2012年6月30日土曜日

ジョン・ウェインはなぜ死んだか(4)

スーザン・ヘイワードが死んだ翌年の1976年、ソルトレイク・シティーにある退役軍人を扱う病院が、ポール・クーパー元軍曹の白血病を知り、ひとつの疑いを抱きました。

反骨精神を持ったポール・クーパー元軍曹が、ユタ州ソルトレイク・シティーの病院で診察を受けたことも、パズルを解く鍵となりました。
これによって、やがてのちにユタ州セント・ジョージの被害が、別の被害(つまりクーパーらの軍人が受けた被害)と結びつけられるようになりました。
ポール・ジェィコブスという一匹狼のジャーナリストは、B期間中に自分の足でユタ州南部を歩きまわり、住民と起居をともしながら、子供たちの白血病をはじめとするさまざまの被害を調べあげました。それを“ザ・リポーター”という雑誌(1957516日号)にくわしく報告し、のちには彼自身の体も癌におかされ、59歳で死んで行きました。1857年という早い時期にポール・ジェィコブスが伝えた事実は、エルマー・ピケットやアーマ・トマス夫人がのちにくわしく知った出来事を、すべて予言したものでした。

それらはどれも、公式の手続きにかけられると、“噂にすぎない”と一蹴され、涙を吞んでいました。
ポール・クーパーは立ちあがり、遂にマスコミに対して宣言しました。
「私は、1957年のネバダの核実験に参加したために、白血病になったのだ。間違いない」
19774月のことでした。
パズルは解かれはじめました。
すでにこの時、ソルトレイク・シティー軍人病院は、全国に散らばっている何千人にものぼる退役軍人の体調を調べ、白血病のおそるべき倍増お実証していました。

1949年にソヴィエトが原発実験に成功し、翌50年に朝鮮戦争が勃発したあと、ペンタゴンの原爆兵士“ペントミック・ソルジャー”と呼ばれた彼らは、目の前に迫ってきた原爆世界大戦にそなえて、ネバダの核実験場にかり集められました。
砂漠に塹壕を掘り、そのなかに身を隠して待機するのです。すると飛行機が姿をあらわし、なにかを落としてゆきます。まばゆい閃光が走ります。爆風のため塹壕に叩きつけらますが、ただちに銃をかついで外に飛び出すと、空にキノコ雲がたちのぼっていました。まだ激しく吹き荒れる爆風に身をさらしながら、爆音に耳をふさぎました。
「突撃!」の命令を受け、爆心地に向かって疾走します。「そこには傷ついたソヴィエト兵が生き残っているはずだ。殲滅しろ」
銃を乱射しながら、どこまでも突進しました。
これが原爆戦の訓練でした。
ペントミック・ソルジャーとしてこの核実験に参加した兵士の数は、今日までですでに25万人にのぼっています。
この兵士たちがやがて自分の体に異常をみつけ、その原因が核実験にあったと気づいた時、彼らは国家に裏切られたことを知ったといいます。怒りをおさえることができず、ペンタゴンをのろいました。

2012年6月29日金曜日

ジョン・ウェインはなぜ死んだか(3)

セント・ジョージの葬儀屋エルマー・ピケットは、町の異常に気づいていました。それは、『征服者』が公開された1956年のことでした。それまで、癌による死亡はごく稀だったのが、その年になって突然、癌で死亡する人が増え始めました。それがただ増えはじめただけでなく、彼の手で埋葬される人がほとんど癌死者になってしまうという、驚くべき変化が起こってきたのです。まったく信じ難い事態でした。

セント・ジョージの町には、住民怪死の続発に早くから気づいていた人間が、もうひとり居ました。アーマ・トマス夫人です。
トマス夫人が今日まで自分のノートに記録し続けてきたセント・ジョージの癌患者は、200人にものぼります。この200人がすべて、トマス夫人の知人でした。なお悲惨なことに、この“不幸なリスト”に書きこまれた名前のうちの半分に、赤いチェックの印が付してありました。すでに埋葬された人びとの名前でした。しかし,それは、死亡年齢から見て、いずれも、”早すぎた埋葬”といえます。

