2013年7月31日水曜日

老化は治せる(1)

  「老化は治せる」という言葉に惹かれて購入しました。後藤眞著で、集英社文庫より発売されているものです。

後藤氏は、「老化という言葉は、何歳ぐらいから意識されはじめるのでしょうか。若いころには他人事のように感じられた老化という現象が、歳を重ねるにつれ、事あるごとに意識にあがってくるといった具合でしょうか。

あるいは、周りの同年代の衰えぶりを目の当たりにするたびに、いつしか老化という現象を受け入れざるをえなくなるのでしょうか」と問うています。老化を押しとどめることはできるはずもないと誰もが思っていますが、権力を握ったひと、莫大な富を築いたひとが、お金で、あるいは権力で自分だけは老化は受け入れず、死さえも受け入れることが出来ずにさまざまな方法を試みてきました。

有名なのは、秦の時代に始皇帝の命を受けて莫大な費用をかけて東海に乗りだした徐福の一団があります。徐福は、現在のいちき串木野市に上陸し、同市内にある冠嶽に自分の冠を奉納したことが、冠嶽神社の起源と言われます。冠嶽神社の末社に、蘇我馬子が建立したと言われるたばこ神社(大岩戸神社)があり、天然の葉たばこが自生しているそうです。徐福が上陸したと伝わる三重県熊野市波田須から2200年前の中国の硬貨である半両銭が発見されています。波田須駅1.5kmのところに徐福ノ宮があり、徐福が持参したと伝わるすり鉢をご神体としています。

どうやら、徐福が日本に来た確率は高いようですが、徐福は不老不死に効く薬草は発見できずにそのまま日本に埋もれたようです。
 
 そのほか、多くの人が不老不死の霊薬や護符を求めましたが、それを実現したという話は古来、聞こえたためしがありません。しかし、現代になって、老化研究(老科学)とアンチエイジング(抗加齢)医学研究の最前線から、これまでの常識を覆すような新しい知見が出てきました。その知見を一言でいえば、「老化は病気であり、病気である以上、治療の対象となる」というものです。研究の成り行きによっては、かつて錬金術師たちが夢見た不老さえも実現できるのではないか―そんな可能性が見えてきたのです。

2013年7月30日火曜日

松平容保一族(2)

 長男広大は華族に任じられ、陸軍に、七男保男は海軍に迎えられました。次男健雄は分家し、会津高田町の伊佐須美神社の宮司になりました。伊佐須美神社は、文藝春秋の目次があるページに毎号広告が必ず載せられています。なにかの縁があるのでしょうか。建雄の次男が、福島県知事松平勇雄です。

  四男恒雄は、外交官となり、その娘が、秩父宮に嫁いだ勢津子妃です。

  金融恐慌と不景気の昭和初期、秩父宮と松平勢津子姫の御婚約のニュースは、会津人を大変、沸かせました。政府内部には、「朝敵の娘を皇室に入れるとは、なんぞや」という反対意見があったようです。

全会津のひとたちは、松平家が皇室と縁戚関係になり、朝敵の汚名を一掃できる事を喜び、慶祝行事は、3日3晩繰り広げられたといいます。

会津若松市は、本来、県庁所在地になって当然のことですが、なっていません。たしか国立大学も会津若松市にはありません。やはり勝たねばなりません。敗者の美学は、スポーツだけにしておかないと、子々孫々を不幸にします。

 

2013年7月29日月曜日

松平容保一族(1)

 降伏後の会津藩士は、各地で謹慎していました。容保は、斗南藩移住後、明治5年謹慎を解かれ、主に東京に住みました。会津藩士ら総勢1万7千人が、移住しました。

  斗南は、不毛に近く、実質上の島流しで、藩士達は、寒さと飢えに耐え、慣れない百姓仕事や、北海道へ漁業の出稼ぎをして、しのぎました。 しかし、何と、翌明治4年7月、廃藩置県となり、斗南はなくなりました。斗南に残る者もいましたが、多くは会津に帰りました。官吏や教員に採用された者は良いのですが、その他は、生活は苦しく、安積の開墾地、北海道(会津町)、アメリカ合衆国(サクラメント)等の新天地で、それぞれの生活を始めました。

明治13年、松平家庭園の御薬園(鶴ヶ城の東)を政府より買い戻し、容保に与えられました。容保は、数年間、家族と伴に、御薬園に住みましたが、庭園管理が大変なため、これを市に寄付し、東京・大久保に戻りました。

 明治政府より、子爵を与えられ、東照宮宮司(非常勤)に就き、無言のまま、明治26年、59歳で病没しました。傍らには、孝明天皇から賜った宸翰(親書)がありました。

 

2013年7月28日日曜日

西郷頼母(2)―西田敏行

 会津から落ち延びてからは、榎本武揚土方歳三と合流して箱館戦線で江差まで戦ったものの、旧幕府軍が降伏すると箱館で捕らえられ、館林藩預け置きとなりました。

明治5年(1872)に赦免され、伊豆で依田佐二平の開設した謹申学舎塾の塾長を務めました。

明治12年(1879)、長男の吉十郎が病没したため、甥(志田貞二郎の三男)の志田四郎を養子とし、彼に柔術を教えました。四郎は成人した後、上京して講道館に入門し、柔道家として大成します。小説や映画で名高い姿三四郎は彼がモデルとされます。

明治13年(1880)、旧会津藩主・松平容保が日光東照宮宮司となると、頼母は禰宜となって支えています。明治20年(1887)、日光東照宮の禰宜を辞し、大同団結運動に加わる。会津と東京を拠点として、政治活動に加わり、代議士となる準備を進めていましたが、大同団結運動が瓦解したため政治運動から身を引き、郷里の若松(現・会津若松市)に戻って来ました。

