている。やつらを追い払うには強い指導力が必要だが、今の周王室には、ない。王の代わりに諸侯に号令をかける者が必要だが、兄の諸児は無理である。ひとを当てにせずにその役をわたしが引き受けよう」

鮑叔牙はほれぼれと小白の顔を見た。

 

2014年8月19日火曜日

「十八史略(12)―鮑叔牙と管仲①」

 いよいよ宮城谷昌光氏が得意とする春秋戦国時代に入る。春秋戦国時代は、盟主周が秦の始皇帝に滅ぼされるまで約500年続くが、その前半を春秋時代、後半を戦国時代という。この時代をなぜ春秋時代というかは、孔子が編纂した年代記『春秋』がちょうどこの時代に当たるからという。

 春秋時代は諸侯が諸侯連盟のリーダー、すなわち覇者になることをめざして争った。戦国時代の諸侯は、盟主ではなく王者にならんとして戦った。戦国時代は、春秋時代のように生易しいものではなく、食うか食われるかの熾烈なものであった。まさに弱肉強食の時代であった。

 周が西の犬戎に追われて洛陽に遷都したのが紀元前770年。晋が事実上、三国に分立した紀元前405年頃までを春秋時代と呼ぶ。この間に有力な覇者が出ている。覇者の第1号は、斉(現在の山東省)の桓公である。

 桓公は太子ではなかった。位を継ぐ太子は、桓公の兄の諸児(しょげい)であった。桓公は名を小白(しょうはく)といった。別に糾(きゅう)という兄がいた。ほかに文姜(ぶんきょう)という姉がいた。文姜は魯国の主の妻となった。

 少年時代、小白は、守役の鮑叔牙に、

「わたしはこの国の主にならねばならぬ」と言った。

鮑叔牙は、蒼い顔をして慌てて、小白の口を手で押さえようとした。

小白は、鮑叔牙の手を逃れて、

「心配するな。お前以外には言わない」

「それにしても、なぜそういうことを言うのですか」

 と聞いたが、小白は言わなかった。鮑叔牙もそれ以上聞かなかった。

 

2014年8月18日月曜日

「十八史略(11)―妲己(だっき)⑦」

周公
 さて、兵士が宮殿を探し回ると、妲己がいた。周公は自害してくれていることを望んでいたが生きていた。生きていればなんとか助けられないかと思案した。周公自身が訓練して育てた秘密兵器であった。

妲己は兵士に連れられて、周公の前にひきすえられた。妲己は床のうえに跪き、下から覗き込むようにして

「これでいいのですね?わたし、立派につとめたでしょう?」

周公の顔から血の気が引いた。

女に訓練は施したが、その任務は教えていなかった。しかし、妲己は知っていた。

周公は、思わず叫んでいた。

「斬れ!」

妲己の長い首は、黒い鉞で切り落とされた。

 

2014年8月15日金曜日

「十八史略(10)―妲己(だっき)⑥」

武王
 それから二年が経った。紂王の暴虐はますます酷くなった。また妲己のサディズムは際限がなかった。

ある日、紂王の叔父にあたる比干が命をかけて諌めにやってきた。

妲己は、「この方は、聖人でしょう」

「世間では、そういわれているが」

紂王は興味がない風に答えた。

すると、妲己は怖いことを言った。

「あたしは、聖人の内臓には、七つの穴があると聞きましたが、この方はどうなのでしょう」

紂王は、気だるい顔をしながら

「どうだ、調べてみようか。七つの穴があるかどうか」

比干は、絶望して言った。

「どうぞご存分に」

比干は無惨にも解剖された。

妲己は、次に何をするか常に考えていた。

紂王は、今や、妲己が何かを考え出すたびに目をギラギラさせて不気味に笑っていた。

 この比干の事件が伝わってきて、武王と周公は、兵を挙げた。もう100%大丈夫と判断したのである。諸侯を集めた。四万五千の兵が渭水を下り、さらに黄河を下った。迎える殷の兵は、七十万。兵の数は、圧倒的に紂王の方が多かった。紂王自ら牧野に迎え打った。

 ところが、この戦いは鎧袖一触、一瞬で決まった。殷の兵の多くは、戦争で俘虜になった者ばかりで、忠誠心はなく、紂王直属の部下も連日の酒池肉林で戦意のある兵はいなかった。

 紂王は牧野から殷のみやこの朝歌に逃げ帰り、贅を尽くした楼閣に登り、飾れるだけの珠玉をまとい、建物に火を放ち、その火の中に身を投じた。紂王を追って、朝歌に入城した武王は、紂王の死体に三本の矢を射、名剣軽呂で斬りつけ、黄金に輝く鋮(まさかり)で首を切り離した。その首を大白旗の先に突き刺した。
 
