2013年7月25日木曜日

川崎尚之助(長谷川博己)(2)

 斗南藩には購入する現金がないため栽培中の大豆を担保にしました。しかし金に困っていた米座省三はこの先物手形を持って逃げ、これを担保にブランキントン商会から借金して逃亡しました。米座の借金返済がなければ広東米を受け取れません。米座は東京で逮捕されましたが、斗南藩の大豆栽培は、うまく行かず不作でした。手に入った広東米も古米となってしまい、米相場の下落もあって返済が出来なくなり、当然デンマーク商人デュークから訴えられました。外国人の絡んだ裁判のために法廷は東京で開かれました。
 このために尚之助と柴太一郎は東京へ移送されました。斗南藩は、この取引には一切関係ないと突き放し、尚之助もまた個人的取引だと藩を庇ったといいます。身元引受人が3回も変わるトラブルや、今日食べる物もない貧困生活の中で、身体を壊し、重い慢性肺炎に罹りました。3人目の身元引受人・根津親徳が東京医学校病院(現・東京大学医学部附属病院)に入院させましたが、治療の甲斐なく、明治8年(1875)年3月20日に永眠しました。享年39歳。この時点で尚之助の戸籍には八重の名前はなかったといいます。裁判で敗訴すれば、八重に膨大な負債が生じるために籍からはずしていたようです。

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