明治36年(1903年)に会津若松の十軒長屋で74歳で死去しました。

 

2013年7月27日土曜日

西郷頼母(1)―西田敏行

 万延元年(1860)、家督と家老職を継いで藩主・松平容保に仕えました。文久2年(1862)、幕府から京都守護職就任を要請された容保に対し、政局に巻き込まれないよう辞退を進言しましたが、容保の怒りを買いました。その後も、藩の請け負った京都守護の責務に対して否定的な姿勢を覆さず、禁門の変が起きる直前に上京して藩士たちに帰国を説いて回っています。ところが、賛同されずにかえって帰国を強いられました。
しかも、家老職まで解任された上に、蟄居までさせられています。


明治元年(1868)、戊辰戦争の勃発によって容保から家老職復帰を許された頼母は、江戸藩邸の後始末の任を終えたのち会津へ帰還しました。このとき、頼母を含む主な家老、若年寄たちは、容保の意に従い、新政府への恭順に備えていましたが、新政府側からの容保親子の斬首要求が来て態度を一変しました。やむなく頼母も白河口総督として白河城を攻略し、新政府軍を迎撃しましたが、伊地知正治率いる薩摩兵主体の新政府軍による攻撃を受けて白河城を奪われました(白河口の戦い)。

鶴ヶ城に帰参した頼母は、再び恭順を勧めます。しかし会津藩士の多くは、なおも新政府への徹底抗戦を主張。意見の折り合わぬ頼母は、長子・吉十郎のみを伴い城から脱出することとなりました。なお、このときには母や妻子など一族21人は自邸で自刃していました。

 

 

2013年7月26日金曜日

佐川官兵衛(中村獅童)

 武勇に秀で、薩長から「の官兵衛」、「鬼佐川」と恐れられていました。戊辰戦争に負けて後、旧会津藩が斗南藩として再興されると、青森県三戸郡五戸町へ移住しました。警視庁を設立した初代長官川路利良大警視が熱心に佐川を誘ったといいます。最初は辞退しましたが、旧藩士たちのあまりの窮乏さに300名を連れて警視庁に出仕しました。
 ここで、一等大警部に任命されました。明治10年(1877)の西南戦争では豊後口第二号警視隊副指揮長兼一番小隊長として従軍し、熊本県阿蘇郡において被弾し、これが原因で戦死しました。戊辰戦争の仇を西南戦争でとろうとしたのでしょう。享年47歳。墓は大分縣護國神社にあります。

性格は直情的だが人情に厚く、多くの会津藩士から信頼されていました。慶応4年(18681鳥羽・伏見の戦い後は会津に戻って越後戦線へ出陣しましたが、戦況が不利になると奥羽越列藩同盟諸藩とともに戦線を離れて会津へ帰還し、若年寄、のちに家老に進みました。会津戦争では、8月29に精鋭約1,000人を率いて城外出撃の指揮官を任じられましたが、出撃前夜に藩主から賜った酒を飲みすぎ、早暁に出撃する予定が遅れて敗北を喫しました(長命寺の戦い)。9月5の材木町(住吉河原)の戦いでは、汚名挽回とばかりに、少数の兵で新政府軍を破り、鶴ヶ城への糧道を確保しました。戦後は藩主や家老、若年寄とともに東京謹慎していました。

 

2013年7月25日木曜日

川崎尚之助(長谷川博己)(2)

 斗南藩には購入する現金がないため栽培中の大豆を担保にしました。しかし金に困っていた米座省三はこの先物手形を持って逃げ、これを担保にブランキントン商会から借金して逃亡しました。米座の借金返済がなければ広東米を受け取れません。米座は東京で逮捕されましたが、斗南藩の大豆栽培は、うまく行かず不作でした。手に入った広東米も古米となってしまい、米相場の下落もあって返済が出来なくなり、当然デンマーク商人デュークから訴えられました。外国人の絡んだ裁判のために法廷は東京で開かれました。
 このために尚之助と柴太一郎は東京へ移送されました。斗南藩は、この取引には一切関係ないと突き放し、尚之助もまた個人的取引だと藩を庇ったといいます。身元引受人が3回も変わるトラブルや、今日食べる物もない貧困生活の中で、身体を壊し、重い慢性肺炎に罹りました。3人目の身元引受人・根津親徳が東京医学校病院(現・東京大学医学部附属病院)に入院させましたが、治療の甲斐なく、明治8年(1875)年3月20日に永眠しました。享年39歳。この時点で尚之助の戸籍には八重の名前はなかったといいます。裁判で敗訴すれば、八重に膨大な負債が生じるために籍からはずしていたようです。

2013年7月24日水曜日

川崎尚之助(長谷川博己)(1)

 尚之助(当時は正之助)は、出石藩の医師の子として生まれ、1854年頃に江戸に出て蘭学、兵学を学んでいましたが、江戸遊学に来ていた八重の兄の山本覚馬と知り合いました。そして、覚馬が会津藩日新館蘭学所の教授に推薦しましたが、会津藩士でないものを教授方にするわけにもいかず、悪いことに覚馬は、目を悪くしており、会津藩の将来を憂えて、川崎を藩士にするために八重と結婚させたといわれています。

結局、戊辰戦争で会津は降伏し、尚之助も猪苗代で謹慎をしていました。山本家とは連絡も取れず、仕方なく青森斗南藩士として仕えていましたが、石高三万石は名ばかりで、作物も育たない貧しい土地で食料に乏しい藩の民を救済する為「開産掛」を任され、米の調達のために同じ藩士の柴太一郎と共に北海道へ渡りました。尚之助は函館で自称・斗南藩士を名乗る米座省三(実際には信州商人で詐欺師)と知り合い、彼の紹介でデンマーク商人デュークと広東米の先物取引を成立させました。