 殷の終焉であった。以後、周の時代となった。

 

2014年8月14日木曜日

「十八史略(9)―妲己(だっき)⑤」

呂尚
 そうしているうちに周の文王が亡くなった。周では憂いに閉ざされた日が続いたが、民から「暴虐の紂王」を討つべしという声が上がり、文王のあとに王になった武王とその弟の周公は、紂王討伐軍を挙げた。その一行が周都を出ようとするときに伯夷と叔斉の兄弟がこの軍隊の行進に出会った。伯夷と叔斉は、左右からとびかかって武王の轡を引いた。

「父死して葬らず、ここに干矛に及ぶ。孝というべけんや。臣を以て君を弑す。仁というべけんや」と言って武王を諌めた。

武王の家来たちは、ふたりをつかまえて、殺そうとしたが、そのときに

「待てえ!斬ってはならぬ。その者たちは義人であるぞ」と一喝して止めるひとがいた。

これが、軍師の太公望だった。文王と太公望の出会いは、太公望が貧乏で年もとり、渭水で魚釣りをしているところへ、文王が通りかかった。文王は狩猟の帰りだったが、朝、占いをしたところ、今日の収穫は猛獣でなく、覇王の補佐をする人物に出会うということであった。

 文王は、「この人であったか」とすぐに軍師として召抱えた。
 
 太公望は、本名は呂尚というのに、なぜ太公望というかといえば、文王の祖父(太公)は、いずれ聖人が周に来て周を盛んにすると予言しており、その太公が待ち望んだ人物ということで、太公望といわれるようになった。後世、太公望は釣り師の意味に使われている。

 この時、武王は軍を孟津に進め、諸侯800人と会したが、武王は太公望に

「殷を倒して、周の天下にするに成功の勝算はどの程度であろうか」と聞いたところ、

「十のうち八」と太公望は答えた。

すると、武王は即座に「兵を引く」と命令を下した。

武王は「成功の公算は高いがそれでも二割の失敗の危険性がある。紂王の暴虐がこのまま続くと三年以内には、成功の確率は100%になるだろう。それまで待つ」と言った

 

2014年8月13日水曜日

「十八史略(8)―妲己(だっき)④」

 妲己の不評を確定的にしたのが、「炮烙(ほうらく)の刑」であろう。

銅の柱に油を塗り、これを真っ赤になった炭火の上におき、その上を重罪人に歩かせる刑罰であった。

炭火はかっかと燃えており、火の海になっていた。これに1本の銅の柱をかける。さらに銅柱にはすべりやすいように油が塗ってある。塗り加減がよくないと罪人は一歩も歩けないうちに火の中に落ちてしまう。また、銅柱に火が近すぎても、あまりの熱さに歩けずに火の中に落ちてしまう。

罪人は、無事に油塗りの銅柱をうまく渡れば、無罪放免になるが、失敗して落ちれば焼け死ぬことになる。このため、罪人は必死の形相であった。

妲己は「落ちる瞬間の罪人の顔がなんともいえない。あれを見ないことには、からだがひきしまりませんわ」と紂王に言った。

紂王もまたこれに同意して「わしもじゃ」と興奮して答えた。

さらに妲己は、「あの必死の形相を見たあと、ジューと人間の焼ける音がたまりません。これを聞くとやっと今日の終わりという気がします。炮烙のない一日なんて、考えただけでもぞっとします」と、紂王に言ったという。

 
 「炮烙の刑」については、さすがにいきすぎと感じたか、周の文王が

 「炮烙の刑だけは、お止めください。そのかわりにわたしの所有する洛西の地を献上します」と申し出た。洛西は肥沃な土地で、たっぷりと税金が取れる。このところ、酒池肉林や長夜の飲などで、出費が嵩んでいたので、紂王はこれ幸いと受け取った。

巷では、周の「文王様は情け深い方じゃ」という評判が、千里を奔りました。

 

