2014年9月30日火曜日

「十八史略(38)―重耳と驪姫(14)」

 重耳の一行は、曹の国に入った。
 曹の共公は軽薄な人物であった。

 「重耳は駢脅(へんきょう)という噂だが、是非見たいものだ」と家臣に言った。

駢脅とは、あばら骨が一枚のようになっており、強力無双の骨相である。相当に鍛錬した肉体といえる。

共公は無礼にも入浴中の重耳をぬすみ見した。当時の中国人は男同士でも裸を見られるのを嫌った。

このことを知った曹の大臣の釐負羇(きふき)は、ひそかに食べ物を持参して、主人の無礼を詫びた。

食器には宝玉がしのばせてあった。

しかし、重耳は食べ物だけを受け取り、宝玉は返した。

 「やはり、宝玉は受け取っていただけませんか」
と、釐負羇は肩を落とした。

 重耳一行は、曹を去り、宋に入った。現在の河南省商丘市のあたりであろう。

 宋の太守の襄公は稀有な人物であった。

 重耳が宋に入る前に宋は楚と泓水で戦って敗れた。

 楚が軍勢も整えず、宋を舐めきって河を渡り始めたときに、宋の公子の目夷が、

「敵は大軍、こちらは少勢、いまこそ敵を撃つ絶好の機会です」と進言したが、襄公は

「それはいけない。相手はまだ軍を整えていない。いま襲うのは卑怯である」

と、楚軍が体勢を整えて、河を渡りきってから、戦ったために宋軍は大敗した。

 これを「宋襄の仁」というが、無益の情け、時宜を得ていない憐れみ、つまらない仁のことをいう。後世のひとは戦争に仁義などあるものかと笑うが、宋は周によって滅ぼされた殷の遺民に、お情けで与えられた国であったために、とくに「仁義」を尊重した。

宋は重耳一行にも丁重にもてなしてくれたが、泓水の戦いで破れ、国は疲弊のどん底にあったために重耳への後援はできなかった。

 

2014年9月29日月曜日

「十八史略(37)―重耳と驪姫(13)」

 その後も斉での滞在を続けた。ともかく居心地がいい。重耳はいまの境遇に満足していた。
 
 しかし、家臣たちはやきもきしていた。家臣たちは夢をもっている。その夢があるゆえに苦労も苦労と思わず辛抱してきた。「わが君を晋のあるじに」が、家臣たちの悲願であった。

 家臣たちは、ある日、相談した。

「もう、非常手段に訴えるしかあるまい」と狐偃が最初に言った。

「非常手段とは?」と、趙衰が訊ねた。

「わが殿を酒で潰し、その間に馬車に乗せて斉から立ち退くのです。そうしないと、わが殿は動かれないでしょう」

「しかし、酔いが醒めると激怒なさるであろう」

「わが君のお怒りは、この狐偃が引き受ける」

 狐偃は重耳の母の弟にあたる。すなわち叔父になる。

 重耳のぬるま湯のような生活をじれったく思っていたのは、家臣たちばかりでなく、妻となった斉の公女も重耳に対してはっぱをかけていた。

「あなた、男なら、ここで一旗あげて国に帰ることを考えたらどうですか」

妻と家臣団は共同作戦を張ることができた。妻は、夫を酔い潰した。

家臣団は、わが君の妻にお礼を言う間もなく、酔いつぶれた重耳を馬車に乗せ、夜道を斉の外に走りに走った。重耳は馬車の揺れで、酔いはさらに増した。

朝になり、重耳がやっと目が覚めたときには、国境線は随分遠くになっていた。

 さすがに酔いが少しばかり醒めると
「誰だ、こんなことをしでかしたやつは、ただでは許さんぞ」と剣を掴み、怒鳴った。

「私めでございます」と、狐偃が進み出た。

「うーぬ。わしがおまえを殺せないと思っているのか」

「わたしの命など、どうなっても結構です。わが君を晋の太守にできれば」

さすがに、重耳も酔いが醒めた。
「事が成らねば、舅父貴の肉をくってやるからな。覚悟しておけ」

「そのときは、わたしの肉などは腐って骨だけになっているでしょう」と狐偃は答えた。

 