2013年7月23日火曜日

八重の家族

 八重の父・山本権八(松重豊)は会津若松城の城外の戦闘で討ち死。
母・佐久、姪・峰は、八重とともに京都府の顧問をやっていた覚馬を頼って1871年京都にやってきました。ここで、八重は新島襄と運命的な出会いをします。1875年襄と婚約しました。襄の本名は、七五三太(しめた)といいます。佐久は京都で5年間寮の舎監をつとめました。“この母あって、この子、八重あり”といわれたようです。
 

2013年7月22日月曜日

山本覚馬(西島秀俊)(2)

  覚馬は維新後に購入していた旧薩摩藩二本松藩邸の敷地(6000坪)を学校用地として新島に譲渡、次いで新島との連名で「私学開業願」を文部省に出願、これが認可されました。この校地は、やがて設立された同志社英学校からその後身である同志社大学に継承され、現在の今出川キャンパスとなっています(なお、「同志社」は覚馬の命名といわれます)。明治18年(1885年)、京都商工会議所会長に就任しましたが、明治23年(1890年)新島が他界しました。覚馬は同志社臨時総長として、同志社の発展に尽力します。明治25年(189264歳で没。

 

2013年7月21日日曜日

山本覚馬(西島秀俊)(1)

  八重の兄です。覚馬は、1868年の鳥羽伏見の戦いの時には京都におり、会津は薩長と戦うべきでないと意見具申しようとしましたが、京都蹴上で薩軍に捕らえられ牢に入れられます。牢に入れられていたときに完成させたのが、有名な「管見」でした。政体から始まり、学校、産業、貨幣、女性、外交、港湾、貿易、時制、暦法、髪型まで全22カ条に及び、多様な問題を縦横に論じています。これを読むと、覚馬が単なる軍学者、砲術家ではなく、幅広い視野と開明的な最新知識をもった人物だったことがわかります。
 覚馬は「管見」を薩摩藩主・島津忠義に建言するためにまとめたといいますが、失明していたため、会津藩の後輩の野沢雞一に口述筆記させました。野沢は弱冠17歳でした。「管見」を一読した薩摩藩家老の小松帯刀や西郷吉之助はすっかり感服して覚馬を厚遇し、治療所に移しました。覚馬は翌明治2年(1,869年)に釈放されました。自由の身となった覚馬は、明治3年(1870)、京都府大参事・河田佐久馬の推薦により京都府庁に出仕しました。


 

2013年7月20日土曜日

山本八重(2)

  八重と襄の間には、子供はおらず、新島家には襄以外に男子がいなかったため養子を迎えましたが、この養子とは疎遠であったといいます。襄の門人たちとも性格的にそりが合わず、同志社とも次第に疎遠になっていきました。八重は、金遣いも荒く、同志社には借金もあったようです。襄が48歳で亡くなった明治23年(1890)、八重は日本赤十字社の正会員となり、明治27年(1894日清戦争では、広島の陸軍予備病院で4ヵ月間篤志看護婦として従軍しました。40人の看護婦の取締役として、怪我人の看護だけでなく、看護婦の地位の向上にも努めました。明治37年(1904日露戦争時には、大阪陸軍予備病院で2ヶ月間篤志看護婦として従軍しました。

晩年は雨などに濡れている女学生を見ると無言で傘を差し出す姿が見られたといいます。次代を担う女性を大切に思っていたようです。

ただ、芯の強さを示す逸話が残っています。兄・覚馬は、40代のときにまだ10代の時栄と結婚しますが、この時栄がその後、不倫を犯したために離縁させます。覚馬は、許してもよいと考えていたようですが、八重は許しませんでした。しかし、覚馬と時栄との子、久栄は育てています。

昭和7年(1932年)61486歳で亡くなりました。

2013年7月19日金曜日

山本八重(1)

 
辰戦争以後について述べてみます。川崎尚之助との離婚手続きが取られたのは明治4年(1871年)旧暦12月のことです。

明治4年(1871年)、京都府の顧問となっていた実兄・山本覚馬を頼って、母・佐久、姪・峰(覚馬とうらの子)とともに、上洛します。覚馬の妻・うらは、上洛を拒みます。翌年、八重は兄の推薦により京都女紅場(後の府立第一高女)の権舎長・教道試補となります。

この時、兄の元に出入りしていた新島襄と知り合い、明治8年(187510月に婚約し、翌年1月3に結婚しました。欧米流のレディファーストが身に付いていた襄と、男勝りの性格だった八重は似合いの夫婦であったといわれたりしますが、夫をかしずかせ、車にも夫より先に乗る姿を見て世間から悪妻と評されました。襄は、こういうことは一向に気にしなかったようです。

同志社英学校の学生達の演説会に夫婦で出席した際には、当時学生であった徳富蘇峰に演壇より「頭と足は西洋、胴体は日本というのような女性がいる」と強く非難されたりしました。これに対し八重は全く動じなかったといいます。夫婦仲はとても良く、襄はこの時期にアメリカの友人への手紙で「妻は見た目は美しくはありませんが、生き方がハンサムです。私は十分満足しています」と書いています。

 

2013年7月18日木曜日

おかしなドコモのツートップ戦略

 NECカシオとレノボの合併の話がなくなりました。NECカシオはレノボに全部買ってほしかったのでしょうが、レノボが調査をしてみると、意外にNECカシオには事業価値を見出さなかったのでしょう。以前にノキアが三洋テレコミュニケーションズを買収するために三洋の住道事業所に大挙押しかけ、結局は買わなかったことが頭を横切ります。今回は、レノボがどの程度NECカシオを調査したか分りませんが、ここに来ての合併白紙は同様のことがあったように思います。