2014年8月12日火曜日

「十八史略(7)―妲己(だっき)③」

 有蘇氏は、些細な不始末をしでかし、お詫びとして妲己を献上して許しを乞うた。紂王は、妲己を得て、狂喜した。

 「これが本物の女だ。これまでの女は、木偶みたいなものであったな。妲己こそは、天がわしのために作りたもうた女性だ。本物の女性だ」と舞い上がった。たしかに、妲己は紂王のために特別につくられた女だった。そうでなければ頭脳明晰な紂王に見抜かれてしまう。妲己は赤ん坊のときから「紂王好みの女」になる特訓を受けて来た。
 妲己が気ままに振舞っているのにその動作ひとつひとつが紂王を有頂天にさせた。紂王は我儘で好き嫌いも激しく、同じことに対しても朝と夜では虫の居所が違ったりしたのだが、妲己は紂王のこの起伏の性格をもすべて理解したようにぴったりと紂王に寄り添うのであった。みごととしか表現のしようがないものだった。

紂王は生まれて始めて一体と感じる女性に出会ったと感じた。自分の望むところは妲己の望むところであった。嫌う対象も同じだった。紂王が宮廷の音楽に飽き始めたころ、まだ紂王が口に出す前に妲己は「もっと心をとろかせる音楽をつくらせましょう」と言った。紂王は、「わしが心の底で考えつき、まだ表に取り出せないでいるときに妲己はそばから汲み取ってくれる」と思った。そして、楽師にいっそう奔放で官能的で淫猥な音楽を作らせた。

 「天下の王は、天下の富をすべて集めなければ」と、妲己が言うと紂王は「たしかに税の集め方が足りない」と思い、税金を重くして、民から富を集めた。妲己が気に入った沙丘の宮殿は、拡張し、園庭には、猛獣や鳥を放し飼いにした。

またあるときは、「楽しみの極地はなにでしょう。楽しむならば、行き着くところまで楽しみたいとわたしは思います。今を存分に楽しみましょう」と妲己が言うと、紂王は「よし、徹底的に快楽を追求しよう」と命令一下、野外パーテイがひらかれた。池の水は、すべて汲み出して、池の底や周囲は、水が洩れないようにした。そこに酒を流し込んだ。焼いた肉は、木の枝に吊るした。紂王は、「このパーテイに来たものは、衣服を着てはならぬ。男は必ず女をひとりさらって、わしのところに連れて来い」と命じた。

 庭にかけられた幕が切って落とされるとそこには宮廷の女性が裸で並んでいた。

「始めよ」

 裸女たちが逃げると、これを廷臣が追った。いたるところで、悲鳴が上がり、歓声があがり、男と女が絡み合った。これが有名な酒池肉林である。

 そのほか、「長夜の飲」というのもやった。徹夜の酒宴ということらしいが、一晩でなく何日もやったらしい。昼間は、戸を閉め切って夜さながらにした。

 政治不在と重税で民の不満は、徐々に高くなっていった。

 

2014年8月11日月曜日

「十八史略(6)―妲己(だっき)②」

 噂の美女は、まもなく嫁ぎ、何年か後に女の子を生んだ。約束どおりに、その子は周公に引き取られた。周公が睨んだとおり、その子は輝くばかりの美しい姫に育った。

 その子に周公は、何を仕込んだかといえば、男をとろけさすことを教えたのである。男によって、趣味や好みが違うが、周公はその訓練の対象がはっきりしていた。殷の紂王ひとりであった。

 しかし、紂王は暗愚なひとではない。『史記』には、紂王のことを、天性の雄弁家で、行動は敏捷。理解力も鋭く、体力は素手で猛獣を倒すことができたとあり、凡庸なひとではなかった。さらにこの世の中に自分より優れた人間はいないと思っていた自信家でもあった。このような男を操縦するのは至難のわざである。しかも紂王は絶対権力者であった。

 周王は、紂王をもっとも悪く変えようとしたのである。紂王が賢君なれば、天下をとる機会は遠のく。紂王の性癖は酒と女が好きなことであった。ここに周公は目を衝けた。

 周公は、このむすめに自分の名の旦に女ヘンをつけて「妲」という名を与え、有蘇氏の姓は己なので、妲己と呼ばれるようになった。

 周公は、紂王がどのようにされると悦ぶか、どんなことを嫌うか、閨房のわざも仕込み、さらには生活の細かい習慣から、食べ物の嗜好を調査し、いわゆる教養も身につけさせ、紂王が好む女に妲己を教育した。 そして、十分なトレーニングをしたのちに、極秘に妲己を有蘇氏に送り返した。

 

2014年8月8日金曜日

「十八史略(5)―妲己(だっき)①」

 新疆ウイグルでのテロが拡大している。治安が悪いところには、行くことに目的がある人は別にして行かない方が無難であろう。本人は何も悪いことをしていなくとも巻き込まれると家族をはじめ多くの人に迷惑をかけ、心配もさせる。