2014年9月26日金曜日

「十八史略(36)―重耳と驪姫(12)」

 重耳は晋に戻るまでに刺客を避けて、斉の国に入った。

 天下の覇者である斉の桓公もだいぶ老いが目立ち、かの管仲も病死した直後であった。

 「斉の桓公も管仲がいなければ、なにかとお困りであろう。わたしが行って手助けをしてあげよう」と、案内を乞うた。

狄には12年も滞在したために、重耳は55歳になっていた。当時としては、かなりの高齢である。

斉へ行く途中で、衛を通った。この国のあるじの文公(奇しくものちの重耳と同名である)は重耳一行を冷遇した。五鹿という土地まで来ると、食料が完全に尽きた。そこで農夫に食物を乞うと、「よし、よし、待ちなされ」と言って農夫は器を差し出した。

蓋をとってみると、なかは土くれだった。

このときは、さすがの重耳も怒り心頭に達した。しかし、部下の趙衰が
 「土をもらうということは、土地をもらうということです。縁起がよろしゅうございます。受けましょう」
 と言った。

重耳はそのとおりにした。

のちに重耳が覇者となったあと、衛の国を討伐した。当時、国主であった文公は亡くなっていたが、その子の成公を討伐した。土くれを差し出してからかった五鹿地方は兵馬によって蹂躙された。

斉では、さすがに天下の覇者桓公は一行を篤くもてなした。重耳は斉の公族の女を妻にもらい、二十乗の馬車を与えられた。

四頭立ての馬車を「乗」という。戦車の場合には、これに3人の兵が乗り、うしろに歩兵が72人付く。合わせて75人である。

したがって、重耳は馬を80頭と1500人の部下を持ったということになる。

 二十乗の賓客とは、随分居心地がいいものであった。

重耳が斉に来て2年目に、覇者桓公が亡くなった。

 

2014年9月25日木曜日

「十八史略(35)―驪姫と重耳(11)」

 晋の恵公が病床についたことを知ると太子の圉は、秘かに秦を脱出した。恵公には、ほかに何人もの子がいた。国主が死んだときに、その国にいない子は即位については、極めて不利といえる。しかも圉の母は、今はない梁の国の公女であった。したがって、圉は母の実家を頼ることはできない。

 幸い圉は父の臨終に間に合い、即位することができた。晋の懐公であった。かれの地位は、父の恵公と同じように不安定であった。

 秦の穆公は、断りもせずに秦から出奔した圉に腹を立てていた。

 「親が親なら、子も子だ」
 
 この小癪な小倅に対し、目にものをみせてくれる方法を穆公は知っていた。

 穆公は亡命中の重耳に兵を貸した。
 
 かくして、重耳は19年ぶりに帰国し、懐公を追って、位に即いた。これが、覇者第二号の晋の文公であった。若い懐公は、高梁へ逃げたが、そこで殺された。

最後の勝利の栄冠は「逃げの重耳」の上に輝いた。

 重耳はそれまでにも何度も帰国する機会はあったが、部下たちの意見を聞いて帰国を思いとどまった。また、夷吾が即位しても何とも思わなかった。夷吾は重耳のことが気になってたまらず、即位して7年目に勃鞮ら、腕の立つ剣士を送って暗殺しようとした。

重耳はそのことを知ると住み慣れた狄の国から逃げ出した。

このとき、狄で娶った妻に
「25年待ってくれ。25年経っても帰らなければ、再婚してもいい」と言った。

「25年???」と判断がつかなかったが、しばらくして吹き出した。

「25年も経てば、家の墓の柏も大きくなっているでしょう。ともかく、お待ちします」
と、承諾してくれた。

 

2014年9月24日水曜日

「十八史略(34)―重耳と驪姫(10)」

 恵公が即位して4年(紀元前647年)、晋に飢饉があり、近隣諸国に援助を求めた。秦は前の土地割譲の問題がありながらも、大量の食料を送ってくれた。

翌年、こんどは秦が凶作になり、晋に食料購入の交渉を申し入れてきた。これに対して晋は絶好の好機到来とばかりに食料を送ると見せて兵を送った。

 秦の穆(ぼく)公は、怒りに怒った。凶作の中であったが、動員令を出した。たちまち、晋軍を撃破し、晋領深く侵攻した。そして、ついに恵公を拿捕した。

穆公は恵公を斬ろうとしたが、夫人に泣きつかれて渋々釈放した。夫人は、恵公の姉だったのである。

 釈放された恵公は、太子の圉(ぎょ)を人質として秦に送らねばならないことになった。

 恵公治世の十三年間は、つねに流動的で安定しなかった。諸大臣のなかも国内にいる諸公子を擁立しようとする一派と人質として国外にいる太子を立てようとする一派が暗闘を続けた。まさに驪姫の怨念がとりついたような感があった。