 それにしても、日本携帯電話機メーカーは気の毒です。特にNTTドコモのツートップ戦略には、憤りを持たれたメーカーも多いことと思います。

 ツートップが、なぜソニーとサムスンなのか。これまで、NTTドコモに協力させられてきたメーカーは憤懣やる方ないでしょう。

 日本におけるシエアからゆくと、アップル(25.5%)、富士通(14.4%)、シャープ(14.0%)、ソニー(9.8%)、サムスン(7.2%)、京セラ(7.1%)です。ソニー、サムスンは、どちらかというと下位メーカーです。決められた経過は分りませんが、ソニー、サムスン以外のメーカーは、気の毒に感じます。売れないのに機種数を揃えさせられたり、儲けの少ない低価格機種を開発させられたり、通信キャリアのご意向に沿って開発してきたにもかかわらず、これまであまり協力的ではなかったと思われるソニー、サムスンをツートップにするとは、不思議です。良くも悪くも日本人のDNAを持たないひとが選んだのでしょう。

ツートップに選ばれなかった企業は、それではと、海外で雄飛してほしいものです。はるかに大きな市場が、海外にはあります。見返すぐらいの息のある若いエンジニア、若い営業マンの出現を待ちたいものです。このまま腐っては、日本男児の名折れです。昔、日本の水軍は朝鮮から中国、安南まで、羽を広げました。今は、さらに世界が広くなっています。世界を目指して頑張ってほしいものです。世界は、日本の優秀な端末を待っています。

 

2013年7月17日水曜日

八重の桜

 綾瀬はるか主演の「八重の桜」が、少し低視聴率のようです。1-10回の平均が17.34%11-20回が14.03%21-30回が13.86%と、徐々に下がっています。もともと、よく知られていない人物なので、高視聴率は期待できないと思っていました。
 綾瀬はるかの魅力で、もう少し視聴率が上がるかとも思いましたが、先の松山ケンイチの平清盛で、大河ドラマ離れが進んでいたのでしょう。後半に八重の夫となる新島襄をオダギリジョーが演じるので、NHKは視聴率を挽回できると思っているのでしょうが、はたしてどうでしょう。襄とジョーを懸けて、藁にも縋るつもりでしょうか。

よく知りませんでしたが、幕末から明治維新の頃の会津藩士には、魅力があり有能な人が多かったように思います。今回から、「八重の桜」に登場した人物のその後にふれます。

 

2013年7月16日火曜日

日本を貶める韓国の運動 

 韓国には「女性家族省」という省があるそうです。そのホームページに、いわゆる“従軍慰安婦”の特集写真が載ったことがあるそうです。6月29日の夕刊フジに室谷克実が書いています。

「見ると、ポスター写真があった。そこには『募集』という漢字がくっきりと映し出されている。『強制だ、強制だ』とわめきながらの尻割れだ。爆笑しつつ、漢字を読めなくなった国民を哀れに思った」とあります。今の韓国の人は、“募集”という字が読めなかったのでしょう。

室谷氏は、さらに「もう1つ、忘れられない写真が、慰安婦と『買った日本兵』のツーショットだ。

“日本兵”の頭髪にはウェーブがある。きっと、戦後に進駐した米兵の中の東洋系兵士なのだろう。日本兵は全員、丸坊主だったのだから。

『中央日報 連行された女性』で検索してみることだ。

終戦の前日のビルマで米軍の尋問を受けている朝鮮人慰安婦の写真が載っている(610日付)。丸顔で小太り、小ざっぱりしたワンピース姿。それは誰がどう見たって、強制連行され長年にわたり性奴隷の生活を強いられた女性ではない」と書いています。なかなかの情報収集力です。
 
室谷氏によると、「従軍慰安婦」という用語は、日本の左翼が創作したものだそうです。

「性奴隷」という言葉も日本の左翼弁護士が、国連の関係機関に売り込んでから表に登場してきたといいます。さらに、室谷氏は、「日本に対して『慰安婦への謝罪と賠償』を求める韓国の運動とは、反日日本人に先導かつ扇動されてきたのである。

日本の左翼は、マルクス主義惨敗(ソ連・東欧ブロックの崩壊)を見るや、運動エネルギーを、原発、沖縄、韓国などに置き換えた。

李明博政権末期から、朴槿恵政権の成立過程にかけて、慰安婦、竹島(独島)、日本海(東海)呼称、歴史教科書などさまざまな運動が『何でもいいから、日本を国際的に貶める運動』のワンパートに再編された。
この運動を主導する団体VANK(バンク)は形の上では民間だが、実は多額の国家資金が注ぎ込まれている。

国家として、日本国と日本人の名誉を貶める運動を進めているのだから、『韓国とは敵国』と見なすほかない」と、室谷氏は痛烈ですが、的を得ています。

 この問題は、歴史家、ジャーナリスト、外交官、識者、海外の関係者などに持っている資料、秘密資料を持参していただいて、一堂に会して、1ヶ月間、ビデオをまわしながら、ひとつひとつ確認していくと、これまでのような曖昧なことは霧散するでしょう。中国の南京事件その他もこの方式でやればいいと思います。そうしないと、生き証人が亡くなっていきます。安倍首相には、このことはしっかりやってほしいものです。

 

2013年7月15日月曜日

海江田民主党代表の安愚楽牧場事件

 国内では海江田民主党代表が窮地に陥っているようです。元首相の鳩山首相には、尖閣問題で国益を損なう発言を海外に行ってまでされています。綱で括っておかないとまだまだ火の粉が飛んできそうです。