彼女のかつてのクラスメートのうち、70人もユタ大学病院で甲状腺の手術を受けています。
ソルトレイク・シティーのユタ大学医学部では、ジョンゼフ・ライオン博士らが、調査を受けていました。
実に32年間という長い歳月を対象として、15歳以下の小児ガンの発生状態を調べました。
この連続した32年間をA BC3つの期間に分けてみました。
Aは、194450年の7年間
Bは、195158年の8年間
Cは、195975年の17年間

白血病をはじめとする小児ガンの発生率は、1年あたりの平均値に換算してA BC3期間を比較してみた場合、ユタ州南西部(セント・ジョージを含む地域)では、A C100パーセントとした時、B期間中には、ちょうど300パーセントの高い率になりました。
また、学校のひとつのクラスに、知恵遅れの子供がこんなにたくさん居るのは、なぜだろうと調べてみましたら、この子たちはみな、195257年の間に生まれたものでした。

ジョゼフ・ライオン博士の論文がB期間として設定したのは、195158年でした。多くの障害児が出生した期間は、ちょうどこのB期間のなかに、すっぽり入ってしまいます。
『征服者』の映画を撮影したのは、1954年でした。ちょうど、B期間の真ん中でした。

次にパズルがあります。4つの疑問があります。
第一は、被害者――小児から成人までに至る膨大な数の人間
第二は、期間―― 1950年代
第三は、位置―― ユタ州セント・ジョージの周辺
第四は、被害―― 小児ガン、小児白血病、成人の発癌、癌死の激増
自らも白血病におかされながら、このパズルを解いてみせた男がいます。米国陸軍でかつて軍曹をつとめたポール・クーパーでした。

2012年6月28日木曜日

ジョン・ウェインはなぜ死んだか(2)

広瀬氏は、ケネディー暗殺の1963年から、『征服者』の記録をたどっています。
1963年、『征服者』の監督ディック・パウェル、リンパ系の癌と肺癌移転のため死亡。
『征服者』の男優ペドロ・アルメンダリス、リンパ系の癌で余命三ヶ月の宣告を受けて自殺(すでに4年間、腎臓癌と闘病後)
『征服者』のアート・ディレクター、キャロル・クラーク、前立腺癌に罹患する。
『征服者』のメイクアップ・チーフ、ウェブ・オーバーランダー、肺癌の切除手術を受ける。
1964年、『征服者』の男優ジョン・ウェイン、肺癌のため肺切除の手術を二度受ける。
1965年、『征服者』の女優ジーン・ガースン、皮膚癌を発病(後年、乳癌を発病後、乳房を切除。)
1968年、『征服者』のロケに同行したティム・バーカー(スーザン・ヘイワードの息子)、口内腫痬のため摘出手術を受ける。
1969年、『征服者』のロケに同行し、端役で出演したパトリック・ウェイン(ジョン・ウェインの息子)、胸部腫痬のため手術を受ける。
1974年、『征服者』の女優アグネス・ムーアネッド、子宮癌のため死亡。
1975年、『征服者』の女優スーザン・ヘイワード、皮膚癌、乳癌、子宮癌を併発しながら脳腫痬のため死亡(10年前から発病)
『征服者』のロケに同行したマイケル・ウェイン(ジョン・ウェインのもう一人の息子)、皮膚癌を発病。
1979年、『征服者』男優ジョン・ウェイン胃癌の手術後、腸癌のため死亡。
だがこの災厄は、1979年で終わるものでもなければ、これだけの人間に限られたものでもありませんでした。今日までのところ分っているかぎりでは、ハリウッドから撮影に参加した220人のうち、驚くべきことに91人が癌にかかっているのです。しかもこのうち、46人が、死亡しています。