 

2014年9月22日月曜日

「十八史略(33)―重耳と驪姫(9)」

 一方、夷吾は復帰工作に奔った。

連合派の総帥里克は、もともと重耳派であるが、重耳から断られたので、仕方なく夷吾に迎えの使者を送った。

「身ひとつで、帰国されてはなりませんぞ。兵を率いてのご帰還があってこそ、家臣もみな重く感じるでしょう」と、迎えに行った呂省が答えた。

「しかし、わしの手元には一人の兵もいない」

「秦から借りるのです」

「これまでも何の接触もないのに秦が貸すであろうか」

「土地を譲りましょう。河西(黄河西部)の地を。晋国全部を手中にできるのですから、わずかなものです」

「晋の国内は、どうすればよいか」

「晋国内は、里克が抑えています。かれに領地を与えると協力は得られるでしょう」

「どこがよいか」

「汾陽(汾水の北)をお与えください」

「よいであろう」

こうして、夷吾は秦兵を率いて、晋に帰還した。これが晋の恵公である。

 ところが、即位すると恵公は秦に割譲することを約束した河西の地が惜しくなった。使者を立てて―領地は先君のもので、亡命者であったわたしが勝手に与えたのは無効であると諸大臣が反対しております。わたしも一生懸命に説得したのですが、反対を撤回させることはできませんでした。ついては、はなはだ申し訳ないことながら、河西の地の割譲はなかったことにしていただきたい―と、謝罪させた。

これは、当時でも馬鹿にした話である。

秦は夷吾に腹を立てた。

 恵公は同時に里克を呼んで、

 「あなたが迎えをよこしてくれたので、わたしは無事即位できた。非常に感謝している。しかし、あなたは幼いとはいえ二人の主君(奚斉と悼子)とひとりの大臣(荀息)を殺している。わたしとしても、そういうあなたの上に座るのはどうも居心地が悪い」
と言った。

自決せよという暗示である。里克は無念の思いで自刃して果てた。

最大の支援者であり、功労者を殺したことで、晋のひとは、上から下まで信用しなくなった。

恵公は里克が重耳と連絡することを恐れてのことであった。

 

2014年9月19日金曜日

「十八史略(32)―重耳と驪姫(8)」

 重耳と夷吾の連合派の総帥は里克であった。里克は奚斉を殺した。

献公の葬儀は、大臣の荀息によって執り行われた。喪主は驪姫の妹の少姫の子の悼子であった。まだ赤子である。しかし、喪主がいないと葬儀は行なえない。当時は、親の葬儀の喪主となった子が後継者となる。葬儀が終わると、喪主はすぐに処分しなければ、重耳も夷吾も戻れない。

 里克は、悼子も自らの手で殺した。

 大臣の荀息は献公との約束も守れず、二人の子の奚斉と悼子も護れず、驪姫をも死に誘った罪を感じ、自殺した。

 連合派はまず重耳に帰国を促した。だが、重耳は

――献公の葬儀に参列できなかったわたしが、なぜ帰国できましょう。資格がありませんーと断った。

  断るまでには、重耳は五人の賢者――趙衰、狐偃、賈佗、先軫、蘇武子――と、慎重に検討した。帰国はたしかに危険であった。

「これまで辛抱して、なにも今、苦労するために帰ることはない。厄介なことは夷吾にやらせよ」と趙衰が言った。

「膿が出てしまうのを待つのもいいが、そうなるとわれわれの帰る機会もなくならないか」と、先軫が懸念を示した。

「夷吾は、心配せずとも必ず自滅する」と賈佗が断言した。

「なぜそう思う」と、重耳が訊ねた。

「夷吾は好き嫌いが激しく、疑い深く、そのうえ吝嗇家です。国を長く治めることはできないでしょう」と、狐偃が代わりに答えた。

「それでは、どのくらい持つかな」

重耳が再び訊ねた。

「十年か、よく持てても十数年でしょう」と、狐偃が答えた。

「そうなると、わしは六十ではないか」と、重耳は苦笑した。

「しかし、無理をすることはない。今回は帰国するのを見合わせよう」

重耳が結論を出した。

 