と思っていますと、海江田代表にも問題が出てきました。安愚楽牧場事件です。出資者7万3000人、被害額約4200億円という安愚楽牧場事件をめぐり、海江田氏が経済評論家時代に「リスクはゼロ」などと絶賛していた過去が広く知られたうえ、経営陣の起訴が参院選の最中に行なわれる可能性が高くなってきました。当時、やむにやまれず、多少の金銭をもらって、こういう発言をしたのでしょうが、一党の代表としては、迂闊でした。投票日の前に自民党は、火を吹かせそうです。

2013年7月14日日曜日

鳩山元首相の尖閣発言

 鳩山由紀夫元首相は、香港・フェニックステレビの取材で尖閣諸島(沖縄県石垣市)の領有権を主張する中国に理解を示す発言をしたことに対し、625日に都内で記者団に「言ってない」と反論しました。6月29日の産経新聞です。しかし、「日本固有の領土」について「ポツダム宣言に書いてある」とも発言していました。

以下、発言内容です。

「(日本が尖閣を盗んだと思われても仕方がないとの発言は)していない。中国側がそういう判断をする可能性はあると申し上げた。

 日本は、(1945年に)ポツダム宣言を受諾してカイロ宣言を守ることになった。カイロ宣言には台湾、澎湖島など清国からスチールした(盗んだ)ものは返しなさいと書いてある。「はい、わかりました」ということで日本はのんだ。

中国側からすれば「台湾、澎湖島など」というのがあるから、「など」の中に何が入っているのかと考える可能性はある。日本は必ずしもそうは思っていない。ならば、まさにこれは係争の土地ではないかという議論は当然成り立つ。

当時の周恩来首相と田中角栄首相が(72年に)暗黙の合意をした「棚上げ」というところに一回戻す。領土問題は存在する。係争地だから。今そんなことをやっているよりももっと大事なことがあるから。そのことを先にやろうと、後の世代に委ねようじゃないかという41年前の知恵だと思う。こういう知恵をもう一度学んだ方がいいのではないかということを申し上げた。

日本の固有の領土というのは、ポツダム宣言に書いてある。固有の領土は北海道、本州、四国、九州。日本は戦争に負けて、それが固有の領土になった。その後は連合国軍が決める島だ、残念ながら。

他の島を日本のものにしてもらえるかどうかは、連合国軍が判断するということになってしまった。したがって固有の領土という話じゃない。

その後、交渉次第で戻ってきたものもある。しかし、最初から固有の領土ということではなく、それぞれの国との間できちんと議論して、われわれの主張を貫くように努力すべきだ。これが外交ではないか。(批判する菅義偉官房長官らは)もっと勉強していただきたい」。

このひとには、こういうところに行って発言する前にきちんとレクチャーを受けるという習慣がないようです。首相在任中も環境の問題、沖縄の基地問題など、誰にも聞かずに、受け狙いで発言したように思います。野党時代は、それでもまだよかったのでしょうが、一国の首相となれば、そうはいきません。これは、元がついても同じです。昔なら、座敷牢に入れておかれたでしょう。

2013年7月13日土曜日

鳩山由紀夫のトンデモ発言

  中国を訪問した鳩山氏由紀夫氏は、628日、北京の人民大会堂で中国の李克強首相と会談しました。李氏が日本の政界関係者と会ったのは3月の首相就任後初めてとみられます。

日本が第2次世界大戦に降伏して受諾したポツダム宣言(1945)には、「台湾及澎湖島のごとき日本国が清国人より略取したる一切の地域を返還」するとしたカイロ宣言(43)の履行が盛り込まれているとして、鳩山氏は「(尖閣は)中国側から見れば盗んだと思われても仕方がない」と主張しました。

尖閣の日本編入について鳩山氏は、「1895年に日清戦争の末期にそっと日本のものにしてしまった」とも指摘しました。しかし、日本政府は85年から現地調査を行い、清国の支配が及んでいる痕跡がないと確認した上で95年に編入を閣議決定しており、清国から盗んだ事実はない。そもそも戦後の日本の領土を法的に確定させたのは1952年発行のサンフランシスコ講和条約であり、条約でもないカイロ宣言は「法的効果を持ち得るものではない」と外務省は公表しています。

鳩山氏は、尖閣の領有権をめぐる「棚上げ」合意が存在する根拠として、野中広務元官房長官が田中角栄元首相から「聞いた」とする伝聞を引用しました。伝聞です。裏付けする文書がないにもかかわらず『歴史的事実』と決めつけたわけです」。こういうひとを首相にしていたわけですから国もおかしくなるはずです。

97年に日中両政府が締結した漁業協定についても、「お互いの漁船は自分たちで処理しましょうと取り決められた」にもかかわらず、2010年の中国漁船衝突事件では、中国人船長逮捕したと日本の態度を批判しました。鳩山なるひとは、どこの国のひとでしょう。日本の外務省は、「協定の対象は排他的経済水域(EEZ)のみであり、中国漁船が海上保安庁の巡視船に体当たりした領海は含まれないとしている」。ここでも外務省の見解は、しっかりしています。こういうしっかりした官僚をはっきりしない政治家がコントロールしようとしたことに民主党政治はおかしかったことがはっきりしました。

2013年7月12日金曜日

拉致家族を戻すべきだったかどうか?

