2013年7月21日日曜日

山本覚馬(西島秀俊)(1)

  八重の兄です。覚馬は、1868年の鳥羽伏見の戦いの時には京都におり、会津は薩長と戦うべきでないと意見具申しようとしましたが、京都蹴上で薩軍に捕らえられ牢に入れられます。牢に入れられていたときに完成させたのが、有名な「管見」でした。政体から始まり、学校、産業、貨幣、女性、外交、港湾、貿易、時制、暦法、髪型まで全22カ条に及び、多様な問題を縦横に論じています。これを読むと、覚馬が単なる軍学者、砲術家ではなく、幅広い視野と開明的な最新知識をもった人物だったことがわかります。
 覚馬は「管見」を薩摩藩主・島津忠義に建言するためにまとめたといいますが、失明していたため、会津藩の後輩の野沢雞一に口述筆記させました。野沢は弱冠17歳でした。「管見」を一読した薩摩藩家老の小松帯刀や西郷吉之助はすっかり感服して覚馬を厚遇し、治療所に移しました。覚馬は翌明治2年(1,869年)に釈放されました。自由の身となった覚馬は、明治3年(1870)、京都府大参事・河田佐久馬の推薦により京都府庁に出仕しました。


 

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