2014年9月18日木曜日

「十八史略(31)―重耳と驪姫(7)」

 献公の命があと数日というときに驪姫は荀息を呼んだ。

「奚斉をどうか国外に逃してください。殿の亡きあとは、奚斉では無理なように思います」

荀息はしばし考え込んで、
「承知しました。奚斉さまと少姫さまのお子の悼子さまは、お二人とも国外に逃げていただきましょう。

「これで安堵いたしました。しかし、わが党の人たちには内密にお願いします」

「万事、お任せください」
荀息は深々と頭を下げた。

  そして献公が亡くなった。そのとき、驚愕したのは、驪姫であった。わが子の奚斉が宮中にいたのである。

「これはどういうことですか、荀息殿」
驪姫は顔面蒼白になって、荀息に詰問した。

「こちらにも、納得いかず、お聞きしたいことが山ほどあります。まず、望みなしということが分りながら、なぜわが党のために尽力されたのですか」

驪姫は答えることが出来なかった。

逆に荀息が
「だいたいのことは察しがついています。重耳殿と夷吾殿の二派の争いよりは奚斉殿を加えた三派の争いの方が、よほど国は乱れますからな」

二派よりも三派のほうが、混乱が大きくなる。二派は均衡がとれやすい。

「しかし、あなたの思惑は、少しばかりはずれたようですな」と、荀息は続けた。

「奚斉派があなたの頑張りで、息を吹き返しました。このために重耳派と夷吾派は手を結びました」

「連合すれば、この国は鎮まるでしょうか」

「重耳さまが戻られれば、鎮まります」

「重耳さまは、戻られませんよ。ほ、ほ、ほ」
驪姫は、さもおかしそうに笑った。

こんどは驚くのは、荀息の方で、
「あなたは、そこまで手を打ったというのですか」

「はい、手を打ちました」
驪姫は、再三使者を送った。大臣の名をかたったこともあった。帰国が不利なことも知らせた。また、暗殺者が送られているので、狄の地から出ないほうがいいとも大臣の名で送った。

「そこまで、手をまわされていましたか」

「驪戎の地を踏み荒らした酬いです」

「分りました。しかし、奚斉さまには、晋の太子としての役目を果たしてもらいます」
荀息はきっぱりと言った。
 
「あなたは晋の太子の運命など見たくないでしょう」と自裁することを暗に勧めた。

驪姫は園庭に出て、池にかかる橋から身を投じた。

 

2014年9月17日水曜日

「十八史略(30)―重耳と驪姫(6)」

 一方、夷吾は屈城に立て籠もって、固く守ったために献公の晋軍もこれを開城させることは出来なかった。籠城戦は1年以上に及んだ。しかし、夷吾は徐々に疲弊し始めたために屈城を捨てて亡命することにした。

重耳と夷吾の母たちは、母同士が姉妹で、狄の狐氏の女であった。重耳が狄に逃げ込んだために夷吾は別の亡命先を探さねばならなかった。夷吾は梁(現在の山西省)を亡命先に選んだ。

 残された三人の後継者候補の中で一番弱かったのは、正式な太子となった驪姫の産んだ奚斉であった。

(殿が死ねば、奚斉を誰も支えないであろう)
というのが家臣の多くの考えであった。重耳と夷吾のいずれかが、クーデターを起こすと奚斉についている者もこのふたりに付くであろう。献公も心配でならなかった。大臣の中で、最も信頼のおける者に奚斉を託すことにした。選んだのは、荀息であった。

献公は荀息を自室に呼んで、
「わしの亡きあと、そなたは奚斉を支えてくれるかの」と問うた。

「出来ます」

「なぜ出来るというのか」

「殿、生き返ってごらんになってください」

秀吉もそうであったが、年をとって愛妾に生ませた子は、とりわけ不憫なようであった。

  この頃、驪姫は狄にいる重耳にせっせと密使を送っていた。晋の重臣の名を騙ってである。

ある密使には、

――献公の余命は幾ばくもありません。太子の奚斉は、若くて誰も信服しておりません。大臣たちは、あなたを擁立しようと考えております。どうぞ帰国の準備を整えてください

 と言わせ、別の密使には、

――梁に亡命中の夷吾が、あなたの帰国を待ち伏せして、暗殺しようとしています。ご用心ください。

また、ある密使には、

――蒲城であなたを打ち損じた勃鞮が、ひそかに刺客を放って、あなたのお命を狙っておりますと知らせた。

驪姫はいろんな手を打って、ひそかに献公の死を待った。長年の恨みが叶う日が来るのである。

驪姫は奚斉派の引き締めのためには惜しみなく金銭も使い、領地を与えるという約束も乱発した。このために奚斉派も巻き返した。

 