さて、今回取り上げる妲己は中国の歴史書上、最初の悪女といえよう。妲己が登場するのは、殷王朝の時代で、紀元前1030年頃の話である。天下を治めていたのは、暴君紂王であった。

殷墟は、河南省安陽市にある。昨年、見に行ったが、想像とはかなり違っていた。雄大な平地の上にあるかと思っていたが、小さな盛り土の上に木が林をつくっているようなところであった。周辺の手入れをしているようなので、もう少し時間が経てば観光客も行くようになるであろう。

ところで、中国は3000年、あるいは4000年の歴史と言うが、その間に首都が変わっており、一般に中国七大古都とは、北京南京杭州西安洛陽開封、安陽をいう。安陽は、もっとも古いということもあってか、史跡がほとんど遺されていない。明日香ほどにも残っていない。残念ながら、今の遺跡の上に立って殷の時代に思いを馳せることは出来ない。

日本では、殷と呼ばれているが、これは次の周王朝がつけたもので、自らは商と称していた。商人という言葉もここから出たといわれている。

 さて、暴君紂王の悪政に堪りかねて周の武王と周公の兄弟は、父の文王に殷を除くことを勧めた。しかし、文王は首を縦には振らない。

500年、30代も続いた王朝が一代不徳であったとしても、そう簡単には倒せない」と息子ふたりを諭した。

 有蘇氏に美しい女性がいることを周公は聞いた。

「その女性のむすめをもらいたい」

その美女のことは、兄の武王も知っており、

「その女性はまだ結婚もしておらぬ。結婚もしていない女性のむすめがほしいとは」

 と、笑った。すると、周公は、

「それなら、その女性にむすめが生まれるまで待ちましょう」

兄は「いやいや気の長い話だな」とふたたび笑ったが、弟は本気であったらしく、有蘇氏に使者をたてて、未婚の美女が結婚してむすめを産んだ場合には、その子を養女にすることをこっそりと約束させた。気の長い話である。

 

2014年8月7日木曜日

「十八史略(4)―神話時代の羿(げい)(4)」

 ところが、月で休んでいると嫦娥は、自分のからだの異常に気付きました。だんだん背が低くなり、腹がせり出し、腰が横に膨らんでいきました。上と下から圧されて、ひしゃげる感じです。やがて、首は肩の中に埋没し、口は左右に裂けてしまいました。皮膚の色も黒ずみ、大きなぶつぶつが出来て来ました。

「きゃー」と悲鳴をあげたつもりが、鈍い、潰れたような音でしかありませんでした。一匹の醜い蝦蟇になっていたのです。

 一方、夫の羿は、天に昇れるどころか、不死さえ叶えられませんでした。

 ここに逢蒙という男が現れます。かれは、羿の家来でもあり、弓の弟子でもありました。逢蒙は弓の腕も上達し、羿さえいなければ、天下無双というところまで来ました。そこで、羿を殺そうという気になりました。しかし、得意の弓では殺せずに桃の木の棍棒で殴って殺しました。

  このことを諺では、「飼い犬に手を噛まれる」という具合に用いられるのでしょうが、本当の意味はもっと深刻であると言っています。

あらゆるわざは、師のライバルは弟子であり、油断をすればいつとって代わられるか分らないというもので、弟子にとっては、師は打倒すべき最大の目標であるわけです。

 孟子はこの物語に厳しい評論を加えています。

「師を倒そうとしている人間を弟子にしたのだから、羿にも落ち度がないとは言えない」

これによく似たことがサラリーマンの世界でもあります。特にNo.2を絶対に作らない人がいます。本来の組織論からいえば、常に代わりを作っておくべきですが、そうすると、いつでも替られてしまうということで、自分が会社を辞めるまで後継者を育てない人がいます。

 

2014年8月6日水曜日

「十八史略(3)―神話時代の羿(げい)(3)」

 そのほか、堯は怪獣や怪鳥、大海蛇などを退治して意気揚々でした。

 ところが天帝は9人ものわが子を殺されたので怒り心頭です。

「おのれ、羿のやつめ!羿の神の籍を剥奪せよ」と、部下に命じました。

神の世界にも戸籍があり、それを抹消されたのでは、羿夫婦は天上に帰ることは出来ません。神は天上に住む特権のほかに不死の特権が与えられています。しかし、神でなくなった羿夫婦には、人間並みに死が待っています。天上に帰れないまでも、死んで地獄に落とされるのだけは、勘弁してほしいと思います。