この『征服者』集団における癌の特徴は、きわめて持続性の長い因子が、これらの人の体内に宿っている、という点にあります。それは、通常では考えられないほど長いものです。癌の手術後(つまり癌のシコリを取り除いたあと)、通常では数年間が勝負だと言われています。この数年間のヤマを超えれば、多くの人が充分な安心感を持って生活し、癌に打ち勝ったことを証明できます。

しかし、『征服者』集団には、そこに“なにか”特異な因子があります。関係者は1954年のユタ州から、ジョン・ウェイン死去の1979年まで、実に25(四半世紀)にもわたって恐怖におびえ続け、その魔手から逃げられないのです。
彼らばかりか、『征服者』ケのためハリウッドから来た220人のほかに、ユタ州のインディアン、シヴウィット族が300人ほどエキストラとしてこの映画に参加していましたが、その人たちの間にも続々と癌患者が発生し、異常な死人の続出し、彼らの多くのひとが不安を抱いています。
シヴウィット族を一部族に持つペイ-ト族は、いまや絶滅の危機に瀕しています。
ユタ州のロケ地には“なにか”があったに違いありません。

2012年6月27日水曜日

ジョン・ウェインはなぜ死んだか(1)

  「佐高信の原発文化人50人斬り」でも触れた広瀬隆の標題の本を読みました。彼の場合は、斬られた方ではありません。原発について、警告を鳴らした人です。
この本をよんで、わたしも放射線被爆について少し甘く考えていたように思います。原発推進者、賛成者は、一度読むべき本でしょう。この本は昭和57年(1982年)に文藝春秋から発刊されたものです。30年前です。この当時から警鐘を鳴らしていた人がいることにあらためて頭が下がる思いです。
また、死の灰と原発から出てくる廃棄物が同じものであるにもかかわらず、一方を廃棄物として、いかにもゴミの収集車が簡単に持っていけるかのような名称にしました。こう名づけた人たちは、国民を騙した詐欺師たちです。
ここで、なぜジョン・ウェインが出てくるのか。不思議に思われるでしょうが、ジョン・ウェインも放射能の恐れを知らされなかった犠牲者です。ジョン・ウェインは、わたしも好きな西部劇のスターです。単に癌で死んだと思っていましたら、そうではありませんでした。

映画『征服者』
問題の1954年、ジョン・ウェインはユタ州の砂漠のなかで、『征服者』という映画のロケ中でした。
ユタ州は、アメリカの西部にあり、その西にラスベガスのあるネバダ州があり、さらにその西にカリフォルニア州があります。南はアリゾナ州で、このユタ、ネバダ、アリゾナの3州で、西部劇の多くが生産されています。

ジョン・ウェインの『征服者』は、米国よりむしろソ連、中国、そして日本に深い関係を持つ蒙古人ジンギス・カンの物語です。
19546月から、彼らはユタの砂漠に機材をもち込み、莫大な金をかけて、熱風の吹き荒れるなかでロケーションを敢行していました。
「映画は、砂漠のなかで壮烈な死闘をくり広げるシーンが目玉となっていたため、役者たちは馬からころげ落ち、砂ぼこりを胸深く吸い込み、全身ドロまみれにならなければ、監督からOKをもらえなかった。
ことに大変だったのは、このロケ地の一帯を根城にするペイユート族の一部族であるインディアン、シヴウィット族のエキストラ300人だった。
このエキストラのほかに、ハリウッドから220人のスタッフとキャストが砂漠に乗り込み、20億円もかけて製作した映画が『征服者』である」
と広瀬氏は書いています。
これと、放射能とどういう関係があるのか、徐々に分ります。

『リオ・ブラボー』が撮影されたのも、西部3州のひとつのアリゾナでした。
ジョン・ウェインが、ロケ中に、『リオ・ブラボー』の馬と同じように烈しく咳こんだのは、ケネディー大統領が暗殺された翌年(1964)のことです。『征服者』の撮影から10年目です。その症状は、馬に飲ませたような咳止めでは効かない種類のものだったといいます。
医師の命ずるままに、生涯で初めて入院し、5日間に2度、手術台に身を横たえました。最初の手術後は、咳が以前よりひどくなり、肺が破れるほどはげしくなったので、2度目の手術が行われました。
それでもジョン・ウェインは、結局ガンに勝った(?)のでした。

