2013年7月24日水曜日

川崎尚之助(長谷川博己)(1)

 尚之助(当時は正之助)は、出石藩の医師の子として生まれ、1854年頃に江戸に出て蘭学、兵学を学んでいましたが、江戸遊学に来ていた八重の兄の山本覚馬と知り合いました。そして、覚馬が会津藩日新館蘭学所の教授に推薦しましたが、会津藩士でないものを教授方にするわけにもいかず、悪いことに覚馬は、目を悪くしており、会津藩の将来を憂えて、川崎を藩士にするために八重と結婚させたといわれています。

結局、戊辰戦争で会津は降伏し、尚之助も猪苗代で謹慎をしていました。山本家とは連絡も取れず、仕方なく青森斗南藩士として仕えていましたが、石高三万石は名ばかりで、作物も育たない貧しい土地で食料に乏しい藩の民を救済する為「開産掛」を任され、米の調達のために同じ藩士の柴太一郎と共に北海道へ渡りました。尚之助は函館で自称・斗南藩士を名乗る米座省三(実際には信州商人で詐欺師)と知り合い、彼の紹介でデンマーク商人デュークと広東米の先物取引を成立させました。

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