 このことが、原因で夫婦の間には、喧嘩の絶え間がありませんでした。

 そんなときに、羿は耳寄りな話を聞いてきました。

 崑崙山に西王母という神がいて、不死の薬を持っているといいます。ただし、途中の道は、普通の人間ではたどりつけない厳しい山道であると言われていました。しかし、羿にとっては、なんのこともありません。

 西王母に会うと、
「たしかに不死の薬は持っているが、あと二粒しかない。もうこれ以上はありません。吉日に夫婦で一粒ずつ飲みなさい。一粒飲めば不老不死。二粒飲めば、昇天して神になれます」と西王母は説明しました。

羿は喜び勇んで、妻のところに戻って、西王母の話を告げました。

「不死だけでいいじゃないか。二人でこの地上で仲良く暮らそうじゃないか」と言いました。

嫦娥は「そうね」とうなづきましたが、腹の中は

「このおとこのせいで、こうなったけど、わたしにはなんの責任もないわ」

嫦娥は、吉日を待たずに二粒とも飲んでしまいました。はたして彼女は身が軽くなり、天に昇っていきましたが、彼女は、途中で考えました。

「このまま天に昇ると、夫を置き去りにしてきたと陰口を叩かれるおそれがある。少しほとぼりが醒めるまで、一休みしよう」と、天と地の間に浮かんでいる月に降りました。
 
 
 
 

2014年8月5日火曜日

「十八史略(2)―神話時代の羿(げい)(2)」

 何千年も、何万年も繰り返していますから、飽き飽きして来ました。兄弟たちは、木陰で、
「一度、みんな揃って遊びに出かけようよ」

かくして、十個の太陽が輝くことになりました。兄弟は、たいそう楽しく遊びました。

しかし、これでは、人間界は堪りません。十個の太陽が一度に照りつけますから、農作物は枯れるし、人間も焼け死にました。

 このとき、地上の聖王だった堯は天帝に祈りを捧げ、救いを乞いました。頼まれると天帝もむげには出来ません。天上界でもっとも弓のうまい羿を行かせることにしました。しかし、かれは弓の腕はいいのですが、人間の機微に欠けるところがありました。

 羿は、勇躍して、妻の嫦娥(じょうが)を伴って地上に下りて行きました。羿は地上に降り立つや、天空の十個の太陽を射落とそうとしました。腕に覚えのある羿にしたら、矢は十本で足ります。次々に太陽を打ち落として行きました。これを見た堯は、慌てます。太陽は十個もいらないが、全部なくなるとこの世は闇になり、作物も育ちません。堯は人に命じて、矢を入れる箙から1本だけ矢を抜き取らせました。九個の太陽は、射落とされました。




2014年8月4日月曜日

「十八史略(1)―神話時代の羿(げい)(1)」

 久しぶりに中国の歴史を読んでみようと陳舜臣の「小説十八史略」を手に取りました。ひとによっては、「十八史略」と「小説十八史略」とは別物と言う人もいますが、「十八史略」を中国語で読む
気にはなりません。中国の正史は、日本史の中に出て来るだけで、資料として読んでも、読み物として読んだことはありません。次の十八巻が中国の正史です。この中で、史記、漢書、後漢書、三国志などは、見たことがあるでしょう。

1.『史記- 司馬遷

2.『漢書- 班固

3.後漢書- 范曄

4.『三国志- 陳寿

5.『晋書- 房玄齢

6.『宋書- 沈約

7.『南斉書- 蕭子顕

8.『梁書- 姚思廉

9.『陳書- 姚思廉

10.『魏書- 魏収

11.『北斉書- 李百薬

12.『後周書- 崔仁師

13.『隋書- 魏徴長孫無忌

14.『南史- 李延寿

15.『北史- 李延寿

16.『新唐書- 欧陽脩宋祁

17.『新五代史- 欧陽脩

18.「宋鑑」(以下の2書をひとつと数える)

    • 続宋編年資治通鑑- 李熹
    • 続宋中興編年資治通鑑- 劉時挙

 中国人の史観は、「人間。ただ人間。ひたすら人間を追究する」ためであったため神話がほとんどありません。思想界を牛耳った孔子などが、「怪力乱神を語らず」という態度であったためとも語られています。

 今回、取り上げた羿は、弓の名人で、非常に勇猛であったとされています。それが、ある日、天帝に呼ばれて、下界に派遣されました。天帝には、十人の子がいました。天帝の子は、みんな太陽です。母親は、六頭の竜が牽く車に、毎日一人ずつわが子を乗せて走らせていました。順番が決まっていて、十の太陽は十日に1日だけ天空を駆けます。人間の世界から見ると太陽はひとつだけですが、実は順番制だったのです。