  安倍晋三首相と細野豪志民主党幹事長のフェイスブック(FB)でのバトルは面白かったようです。自民党の幹部は、冷や冷やだったでしょうが、ひょっとすると麻生副首相などは、炎上するのを期待していたかも分りませんが。ジャーナリストの高野孟氏などは、「何がおもしろいって、安倍の論争術のトホホなレベル、その背景となる頭の構造が透けて見えたことである」と6月20日の日刊ゲンダイに書いています。高野孟氏は、同じジャーナリストでも花田紀凱氏のように色眼鏡を介さずによく見ているひとだと思います。小沢一郎氏に対する批評などももっとも公平かつ正しいと思ってみています。

田中均・元外務省アジア大洋州局長が、毎日新聞612日付のインタビューで、安倍政権の歴史認識などをめぐる右傾化ぶりが国際社会で「日本が自己中心的な偏狭なナショナリズムによって動く国だというレッテルを貼られかねない状況が出て来ている」と、正面切って批判しました。

安倍は即座に自身のFBで、その批判にはまったく答えることなく、0210月に拉致被害者5人が“一時帰国”した後に、「返すべきだ」と主張した田中に対して自分は「日本に残すべきだ」と主張して対立したというエピソードを持ち出し、正しかったのは自分で、田中は「外交官として決定的な判断ミス」をしたのだから「彼に外交を語る資格はない」と断じました。

高野氏は、「02年の安倍・田中論争では、田中のほうが正しかった。安倍が後先を考えずに“一時帰国”の約束を破ったことで、その後10年以上にわたって日朝対話は断絶し、それが6カ国協議を停滞させる一因となったことに米中韓も不快感を抱いている。これについて安倍は田中と正々堂々と公開討論をしてもらいたいものだ」と書いています。これは、そのとおりで、二人だけでなくちゃんとした司会役をつけてやってほしいものです。しかも早く、LIVEで、参院の投票日の前までに。

最近のテレビ局は、少しおかしいようです。先にもTBSは自民党からクレームをつけられると、すぐに謝罪しています。こういう脆弱なテレビ局が、権力に利用されると、もう利用されかかっていますが、大変なことになります。太平洋戦争に突入させたのも当時のメディアです。凛とした人に出て欲しいものです。

2013年7月11日木曜日

在日中国人から見た日本人の矛盾

 新華経済に載っていたものです。

1)外国かぶれなのか、愛国者なのか  
日本人は外国を崇拝し、外国にこびる。大きな車から小さな風邪薬まで、こうした傾向がみられ、金髪 の有名な外国人をCMに起用すれば売り上げを大幅に伸ばすことができる。
  しかし、日本人はスーパーナショナリストであり、日本文化の「唯一無二」を深く信じている。
  どのようなグローバルな制度でも、日本に導入されれば修正され、そうでなければ日本社会、日本人の生活になじまない。

2)謹厳なのか、豪放なのか  
日本人は会社で礼儀正しく、謹厳に見えるが、仕事終了後、居酒屋に行ったり、カラオケを歌ったりすれば豪放な性格を示し、上司や部下が一緒に楽しむ。自分のイメージは顧みない。

3)男尊なのか、女尊なのか  
日本の社会は男性が優位だ。会社での仕事においては、女性はコピーなどの補助的な作業や、お茶くみなどをすることも多い。しかし結婚すれば、女性が財布を握る。
  一見、亭主関白に見えるが、実はそうでもない。

4)ケチなのか、気前がいいのか  
日本では奥さんが夫の小遣いを厳しく管理する。だが、妻自身は隣の奥さんと着飾り、銀座でお茶をする。これは生活に必要な出費だと考える。

5)個性がないのか、創造性に富んでいるのか  
日本人は集団観念が強く、規則と制度を重視し、規律を守る。このような民族性は、創造性とつながりにくそうだ。しかし日本は世界の技術革新をリードしており、音楽プレーヤーや小型家電、テレビ番組にしても創造的なものをつくる。

6)質素なのか、ぜいたくなのか  
バブル崩壊後の日本はぜいたく社会から質素な社会へと戻り、会社が大規模のリストラを実施、銀行がゼロ金利を続けてきた。雨後の筍のように出現する100円ショップは、衣食を切り詰めるために役立つ。しかし、不況だといっても1つ300~400円もする チョコレートを売る専門店には長蛇の列ができ、高級品ブランド、ルイ・ヴィトンの世界売上高の多くは日本でのものだという。日本人は今もブランド好きだ。

7)保守的なのか、開放的なのか  
消費者に下着を試着してもらい、女性の体の「本当の美」を見せるという屋外広告が風紀を乱すとして大きな反発を受けた。しかし、コンビニではエッチな写真集が簡単に手に入り、歌舞伎町の中にある無料案内所の看板には慣れっこで、反対の声は上がらない。

8)男らしいのか、青白きインテリなのか  
日本人男性は男らしい心意気を持ち、全ての責任を担い、気軽に自分の気持ちを表さないよう求められてきた。だが、最近の若い女性は、厳格な父親のような男性を嫌う。逆に優しい男、さらに青白いインテリが好きだ。母性をくすぐられるという。

9)合法なのか、不法なのか  
「結婚してこそ女は価値がある」という考えに、日本の女性たちはうんざりしている。不倫の恋も受け入れら れ、既婚男性、既婚女性共に、不倫の恋をしたことがあるという人は多い。人間的だといって不倫の恋を受け入れるが、なぜ法に基づいた結婚は幸福を実現するための唯一の道だと声高に宣伝するのか。

10)家族が大事か、上司が大事か  
日本人は家庭を重視し、近年、二世帯住宅が増えてきた。二階建てで玄関が2つあり、大きなキッチンがあるものの、階ごとに小さなキッチンも持つ。3世代同居を実現すると同時に、それぞれの生活の独立性も確保できる住宅の形だ。ただし、毎晩残業し、仕事が終われば酒を飲み、2時間かけて帰宅する男性たち。休日にも上司のお供でゴルフをする父親であれば、どのようにして親密な家族関係が築けるのか。