2014年9月16日火曜日

「十八史略(29)―重耳と驪姫(5)」

  その場にいたものが、急遽、宿舎に滞在中の申生にこの事件を知らせた。申生は、身の証を立てることは不可能だと考え、曲沃に急ぎ帰った。

申生の側近たちは
「これは驪姫が企んだことに違いありません。堂々と申し出て黒白を明確にしましょう」と言った。

優しい申生は
「父上は高齢ですべて驪姫なしでは、生きてゆけぬ。もし驪姫の罪を明らかにすれば、父上から驪姫を取り上げねばならない。そうなれば、父上はどういう生活をなされるか。ここで驪姫と争っては親不孝になる」と言った。

側近が、それではと亡命を勧めても
「亡命をしたところで、誰がわたしの言うことを聞いてくれよう。わたしは死ぬしかない」と答えてその年の12月に曲沃で自殺した。これは、驪姫の予想外の結果であったが、あとのふたりの兄弟も潰すべく、献公に対して、

「申生が殿を毒殺しようとした件には、重耳、夷吾の二公子も結託してのことです。直ちに処分をしてください」と巧みに献公に吹き込んだ。

「けしからぬ。直ちにひっとらえよ」と献公は怒鳴った。

これらのことは、二公子にも知らされた。

二公子は、それぞれの城に逃げた。重耳は蒲城に、夷吾は屈城へ。

献公はふたりの出奔を知って直ちに動員令を下し、追っ手をかけた。

このとき、ふたりの公子はまったく異なる対応をした。

夷吾は屈城に立て籠もり、徹底抗戦を図り、重耳は蒲城を抜け出すことを考えた。

献公が派遣した討伐軍から、宦官の勃鞮という者が降伏の使者として蒲城にやってきた。

  勃鞮は、宝剣を重耳の前において、
「戦っても勝ち目はありません。太子申生にならって潔くこの剣で御自害ください」と説得した。重耳は、うなだれて、心身ともに疲れたと見せかけた。といいながら、勃鞮の様子を窺っていた。

「ご無念でございましょうが、君命ですぞ」と勃鞮は重苦しい声を発した。勃鞮もこういう役はいやである。公子が自決するところを正視できるものではない。目をそらした。この瞬間、重耳は俊敏に立ち上がり、一目散に駆け出した。

「しまった」と、勃鞮は前にあった宝剣を掴み、重耳を追った。重耳は庭を横切って逃げた。重耳はすでに43歳である。若い勃鞮に追いつかれ、あわやというときに垣を飛び越えた。勃鞮は宝剣を横に薙いだが、そこには重耳はいなかった。こうして、重耳は脱走に成功した。重耳ははるか母の実家のある狄に逃げ込んだ。勃鞮はこのときのことを忘れられずに、のちのちまでも暗殺者を重耳に送り続けることになる。


2014年9月15日月曜日

「十八史略(28)-重耳と驪姫(4)」

 東山討伐の4年後、献公21年(紀元前656年)になって驪姫は仕上げにとりかかった。驪山から晋に連れて来られて16年が経過していた。辛抱強く献公の体力が衰え、気力が尽きるのを待った。

 建物の基礎部分はすっかり腐らされ、嵐が来れば、壊れるばかりになっていた。
 
 ある日、驪姫は曲沃の宗廟から参内してきた申生に、
 「殿様は、あなたの母上の夢をごらんになったそうです。大至急、曲沃の廟でお祀りして、その供え物を殿に献上なさいませ」と言った。祖先の祀りは、庶民は肉を供えることは許されなかったが、申生の母は王族であったために牛、豚、羊を供えることが出来た。そして、これらの供え物は胙(ひもろぎ)、あるいは福と称して血縁のものに贈られた。