1976年、ジョン・ウェインは、皮肉にも『ラスト・シューティスト』でガン患者を演じました。しかし、それ以後、突如として、一本の映画にも出演しなくなりました。
19791月、胃ガンのため胃を切除しました。
その年の5月には、腸閉塞のために腸を切除。そのときに、腸にガンの移転を発見しました。
そして、611523分、腸ガンのために死亡しました。享年72歳でした。526日に72歳の誕生日を終えたばかりでした。
『征服者』のロケから25年後のことでした。

2012年6月26日火曜日

朝鮮学校の無償化は違憲


 これも少し古い記事です。この標題についても、一時、橋下市長なども熱心に意見を述べていましたが、最近は、さっぱりです。わたしは、古い記事も大事にとっておく習慣があり、しばらく経ってから、あらためて見ます。すると、世の中、マスコミ、学識経験者の考えが執着なきこと甚だしいことが分ります。
 この記事は、平成22819日の産経新聞の正論にあったものです。日本大学教授の百地章氏が投稿したものです。
平成224月現在の生活保護世帯は過去最多の135万帯に増えました。平成213月現在の保護世帯は約1193千世帯でした。このうち外国人の生活保護世帯は約34千帯です(政府答弁書)

このうち子ども手当ては、在留外国人の海外にいる子供までが支給の対象となっています。自民党の調査では、この海外在住の外国人子弟への支給額だけで10億円にのぼるといいます。他方、日本人であっても、子供を残して海外に赴任した家族のケースでは、子ども手当ては支給されません。

高校の無償化についても、外国人には適用しながら、肝心の日本人の高校生には適用されないといった矛盾が生じています。
海外にある日本人学校の生徒には支出されないわけです。

外国人には保護されない権利の代表としてあげられるのが、「入国の自由」「参政権」「社会権」などです。
「社会権」も国民を対象とした権利であって、外国人には保障されません。それゆえ、「限られた財源の下で福祉的給付を行うに当たり、自国民を在留外国人より優先的に扱うこと」は可能です。「年金の支給対象から在留外国人を除外すること」も立法府の裁量の範囲に属します。

ただし、社会権の場合は、国の政策として外国人に福祉を施すことまで禁止するものではない。憲法25条の生存権に基づく生活保護については、昭和29年の厚生省社会局長通知に基づき、「生活に困窮」する外国人登録者に対しても「当分の間」、法が準用されることになっています。

働いても生活保護基準に満たないような生活しか送れない日本人のワーキングプアが増加する一方で、半世紀の局長通知を唯一の根拠とする外国人への生活保護がその後拡大し、揚げ句の果ては、わが国に生活保護を求めて中国人が押し掛けてくるような異常な事態をそのまま放置することは疑問であると百地氏は語っています。

憲法261項の「教育を受ける権利」や2項の「義務教育の無償」も日本国民を対象にとした「社会権」の一つであって、外国人に対する「権利」を保障したものではないからである。それゆえ、朝鮮学校の適用除外は差別でも何でもないと百地氏は述べています。
「本件は実質的に憲法89条の問題でもあり、同条が公金支出の条件としている「公的支配」つまりわが国の特別監督権が同校に及ぶとはとても考えられない。なぜ、このような違憲の疑いのある朝鮮学校の生徒にまで国民の血税を支出する必要があるのか」と書いています。

2012年6月25日月曜日

「公務員は国保に入れ」

 これは、少し古い記事です(1096日産経新聞)が、公務員の年金問題などは、どこかに飛んでいってしまったかのような感がありますが、これは、見逃すことは出来ません。
慶応大学教授の片山善博氏は、標題の意見を述べています。
片山氏は公務員専用の医療保険制度は廃止すべきという意見を持っています。 
「そもそも公務員が自分たちだけの特別の仕組みを持っていることがおかしい。
一般の国民と同じ制度に入っていたのでは十分な保障が受けられない。いい生活ができないといわんばかりです」と強烈です。