 

2013年7月10日水曜日

米国客室乗務員から見た中国人の問題点

  航空会社の米国人客室乗務員にとって、中国人はいったいどのような「問題」があるのでしょうか。
中国人同士では大した問題にならないようですが、米国人の目にはそうは映らないようです。
新華網に載っていたものですが、客室乗務員たちが反感を持つ中国人の10のポイントを挙げています。

1、上手に英語を話せる中国人が少ない。発音がおかしいわけではなく、使う場面や調子がおかしく、反感を覚える。
 
2、中国人は「等級」意識が強く、上司は部下にとって絶対的であり、金持ちは貧乏人を見下す。中国人は慣れているが、米国でこうした行為は反感を買 う。中国人移民は、米国で広い家や高級車、ブランド品を買うが、かえって米国人にバカにされている。中国にいるように特権を享受しよう とすることはできない。
 
3、中国人は衛生面を気をつけない。外国を訪れる中国人は、ブランド品を身にまとうが、口臭がひどく、歯が黄色い。爪が汚く体臭もあるので、米国人の客室乗務 員には我慢できない。日本人乗務員とは異なり、米国人は平身低頭して人に迎合したりしない。アジア人にとって「お客様は神様」だが、米国人にとっては「神 は神。お客は神ではない」。マナーやエチケットをわきまえるべきだ。

4、中国人は金持ちでもケチで、ブランド品を買ってもチップを置かず、ホテルの物を持ち帰ることもある。
 
5、米国人は飛行機で中国人と一緒に座ることを嫌う。中国人は大きな声で話し、席を立つときにも「すみません」と言わない。
 
6、米国を訪れる中国人は独りよがりで、米国人に歴史について教えたりする。中国ではどうでもよいが、外国では謙虚な態度の方がよい。
 
7、中国人観光客は、食事の時に骨などをテーブルの上に置く。米国人は小皿に置いたり、ペーパーナプキンで包んだりする。

8、公共の場所で痰を吐いたり、くしゃみをしたりする。くしゃみをする時にはナプキンで口を隠すべきだ。大声で話したり、ナイフやフォークを持ち上げて話したりすることはマナー違反だ。

9、中国人は中華料理が大好きだが、米国人は好きではない。中国人はフカヒレや漢方薬、熊の胆、犬の肉、蛇の肉などを摂って自らの勇敢さを示したりするが、奇妙に見える。

10、一部の中国人は劣等感を抱き、自国の悪口を言う。米国人はみな愛国主義者だ。中国人が自国の悪口を言う行為は軽蔑される。

 

2013年7月9日火曜日

高市政調会長の原発事故で死者なし発言

  自民党の高市早苗政調会長(52)の「福島原発事故で死者が出ている状況ではない」との発言に、厳しい批判が噴出していることは承知のとおりです。

福島県の震災関連死者は、実際は1415人に上ります。このうち、東京新聞が原発事故にともなう避難などで死亡したケースを独自に集計したところ、少なくとも約6割が「原発関連死」だったといいます。

身内の自民党議員から出てくる言葉も、「この期に及んで余計なことを言わなくてもよい」と夏の参院選への影響を懸念する発言ばかりです。しかし、民主党の細野剛志幹事長は、攻勢に転じたかったようですが、2011年5月17日に菅内閣の副大臣が同様の発言をスイス・ジュネーブで開かれたWHOの年次総会でしており、これ以上攻勢をかけると自らに唾することになりそうです。

2013年7月8日月曜日

定価が復活か

  「定価」という呼び方は、すっかり姿を消しました。メーカーが小売価格まで「定める」のはおかしいと、政府が名前のつけ方に指針を設けたからです。代わって「希望小売価格」や「参考価格」「オープン価格」が登場し、今では値段の数字を書かない商品カタログが多くなっています。これが、家電などで安値競争が進んだ背景の1つに違いありません。

そのルールが22年ぶりに改正されるかもしれないというのです。メーカーが「最低販売価格」を指定できる案を、政府内で検討しているといいます。安倍政権の焦りの表れでしょうか。消費者が忘れ去った「定価」が復活して、実力のない企業まで価格の支配力を強めるのでは困るとも書かれています。

日本に似た製造業大国のドイツでは、つい10年ほど前まで、バーゲンは夏と冬の年2回と法律で決まっていました。値札に赤字でバツをつけて「特価」を記すのも禁止です。メーカーは価格競争を促す規制改革に抵抗しましたが、実際は鍛えられて逆に強くなったといいます。安売りに陥らない製品を生み出すドイツ企業に学びたいものですと書かれています。

2013年7月7日日曜日

丹羽前大使、講演で中国をボロクソ

  丹羽宇一郎前駐中国大使(74)が、6月15日の福岡市内での講演で、中国産野菜を「絶対に食べない」といい、中国人を「あんな自己中心的な人種はいない」と評していました。

講演は日中友好を目指す民間団体「金印倶楽部」(福岡市)が主催したものでした。聴衆は約400人。丹羽氏は冒頭の1時間半、日中関係の重要性を説き、「チャイナリスクというが、他の国々にもリスクは存在し、中国だけが特別リスクがあるというものではない」などと、中国擁護の主張を続けました。質疑応答のコーナーに入り、中国食品のリスクについて質問すると、丹羽氏は立て板に水の如く、こう話し始めたといいます。