 申生は祀りをすませたあと、供え物をもって宮殿に赴き、父に献上しようとした。しかし、献公は狩猟に出かけて不在であったので、供え物を宮中に預けた。

驪姫はその中に毒を盛った。

献公が戻って来ると、料理長が申生が献上した供え物を並べた。

献公は、それに手をのばし、口に入れようとした。この時、驪姫が
 「お待ちください」とそばから声を出した。

 「曲沃からは遠い道のりですので、傷んでいるかも分りません。試してみてはいかがでしょうか」

たしかに腐敗の心配をしてもおかしくない。献公も
 「そうだな」と肉を犬に与えたところ、犬は一声鳴くとばったりと悶絶してしまった。念のために奴隷を連れて来て酒を飲ませたところ、これも血を吐いて倒れた。

 「おのれ申生め」と献公は怒った。

これを見て、驪姫は涙を流しながら
 「申生さまがこんなことをなさるはずがありません。悪党があの方を利用しようとしたのでしょう」
 と申生をかばった。

老いた献公は、こういうひどいことをされても庇う驪姫を見てますますいじらしく感じ、逆に申生への怒りが増した。

 

2014年9月12日金曜日

「十八史略(27)-重耳と驪姫(3)」

金玦
 太子の申生、その弟の重耳、夷吾を遠隔地に遠ざけてから、献公は赤狄族の分派である東山を討伐することにした。討伐軍の総司令官には太子の申生が任命された。

大臣の里克は、
 「太子には、祖先の祭祀を行なうという大事な仕事があります。太子を将軍にするのは前例がありません。どうかお取り消しをお願いいたします」

と諌めた。しかし、献公は聞き入れなかった。

太子は、出陣にあたって、父の献公から偏衣と金玦を送られた。そして、それを身につけるように命ぜられた。

偏衣というのは、左右の色が違う服である。片方は、君主の服に似た色を用いる。半ば君主であるというので、その後継者に相応しい服のようだが、実はそうではない。君主と断絶されているということを表す。金玦は装身具である。環のようであるが、まるく繋がっていない。これは、つながっていないぞという謎かけであった。

 太子みずから軍を率いて外征するのは、異例のことであった。
 申生は、
 「わたしは、父に愛されていない」と感じた。

 幸いに申生は東山討伐に成功した。もし、失敗していれば、ほかの将軍のように敗戦の責任をとらされたであろう。

 ある日、宮廷俳優の施が、申生を訊ねてきた。

 「あまりといえば、あまりではありませんか。太子であるあなたさまを廃立するような仕打ちではありませんか」
と、申生の愚痴を聞こうとしたが、申生は施が驪姫の腹心であることを里克からも聞いていた。申生がことばに乗ってうっかり愚痴でも漏らそうものなら、尾ひれがついて大変なことになるだろうと自覚していた。日本の飛鳥時代に大津皇子がいた。彼は、僧行心のうまいことばに乗せられ、心にもないことを発し、謀反の罪を着せられた。その面からいえば申生は賢い人間というべきであろう。

 