「日本の公的医療保険は、大企業の従業員などが入る健康保険組合、中小企業従業員の協会けんぽ(全国健康保険協会)、公務員の共済組合などに分かれています。自営業者は市町村が連営する国民健康保険(国保)に入ります。ただし、医師や弁護士などには自前の国保組合という制度があります。要するに国保には零細自営業者や退職した高齢者、無職の人たちが多く加入し、働いて保険料を納める人が少ないという構造的問題がある。公務員はこの国保に加入するべきだというわけです。
「保険制度の原点に戻るべきです。保険は老いも若きも富める人も貧しい人も一つの制度に入ってこそ安定します。職業に関係なく、地域単位ですべての人が加入する制度をつくるべきなのです」
 片山氏は、さらに
「安定した収入がある全国の300万人を超える公務員が国保に入れば、国保の財政状況の改善に大きな力になります。国保を助けるために、国保から75歳以上の高齢者を切り離して後期高齢者医療制度という評判の悪い仕組みをつくったわけですが、こんな対策も不要になる。そのうち市町村国保は他の制度加入者がうらやむほどの安定した制度になり、会社員も国保に移ってきて、最終的にはすべての人が同じ制度に加入する一元化完成がする」というわけです。

「この改革は一石二鳥どころか三鳥の改革なのです。一つは国保の問題の解決。もう一つは公務員が国民と同じ立場になるという公務員制度改革の実現。そして共済組合という組織を大幅に縮小させる行政改革の実現です」と言っていることは、正鵠を得ています。

政府の公的医療保険制度に関する説明資料では共済組合についての記述が少ないことが珍しくない。「優遇制度を隠しているのでは」との疑念を招くと編集委員も書いています。マスコミももっと勉強し、頭がよくならなければなりません。しかし、この議論もうまく公務員に隠されているようです

2012年6月24日日曜日

「土建国家」のツケは庶民に

中国では官主導の開発が都市、地方を問わず進んでいます。これは、たしかに経済成長のけん引役ではあるのですが、当局が強引な立ち退きなどを迫る例も多く、「土建国家」のツケは庶民に回りがちです。
大型トラックが昼夜を問わず、うなりを上げて行き交います。鉄鉱石を含んだ山盛りの土が運び出されます。北京から東へ220㌔の鉄鋼の街、河北省唐山市の東部にある灤県の露天堀りの鉱山です。

「私の家はあそこにあった」。元住民の王占榮(66)は採掘現場のかなたを指した。採掘が本格化して4年だが、水田もあったという面影はない。2005年以降、王ら5千人を超す住民は先祖代々の土地を追われました。地方政府が鉄鉱石が眠る土地の売却で利益を得たいと考えたからです。
採掘するのは、世界2位の鉄鋼メーカーで、河北鋼鉄集団の傘下にある唐鋼灤県司家営鉄鉱。企業側は1人当たり135千元(170万円)に加え、農地の広さに応じた補償金を地元政府に支払ったといいます。だが、王が手にしたいのはわずか16800元(約218400円)。差額は地元政府の懐に入りました。
あてがわれたアパートの手抜き工事も発覚しました。1976年の唐山大地震では24万人が死亡。鉱山で多くの人が生き埋めになった記憶が生々しく、王らの不安は募りました。地元政府は、新たに、鉱山労働者のアパートを建てる広大な土地収用を決定しました。昨年末、警官ら100人超を動員し、住民に立ち退きを迫りました。絶望した劉玉龍(73)ら住民7人は手首を切るなど抗議の自殺を図りました。
全員が一命をとりとめたが、事態に変化はありません。劉は「補償が少なく、やり方も不公平だ」と憤ります。立ち退き時にひどく殴られた後遺症で、つえが手放さない生活になりました。
悲劇が始まった05年はどんな年だったでしょうか。世界一の鉄鋼生産国になっていた中国が鉄鉱石をむさぼるように求め、英豪リオ・ティントなど資源メジャーは強気の交渉姿勢に転じました。中国は初めて鉄鉱石の国際的な値決めの前面に立った06年度に、19%の値上げをのまされました。
価格高騰を受け、中国企業は再び国内に目を向けました。そもそも唐山は中国三大鉱区の一つだのです。
「品質の悪い灤県の鉄鉱石でも、掘ればぼろもうけだ」。
企業と地元政府の思惑が一致しました。

