2014年9月30日火曜日

「十八史略(38)―重耳と驪姫(14)」

 重耳の一行は、曹の国に入った。
 曹の共公は軽薄な人物であった。

 「重耳は駢脅(へんきょう)という噂だが、是非見たいものだ」と家臣に言った。

駢脅とは、あばら骨が一枚のようになっており、強力無双の骨相である。相当に鍛錬した肉体といえる。

共公は無礼にも入浴中の重耳をぬすみ見した。当時の中国人は男同士でも裸を見られるのを嫌った。

このことを知った曹の大臣の釐負羇(きふき)は、ひそかに食べ物を持参して、主人の無礼を詫びた。

食器には宝玉がしのばせてあった。

しかし、重耳は食べ物だけを受け取り、宝玉は返した。

 「やはり、宝玉は受け取っていただけませんか」
と、釐負羇は肩を落とした。

 重耳一行は、曹を去り、宋に入った。現在の河南省商丘市のあたりであろう。

 宋の太守の襄公は稀有な人物であった。

 重耳が宋に入る前に宋は楚と泓水で戦って敗れた。

 楚が軍勢も整えず、宋を舐めきって河を渡り始めたときに、宋の公子の目夷が、

「敵は大軍、こちらは少勢、いまこそ敵を撃つ絶好の機会です」と進言したが、襄公は

「それはいけない。相手はまだ軍を整えていない。いま襲うのは卑怯である」

と、楚軍が体勢を整えて、河を渡りきってから、戦ったために宋軍は大敗した。

 これを「宋襄の仁」というが、無益の情け、時宜を得ていない憐れみ、つまらない仁のことをいう。後世のひとは戦争に仁義などあるものかと笑うが、宋は周によって滅ぼされた殷の遺民に、お情けで与えられた国であったために、とくに「仁義」を尊重した。

宋は重耳一行にも丁重にもてなしてくれたが、泓水の戦いで破れ、国は疲弊のどん底にあったために重耳への後援はできなかった。

 

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