残留農薬が指摘される中国産野菜について、「生野菜を食べるなら東北3省のものは安全。冬はマイナス40度にもなり、細菌が死ぬ。だから農薬を全く使わず、無農薬の有機農法での野菜を食べることができる。しかし、その他の地域は農薬にどっぷりと浸けるような栽培方法だ。私は絶対に食べない」と明言したといいます。「牛乳も何が入っているか分からないから、私は決して中国産の牛乳を飲まなかった。23倍の値段がするが、ニュージーランド産かオーストラリア産を買っていた」と告白しました。

急激な経済成長とともに中国では微小粒子状物質「PM2.5」などの大気汚染が深刻化し、死者も多数出ていることは、衆知のとおりです。「初めて中国に来た人はほぼ風邪をひく。私は気管支炎になり点滴を受けました」と明かしました。さらに「中国人ほど自己中心的で『自分さえよければ他人なんてどうでもいい』という考えの人種はいない」と断言しました。そのうえで、「模倣する能力はすごいが、創造する力はゼロ。大豆なしで豆腐を作れるという。その技術は他に使えばいいのに」とも語りました。

丹羽氏といえば、沖縄県・尖閣諸島について「日本は早く外交上の係争があると認めるべきだ」と語るなど、親中発言で知られる人物です。「中国は、一度言い始めた主張は絶対に曲げないので、こちらも簡単に譲歩することなく、戦争にならない範囲で主張を貫くべきだ」と語りました。このあたりは、大使を辞めて正常に戻っている感じです。しかし、このひとは、そのときそのときで、どちらに転ぶか分らず、大事な役職には、使えません。

2013年7月6日土曜日

シンガポール、マレーシアの煙害騒動

  シンガポールで隣国インドネシアから流れ込んだ煙による大気汚染が深刻さを増しており、汚染の水準は1920日の2日連続で過去最高を更新し、政府は最悪のレベルである「危険」との警告を発表しました。23日には大気汚染は改善に向かいましたが、マレーシアでは、同日から被害が深刻になりました。マレーシア政府はシンガポールとの国境にあるジョホール州の一部で「緊急事態」を宣言し、外出自粛や企業活動の休止を呼びかけました。「煙害の原因はインドネシア・スマトラ島の違法な野焼き」と特定しました。

シンガポールとマレーシアはインドネシアとの協議を急ぐ構えです。インドネシアのユドヨノ大統領も緊急演説で、「両国に陳謝し、消化に協力する」と述べました。今年は、日本でも雨が少ないようですが、スマトラ島でも雨が少なかったようです。いずれにしろ、地球の環境を壊す山焼き、野焼きはこれからは慎むべきでしょう。

 

2013年7月5日金曜日

道の世界遺産は、世界にふたつ

 6月24日、カンボジアのプノンペンの会議で、富士山が世界文化遺産に登録されました。
 久々のいいニュースでした。現在、世界遺産は1,000件近くもあるそうです。その中でも道が世界遺産に登録されることは極めて珍しいようで、今のところ、世界でもたった二つしか登録されていません。

そのうちの一つが日本にあることはご存知でしょうか?

その道は、その熊野古道を含むいくつかの参詣道などが、「紀伊山地の霊場と参詣道」という名称で、2004年7月に世界遺産に登録されました。和歌山、三重、奈良の三県にまたがる3つの霊場(吉野・大峯/熊野三山/高野山)とそれらを繋ぐ参詣道で、紀伊山地の森林に覆われた山々は、古くから神仏の宿る場所として人々の信仰を集めていました。そこに開かれた霊場は修験道・神仏習合・真言密教と異なる思想の文化を保ちながら、それらを繋ぐ道による交流で相互に発展し日本の精神文化の形成に大きく寄与しています。
 自然と人々の信仰心によって生まれた『文化的景観』が評価され、世界でも珍しい文化資産です。

 もう一つはスペインにある「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」です。この二つは姉妹道として提携を結び、友好的な関係を築いています。

 巡礼路のうちスペイン国内の道は、1993年に「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」としてユネスコの世界遺産に登録されました。
 世界でも珍しい道の世界遺産としても知られており、和歌山県とガリシア州とは永続的な友好関係を確立するため、正式に両古道の姉妹道提携を1998 年に締結しました。


2013年7月4日木曜日

生産の脱中国が加速

 輸出拠点としての中国工場の位置づけを見直す動きが日本企業で広がっているようです。
 
 オムロンは中国が中心だった血圧計の生産を約20年ぶりに国内で再開します。

 1990年代に人件費の安い中国に生産移管しましたが、「当初は10倍以上あった日本の人件費との差が現地の人件費の高騰で4倍程度に縮まっており、日本での生産で対応できる」と判断したものです。

 中国の人件費は社会保障費などを含めると過去3年間で6割以上も上昇しており1人当たりの人件費では通貨高もあり、アジアの新興国の中で最高水準になっています。


中国の生産機能を見直す主な動き

オムロン

血圧計の上位機種生産を中国から日本へ移管

オリンパス

中国・広東省でのデジカメ生産を停止

メイコー

スマホ用プリント基板の生産機能を中国からベトナムへ移管

キャノン

タイで複合機生産開始、中国と同規模に育成

NTTデータ

インド、ベトナム、ミャンマーでソフト開発、中国依存見直し

現地社員の人件費にとどまらず、中国で日本企業が事業を続けるための負担が増えています。

中国政府は駐在員など外国人を対象に社会保険加入を義務付ける法令を施行しました。北京市や天津市、青島、成都、蘇州などで保険料徴収が始まり、負担増は1人当たり年約80万円に達します。

9千社近い日系企業が集積する上海では「外資系企業への影響が大きい」として導入が見送られています。

反日機運の高まりで、「中国に赴任したがらない社員も出てきた」ということで、中国での生産は、急激に舵をきることになりそうです。