2014年9月26日金曜日

「十八史略(36)―重耳と驪姫(12)」

 重耳は晋に戻るまでに刺客を避けて、斉の国に入った。

 天下の覇者である斉の桓公もだいぶ老いが目立ち、かの管仲も病死した直後であった。

 「斉の桓公も管仲がいなければ、なにかとお困りであろう。わたしが行って手助けをしてあげよう」と、案内を乞うた。

狄には12年も滞在したために、重耳は55歳になっていた。当時としては、かなりの高齢である。

斉へ行く途中で、衛を通った。この国のあるじの文公(奇しくものちの重耳と同名である)は重耳一行を冷遇した。五鹿という土地まで来ると、食料が完全に尽きた。そこで農夫に食物を乞うと、「よし、よし、待ちなされ」と言って農夫は器を差し出した。

蓋をとってみると、なかは土くれだった。

このときは、さすがの重耳も怒り心頭に達した。しかし、部下の趙衰が
 「土をもらうということは、土地をもらうということです。縁起がよろしゅうございます。受けましょう」
 と言った。

重耳はそのとおりにした。

のちに重耳が覇者となったあと、衛の国を討伐した。当時、国主であった文公は亡くなっていたが、その子の成公を討伐した。土くれを差し出してからかった五鹿地方は兵馬によって蹂躙された。

斉では、さすがに天下の覇者桓公は一行を篤くもてなした。重耳は斉の公族の女を妻にもらい、二十乗の馬車を与えられた。

四頭立ての馬車を「乗」という。戦車の場合には、これに3人の兵が乗り、うしろに歩兵が72人付く。合わせて75人である。

したがって、重耳は馬を80頭と1500人の部下を持ったということになる。

 二十乗の賓客とは、随分居心地がいいものであった。

重耳が斉に来て2年目に、覇者桓公が亡くなった。

 

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