2014年9月11日木曜日

「十八史略(26)-驪姫と重耳(2)」

 賢い驪姫は、三公子の派閥があることを知っていた。そのなかで、最大の派閥は太子申生の派閥である。

申生が曲沃から戻って参内したときに、驪姫は申生を園庭に招き入れた。

 その前日、驪姫は献公に、
 「申生様は面白いお方ですね。今日もきわどいご冗談を言われたのですよ」

 「どんな冗談を」
 お祖父さまは亡くなって、わたしの母を父上に遺した。お父上もお亡くなりになれば、わたしにそなたを遺してくれるであろうか、などと」

 「まさか、申生が」と献公は絶句した。

 「信じられない」

 「それなら、申生様はわたしを明日、園庭にお誘いになりました。ここから見ていてください」

そこから、園庭はよく見える位置にあった。

驪姫から招待を受けた申生は園庭の花壇のそばで待っていた。

前日、驪姫は申生に
 「わたしが丹精こめた、牡丹をお見せいたしますわ」
 と誘ったのである。

申生は優しい人間で花には目がなかった。すばらしい牡丹の花が見れることで浮き浮きしていた。

宮殿の楼上から、父の献公が見ていた。

驪姫が現れた。牡丹の鉢のほうに申生を案内した。申生の方に歩み寄った驪姫は、おびえた顔で首をすくめた。蜂が驪姫の首のまわりをまつわりついてきた。

「蜂を追ってください」と驪姫は申生に頼んだ。

申生は驪姫に近づいて、蜂を払おうとした。驪姫は両手で顔を覆いながら走り出した。

 そして、驪姫は宮殿に走りこんだ。後宮は申生も入ることが出来ず、追うことをあきらめた。

 楼上から見ていると、いやがる驪姫を申生が追いかけているように見えた。驪姫は献公のところに走り込み体を預けた。驪姫の顔は涙で濡れていた。

 「おのれ、申生め。すぐに処分しよう」と献公はいきり立った。

驪姫は「おやめください。いま申生さまを処分されようとしますと、この国は分裂いたします。いまはどうぞ我慢してください」と喘ぎながら言った。

献公は、右コブシを握り締め、わなわなと震えたがやっとのところで抑えたが、心の中では申生を廃立することを決心していた。

 「お分かりいただきましたか。わたしは、涙で汚れた顔を洗ってまいります」と、別室に移り、髪に挿した簪を抜き、洗った。簪には、蜂を呼び寄せるために蜜が塗りつけてあった。

 

2014年9月10日水曜日

十八史略(25)-「重耳と驪姫(1)」

華清池
 驪山のある地、秦の始皇帝の墓所、楊貴妃が玄宗皇帝に熱愛された華清池がある
 この地に春秋時代にひとりの美女が出た。驪姫という。晋の献公が驪戎を討って、驪姫とその妹を得たのは紀元前672年のことであった。驪戎は美人姉妹を献上することで、本領を安堵してもらった。それまでに驪姫姉妹の噂は四方に広まっていた。

時代は斉の桓公が覇者となり、諸侯の上に立っていた。桓公は有名な女好きである。覇者ともなっており、献公はこれを出し抜いて驪姫を得たことに有頂天になった。気分は爽快であった。しかし、驪姫は驪戎を踏みにじった晋を許すことは出来ぬと心に決めていた。彼女は献公に抱かれているときも常にこの恨みを心の奥にたたんで決して忘れなかった。

 献公には賈という国から正妻を迎えていたが、子はいなかった。父の死後、父の夫人で斉の桓公の娘であった斉姜を自分の夫人とした。そして一男一女をもうけていた。男の子は申生といって太子としていた。また、狄族の姉妹も娶り、姉は重耳を生み、妹は夷吾を生んだ。このあとに驪姫が現れた。驪姫にも奚斉が生まれた。紀元前665年であった。奚斉が生まれても驪姫は晋への復讐は忘れなかった。

 「いずれは、奚斉を太子にしよう」と献公は驪姫に言った。そうすると、驪姫は首を振って、

 「太子にはすでに立派な申生さまがおられます。周囲もみな、申生さまが晋の太子と認めております」

 「なんと欲のないことか」とますます彼女の魅力に負けていった。

 太子の申生はすでに壮年というべき年齢になっており、実直な太子であった。しかし、陰鬱な顔をしていた。彼の母は、祖父の夫人として斉から入嫁した。それが、祖父が亡くなると父が夫人とし、申生が生まれた。道徳上も感心できないとされていた。

献公は申生を廃立し、奚斉に国を譲りたいと考えていた。この子を国主にするためには、申生のみならず、重耳や夷吾も障害になる。

そこで献公は
 「晋国には大事な三つの要地がある。第1は先祖の宗廟のある曲沃、第2は秦との国境に近い蒲城、第3は狄と国境を接する城である。この要地は是非わが子を派遣し、安寧を得たいと思う。
曲沃には申生、蒲城には重耳、屈城には夷城に守ってもらおう」

ていよく赤ん坊のライバルを中央から追い払ったのである。

(内心、驪姫はほくそ笑んだ)

 

2014年9月4日木曜日

「十八史略(24)―鮑叔牙と管仲⑬」

 覇者桓公の治世は42年に及んだ。管仲は桓公に先立つこと2年で死んだ。臨終の枕元には、鮑叔牙がいた。

 「君のおかげで悔いのない一生だった」と管仲はしみじみと鮑叔牙に看取られながら、口を開いた。

「いやあ、わたしこそやりたいことがやれた。しかも命の心配をせずとも」

「あの早い者勝ち競争に負けてわたしは殺されていた。それが助かってからの40年は、おかげで死ぬ気でやれた」

「わたしは、そこを見込んで殿に推薦した。わたしは、気宇は大きかったが、小心者であった。命を落とすのが怖かった。それがあの競争で勝って、命の危険なしにでかいことができた。ありがたいことだった」