中国の人権問題を告発する団体、維権網の王松蓮は「地元政府の多くは土地を売るぐらいしか収入増の手立てがない」とみています。中国では司法による救済も期待しづらい体制になっています。まだまだ、泣くのでしょうか。

2012年6月23日土曜日

かき消される遺族の声

成都市など四川省の消費ブームを支える柱の一つは、8万人以上が亡くなった20085月の四川大地震から復興関連の需要だ。
「役人の腐敗による手抜き工事で子供が殺された。責任をあくまで追及する。私は決して自殺はしない。死んだら当局に殺されたと思ってほしい」。
270人の児童が犠牲になった新建小学校(四川省都江堰市)の親たちの悲痛な声だ。
地震からちょうど4年の512日午後228分。子供らの遺影入りの墓碑が立つ共同墓地では、数十人の公安関係者が鋭い目を光らせていた。墓参りする親らの行動を監視していた。

新建小は鉄筋、コンクリートの量とも建築基準に満たなかった。周辺の古い建物は残っているのに、築16年と比較的新しい新建小は崩れ、子供たちの命を奪った。親らは責任追及に立ち上がったが、いっこうにらちが明かない。
国の品質管理局当局の責任者は地震後、
「学校の品質に問題があれば追及する」
と明言したが、地元政府の横やりで、その後は止まってしまった。
6年生だった娘を亡くした母親(42)3月、北京に上訴に行こうとしたところ、警察署に連行され、麻薬中毒者の施設に半月間、拘束されたといいます。地震から4年半の前日、四川省を訪れた回良玉副首相への直訴も考えましたが、自宅を公安員に囲まれ、外出を禁じられました。
遺族らは手抜き工事の原因は
「建設会社と癒着した地元指導者の腐敗にある。責任を認めたくないため、我々をひどい目にあわせる」
と訴えています。

中央政府は2月、四川大地震の復興を終えたと宣言しました。被災地の中心にある四川省北川は壊れた建物をそのまま残して記念公園として整備され、生き残った住民は、20㌔離れた農地に造った新しい町に移住しました。数万人が住める高級マンション群が突如、四川の山あいに出現した格好です。

中国の復興は日本の東日本大地震に比較すると速い。しかし、その裏で人権を保障されず、犠牲になっている市民も多い。新建小の跡地は現在、270人もの死者を出した場所であることさえわからなくなっています。
地元政府は一切の証拠を消すかのように、がれきを撤去し、観光客を呼ぶ新しい商店街を造っていますが、その開業は近いといいます。遺族らの反対は無視された格好になっています。

2012年6月22日金曜日

党、新たな支持基盤に

 中国では経済成長に伴い、国有企業の社員や公務員に富が集中する現象が生まれました。世界ではこうした中間層が変革の担い手となりますが、政変の歴史が続いた中国では「地位や権益を失いたくない」と保守的に考える人が多いといいます。そして、彼らは中国共産党の最大の支持基盤に育ってきました。
「なぜ早く教えてくれなかったのですか」。
鉱業関連の国有企業に勤める張超(28、仮名)は北京市内の住宅ローン窓口で、2回目の相談の際に勤務先を口にしました。すると、対応が変わり、80万元(1010万円)だった融資額が92万元に増えました。
入社4年目の張は、広さ60平方㍍の中古マンションを購入しました。地方出身の彼が北京市内で住宅を買えるのは、大学卒業時に北京市の戸籍を取得したためでした。北京の名門大学では、クラスメートの9人が地方出身でした。クラスに割てられた北京市戸籍は3枠。国家公務員になる2人と、国有企業に行く張が選ばれました。外資系の民間企業に就職した同級生は、北京市に5年間納税しなければ、住宅購入の権利を得られません。

