2012年12月31日月曜日

藤巻健史の日本大沈没(1)


 衆院選挙に紛れて、ユーロ危機やアメリカの経済危機も忘れられています。また、日本経済も経済復興を安倍総裁も声高に話していますが、具体的な手があるように思えません。せいぜい、日銀に対するインフレ目標をこれまでの1%から2%にさせるくらいです。今でも日銀からジャブジャブ、お金は出ています。今度また10兆円を市場に供給します。しかし、これらの金は都市銀行が国債を買うのみで実経済へのいい影響は期待出来ません。インフレ目標は、両刃の剣で、物価ばかり2%上がって、賃金は上がらないということもあります。年金生活者は、年金が増えればブレークイーブンですが、上がるどころか、下がるでしょうから、大変です。これに消費税の増税が追い打ちをかけます。

景気がよくなるはずがありません。もっと実になることにお金を使うべきです。iPS細胞の商品化や海水の飲料化、淡水化、シェールガスの関連技術などに1000億円単位で投資すべきでしょう。日本が少しでもリードしている技術をさらに磨きをかけて、さらに差を広げさせるべきでしょう。

さて、藤巻健史氏の「日本大沈没」(幻冬舎)という本がありました。かなり衝撃的な内容でしたので紹介したいと思います。ユーロ危機などにも触れていました。

ユーロ危機
ユーロ危機は、人為的、そして作為的な仕組みが限界に達し、起こるべくして起きたものだといいます。
「国が違うのに同一通貨で取引をする」という経済学の基本に反する仕組みを、強引につくって実施してきた結果なので、経済学の基本に反する実験は、失敗に終わりそうな気配です。
ユーロとは、「ユーロ圏という一つの地域内の同一通貨」です。それは、まさにその地域が「通貨の固定相場制」と採用しているのと同じことです。

日本とアメリカという経済格差がそれほどない2国間でさえ固定相場は無理なのに、「ギリシアとドイツ」「ドイツと南欧諸国」「ドイツと東欧諸国」のような大きな経済格差がある国の間で同一通貨は無理で、ユーロ問題とは本質的に、固定相場制の問題であると述べています。これは、そのとおりだと思いますが、多くの人は、ユーロはうまくいくと信じているように思います。

今回のユーロ危機は、一時的に、危機を回避できたとしても、5年とか10年のスパンでみるならば、ユーロは消滅しているだろう。来春には、ユーロ危機が再来すると言われています。
地域内同一通貨制が成立する唯一の方法は、一つの国になることですが、ユーロ圏諸国がそうなるのは、無理です。ユーロの根本的解決方法が存在するはずもなく、いつかは崩壊すると言います。この本質の問題は、「固定相場制」という作為的なシステムを採用したことにあると述べています。かなり、世界経済にとっては、恐い話です。

2012年12月30日日曜日

暴走を止めるアイデア



 これは、中国の話です。家の前を猛スピードで通り抜ける車に頭にきた女性が、写真のようなマネキンを飾りました。しかも、中国とは思えぬエロさです。すると、どうなったでしょう。みんなが車を停めてジロジロ見てゆくものですから、暴走はなくなりました。このアイデアは、日本でもいただいたらどうでしょう。

 もっとも、同じものを着せていますと、慣れてしまって、また猛スピードで走りぬけていくでしょうから、着せるものにも工夫が必要です。色を変えるとか、デザインを変えるとか。また、マネキンをひとつでなく、二つにするとか。

 残念ながら、これをやっているのが、中国のどこか、わかりません。

2012年12月29日土曜日

飛鳥、そして奈良へ(8)


現在の大仏殿の大きさは、幅57.5m、奥行き50.5m、高さ49.1mで現在の大仏殿は江戸時代の再建です。創建当時の大仏殿の幅は、98mあったそうです。残念ながら世界最大の木造建築は、アメリカの飛行船の格納庫で、大仏殿ではありません。

藤原一族を抑える切り札として724年長屋王を左大臣とします。あの高市皇子の子です。しかし、729年謀反の罪に嵌められます。しかし、737年天然痘が大流行し、藤原四兄弟はあえなく死亡します。長屋王の屋敷跡には、そごうがデパートを作りましたが、倒産しました。これも長屋王の霊が祟ったのでしょうか。聖武天皇の皇后には、光明子がなりました。臣下からの初めての立后です。当時の日本の人口は、約600万人で、奴婢の成人男子は、1人稲9000束(約2700キロ、約100万円)で取引されました。
鑑真和上は、大仏殿の落慶法要の2年後の754年、平城京に入ります。最初に日本に来ようとしたのは724年冬。5回失敗。6回目にして成功。これは、井上靖の天平の甍に書かれています。東大寺に戒壇をつくり、400人に菩薩戒を授けました。唐招提寺にある鑑真和上像は、今でも瞑想の中にあるような存在感があります。仏教の遅れた日本に戒を授けるために6回も渡航されるという情熱は、どこにあったのでしょうか。何回も死ぬような目に遭いながら。この情熱は、いつの時代にも欲しいものです。