「わたしこそありがたかった。わたしは死ぬのは怖くなかった。一度死んだ身だから。天下を舞台に仕事がしたかった」

鮑叔牙は、才能、経験、知識はあったが、臆病であった。志は遂げたいが、失敗するとあっさり首を刎ねられた時代であった。鮑叔牙は、管仲を通して、自分の抱負を実現しようとした。

「あんたは責任が及ばないので、わたしに随分思いきったことをさせたな」

「わたしもあんたを殺したくないので、あれこれ考えた。だから、あんたもこうして床の上で死ねる」

管仲は、静かに目を閉じた。

 

2014年9月3日水曜日

「十八史略(23)―鮑叔牙と管仲⑫」

 桓公が諸侯に召集をかけ、甄(けん)で会盟したのは、この2年後のことである。脅迫された盟約でさえ守ったので、諸侯が桓公を信じたのであった。

この会盟によって桓公は覇者と認められた。

会盟の16年後、塞外の異民族である山戎が燕の国に攻め込んできた。燕は今の北京を含む河北省である。今でも北京のことは燕京と呼ばれるのはこれに由来する。燕の国主荘公は斉に援護を求めて来た。斉の桓公は自ら兵を率いて山戎を塞外に押し返した。

これに感激した荘公は桓公の帰還の折に国境を越えてはるか斉の地まで見送った。

「おたがいに礼法にそむきましたな」

と斉の桓公はにこやかに言った。

自分の領地を越えて見送るのは、相手が天子の場合に限られる。諸侯同士の場合は、自国の国境線までというのが礼法であった。燕の荘公は感謝の意を表したいばかりに、遠くまで送ったのである。

桓公は部下に命じて、自分の立っている場所と荘公の立っている場所の間に溝を掘らせた。

「これを新しい国境にしましょう。あなたは自国の国境から出ていないことになり、おたがいの礼法を守ったことになります」

秦と楚以外の中原の諸侯はほとんど斉の勢力下に入った。

 

2014年9月2日火曜日

「十八史略(22)―鮑叔牙と管仲⑪」

 気の毒であったのは、魯国で、長い国境線で斉と接していた。魯は何度戦っても斉に勝てなかった。その連戦連敗の将軍が曹沫であった。それでも魯の荘公は曹沫を首にしなかった。曹沫はこの知遇にどう応えたらいいのか、考えに考え抜いていた。

 紀元前681年にも斉と魯は戦いがあり、魯は負けた。その賠償として、遂の地の割譲を申し出た。魯の荘公は空を仰ぎ、涙をのんで、講和の会議に向かった。曹沫も随行した。

講和の盟は壇を築いて行なわれる。

 その作法は、牛を殺してその左耳を盤に盛り、その血で誓約のことばを書き、神明に告げたあと、その血を啜って読み上げる。魯の荘公がまさに盟を行なおうとしたときに、曹沫は壇に駆け上り、斉の桓公に飛びかかった。

 曹沫は左手で桓公の襟をとらえ、右手には匕首が桓公の胸元につきつけられていた。曹沫はしずかに言った。

「斉は大国。魯は小国。これまで、大国の侵略を受けて、城壁は崩れ、国境線は侵食されてぎりぎりのところに来ています。どうぞ奪った土地をお返し願いたい」

斉の家臣たちもどうすることも出来ない。下手に動けば、主人の命が危ない。

「わかった」と桓公も答える以外になかった。

「では、その盟をここで誓っていただきましょう」と、曹沫は言った。

盟が終わると、曹沫は匕首を捨て、何事もなかったように席に坐った。

桓公は憤り、「奪った土地から兵を引くな。脅しによる盟約は無効だぞ」

と命じた。

このとき、管仲は

「それはいけません」と言った。

「なぜいけないのか」

「小さな土地ではありませんか。そのために諸侯の信用を失っては、何もなりません」

桓公は、しばらく考えたのちに

「わかった。兵を引け」

と改めた。