国有企業と民間企業の最大の違いは何でしょうか。石油探査の国有企業に勤める劉民(33、仮名)は「力だ」と言い切ります。新たな油田を求めて世界を飛びまわり、「自分の仕事で国の経済や政治が動くのが分る」と満足げです。
「共産党員にならないか。枠があるんだ」
上司の勧めで今年、入党しました。国有企業で幹部に就くには党員になる必要があります。特権階級への切符を手に入れたのです。
最近は、成長著しい民間企業のエリートも中間層に加わってきました。民間投資会社の復星集団(上海市)に勤める徐秉(31)の朝は忙しい。渋滞の道でハンドルを握りつつ、パンにかじりつく。愛車は独ダイムラーの主力車「ベンツCクラス」。高級マンション街からオフィスまで片道45分の通勤です。「投資デイレクター」の肩書きを持つ徐は、復星が2年前に出資した仏リゾート運営のクラブメッドの投資管理などを担当しています。
徐の人生設計はユニークです。「今は貸借対照表に厚みを持たす時期」。様々な経験を積み、無形資産を膨らませたいという。40歳代になれば、「損益計算書に気を配る」のだそうだ。
その頃には、1歳半になる娘の教育費もかさむから、収入増を目指す。そして、退職後は「キャッシュフロー経営」。毎月の支出を管理しつつ、老後を過ごすという。
計画通りに人生が進むのか。共産党は安定を旗印に、徐のような民間エリートも党員に取り込もうとしているといいます。

2012年6月21日木曜日

鮮明になった官製バブルのひずみで、土地政策の実績を競う

「土幣」。中国では2000年代にこんな言葉が生まれたそうです。当局が開発・供給する土地は、貨幣に似て信用があるという意味です。胡錦濤(69)政権下の最近10年間、高成長が続いたが、原動力の一つだった「官製土地のバブル」のひずみはもはや無視できないところまで来ています。

モンゴルと国境を接する内モンゴル自治区のオルドス市で、市政府は04年、人口1千人余りで、羊毛が特産だったカンバシ区で20万人が住める新都心づくりを始めました。石炭値上がりで潤った地元の炭鉱経営者らの住宅需要を当て込んだのです。
300億元(3900億円)以上を投じ、豪華な市庁舎や図書館、博物館を整備しました。ところが、公称8万人の人口は「実際は4万人程度」(ある住民)とされ、中国の都市で付き物の交通渋滞もない。乱立するマンションは空室だらけで、「鬼城(ゴーストタウン)」の代表例となってしまいました。
カンバシ区に住んでいた農民は、1人最高100万元(約1300万円)ともいわれる立ち退きの補償金を受け取り、多くはマンション群の一角に移り住みました。彼らは手にした大金を、地元の小さなローン会社で運用しました。ローン会社はその資金を「土幣」のからくりに再び流し込んだのです。
だが、市況過熱を嫌った中央政府の引き締め策で、ピーク時から価格が34割下がるマンションが続出。開発業者の資金繰りは悪化の一途で、ローン会社は相次ぎ閉店しました。近所に住む40歳代の住民は「利子も元本も返ってくる望みはない」と元農民らに同情しています。

中国では、土地政策が権力の行方と密接に結びついてきました。共産党は土地を公有とし、使用権を平等に分ける「土地革命」で民衆の支持を得て、49年に政権を樹立。78年に党の実権を握った鄧小平は、改革開放政策を進め、使用権を売買する仕組みが整えられました。

