2013年7月20日土曜日

山本八重(2)

  八重と襄の間には、子供はおらず、新島家には襄以外に男子がいなかったため養子を迎えましたが、この養子とは疎遠であったといいます。襄の門人たちとも性格的にそりが合わず、同志社とも次第に疎遠になっていきました。八重は、金遣いも荒く、同志社には借金もあったようです。襄が48歳で亡くなった明治23年(1890)、八重は日本赤十字社の正会員となり、明治27年(1894日清戦争では、広島の陸軍予備病院で4ヵ月間篤志看護婦として従軍しました。40人の看護婦の取締役として、怪我人の看護だけでなく、看護婦の地位の向上にも努めました。明治37年(1904日露戦争時には、大阪陸軍予備病院で2ヶ月間篤志看護婦として従軍しました。

晩年は雨などに濡れている女学生を見ると無言で傘を差し出す姿が見られたといいます。次代を担う女性を大切に思っていたようです。

ただ、芯の強さを示す逸話が残っています。兄・覚馬は、40代のときにまだ10代の時栄と結婚しますが、この時栄がその後、不倫を犯したために離縁させます。覚馬は、許してもよいと考えていたようですが、八重は許しませんでした。しかし、覚馬と時栄との子、久栄は育てています。

昭和7年(1932年)61486歳で亡くなりました。

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