聖武天皇と光明皇后の第2皇女の孝謙天皇は、738年、21歳の時に異例の女性皇太子となり、32歳の時に聖武天皇が譲位し、46代孝徳天皇となりました。将来天皇になることが決まっていましたので、結婚も出来ず、子をもうけることも出来ませんでした。これで天武系は途絶え、天智系に移ります。758年、41歳の時に譲位、天武天皇の孫の47代淳仁天皇が即位します。
76144歳の時に道鏡の看病を受けてからおかしくなります。ひょっとすると、初めての恋かも分りません。道鏡には、膝が3本あるとも云われていました。764年淳仁に替わり、47歳で重祚し、48代称徳天皇となり、淳仁を淡路に幽閉します。また、皇太子候補の和気王を謀反の罪で配流し、道鏡を太政大臣禅師に任命、さらに766年法王に任じます。

769年、大宰府から道鏡を王位につけるべしという奏上を受け、和気清麻呂に宇佐八幡の神託を伺いに行かせます。「吾が国家、君臣は分定せり、天つ日嗣には必ず皇緒を立てよ」との託宣を持ち帰ります。これに称徳は激怒し、和気清麻呂を別部穢麻呂と改名させ、大隅に流します。称徳は、翌770年、53歳で崩御。死亡原因は、「朝を視ざること百余日」と書かれています。遅すぎた春を楽しみすぎたのでしょうか。一説では、毒殺とも云われています。周りも持て余したものと思われます。道鏡は、あえなく下野国に流されます。

わたしは、平城京址が非常に好きです。東に若草山、西に生駒山が見えます。奈良市には、背の高い建物がありません。平城京址に横たわりますと、おそらく当時と変わらない視野が広がってきます。中田英寿ではありませんが、草の感触を楽しみます。1300年前の光明子の時代が想像されます。わたしには、至福の贅沢な時間です。
78150代桓武天皇が即位。784年都は長岡京に移ります。 

2012年12月28日金曜日

飛鳥、そして奈良へ(7)


藤原京は694年から平城京に移る710年までの16年間に過ぎません。藤原京は、北に耳成山、東南に香具山、西南に畝傍山に囲まれています。方位学的には、文句ありません。従来は、平城京、平安京に比し、小さな都と思われていましたが、近年の発掘の結果、平城京の24k, 平安京の23k㎡よりも大きい25k㎡あったことが分って来ました。この藤原京には、41代持統天皇、42代文武天皇、43代元明天皇が住みましたが、なぜこう短期間で奈良に遷都する必要があったのでしょうか。当時でも、万という人が移り住みました。大きな問題は、衛生にあったようです。碁盤目の道路には、水を流す側溝もありました。水洗式のトイレも発掘されていますが、これらの生活用水その他も敷地内に引き込んでいました。このために一度、疫病が流行ると、蔓延するという欠点をもっていました。事実、706年、疫病が発生しました。全国に広がったようです。このために大和の北への遷都を決意します。

いよいよ平城京です。薬師寺は、藤原京から平城京に移されました。創建当時から残っている建物は、あの有名な東塔のみです。白鳳時代を代表する建築物です。わたしのもう一つ好きな建物が唐招提寺の金堂です。巨大な円柱が、ペルシャ建築の影響を受けているとも云われていましたが、今では、そうではないという考えの方が主流のようです。
平城京は、東西約4.2km、南北約4.7km、人口10万人、高級官僚100人、中級役人600人が住んでいました。柱は朱、壁は白、屋根は瓦。青丹よし奈良の都です。余談ですが、平城京は、今は授業では、“へいじょうきょう”でなく、“へいぜいきょう”と教えるそうです。ワープロで“へいぜいきょう”と入れても、平城京とは、出てきません。当時は、多くの庶民が、竪穴式に近い住居でしたので、これら貴族の生活とは、大きな違いです。

東大寺の大仏の完成が749年、751年大仏殿完成、大仏の開眼供養が752年、光背(大仏の背にある飾り)が完成したのが、771年。大仏の高さ14.7m。金メッキを施すのに19年を要しました。水銀約5トン、金約9トンを費やしたそうです。アマルガム法で、水銀に金を投ずると、金と水銀の合金が出来ます。この合金を大仏の表面に塗りつけ、その後に熱して、水銀を飛ばします。蒸気水銀は、気管支炎や肺炎を引き起こします。水銀中毒が、平安京への遷都の理由のひとつという説もあります。ひょっとすると、聖武天皇がしばしば平城京を離れて彷徨したのも水銀中毒が影響したのでしょうか。45代聖武天皇が即位したのが724年。平城京になかなか落ち着きません。聖武は、奈良朝で初めての男性天皇です。