地方政府の土地譲渡による収入は11年、合計3兆元(約39兆円)を超えました。税など固有の財政収入の6割は、地方が自らの最量で使えます。
共産党・政府では「幹部選抜の基準で、いまだに経済成長が重視されている(党関係者)。結果として、中国の土地政策は現在、地方政府が域内総生産(GDP)の押し上げの実績づくりに使う“打ち出の小づち”の性格を帯びているといいます。
「今後5年間、北京や上海に並ぶ中心都市へと整備したい」(瀋陽市政府幹部)。次期首相に有力な副首相の李克強氏(56)が、07年までトップを務めた遼寧省の省都、瀋陽氏も同じだ。13年全国運動(国体に相当)開催を控え、メーンスタジアムの建設、鉄道・道路網の拡充など空前の建設ラッシュに沸きました。11年の市全体の固定資産投資額は、前年を29%も上回る4560億元(約59280億円)。市のGDP8割弱の金額にまで膨みました。

「中国のGDP統計は人為的で、参考用にすぎない」。
と、内部告発サイト「ウィキリークス」は1012月、中国要人が07年、当時の駐中・米国大使に語ったと米外交公電を公開しました。
発言の主は、李氏だとされます。中国側は事実確認を避けましたが、実際に中国では全国に31省・直轄市・自治区のGDPを合計すると、国のGDP1割りも上回る怪現象が続いています。
一党支配下での土地開発は質の高い住宅や工業用地も供給したが、弊害が目立ってきています。土地に頼らない成長モデルは、年内に開く党大会後も最高指導部にとどまる李氏らの宿題です。日経新聞より。

2012年6月20日水曜日

危うさ潜む政治との関係

 重慶市トップ(共産党書記)だった薄熙来氏(62)の失脚からわずか2週間後の424日に、訪欧中の中国首相、温家宝氏(69)は、スウェーデン人が高級車を組み立てる“中国企業”を視察しました。
1927年設立の名門自動車メーカー、ボルボ・カーの本社工場を案内したのは、浙江吉利控股集団の創業者、李書福氏(48)でした。
「世界で尊敬されるブランドにします」と、2年前に18億㌦(1400億円)でボルボを買収した男でした。

浙江省の農村で生まれ李氏は、写真の撮影業を手始めに、冷蔵庫、二輪車、四輪車へと事業を拡大してきました。民営企業の地位が低かった80年代に参入した冷蔵庫生産は、後に当局の認可を得られず撤退しました。98年には、乗用車に認可なしで参入しました。地元政府の数百人の幹部を工場の開所式に招待しましたが、来たのはたった一人でした。

李氏の立場を変えたのは、共産党の政策変更からでした。2000年当時の総書記、江沢民氏(85)が、民営企業家の入党を認めるよう提唱しました。02年には党規約を改定し、市場経済化で躍進する民営セクターの取り込むに動きました。吉利は01年に民営初の乗用車生産の認可を得ることが出来ました。
金融、電力、エネルギー、通信――。中国経済は長年、党と一体で独占利益をむさぼる国有企業ばかりでした。だが、現在は民営セクターが国内総生産(GDP)6割、雇用の8割を担うとされています。野放しにしていたのでは、経済力を背景に党を揺るがす存在になりかねないと党は考えました。
共産党は年内に開く党大会で、民営企業家を初めて指導層に迎える方向を打ち出しています。建機最大手、三一集団(湖南省)董事長の梁穏根氏(56)が、その筆頭候補に挙がっています。
梁氏は89年、溶接材料工場の経営から身を起こしました。04年に希望がかなって党員になると、自らが執務するビルを「共産党委員会ビル」と改称するなどして、党に忠実な民営企業のイメージを作り上げました。
梁氏は165人ほどいる中央委員候補になる見込みです。8000万人の党員を束ねる要職の一つです。世界3位の鉄鋼メーカー、宝鋼集団のトップら名だたる国有企業の経営者と肩を並べることになります。

三一は5月、上海に置く国際部門を200人の社員ごと北京に移しました。競合企業の幹部は「党とのパイプを生かし、政府開発援助(ODA)がつくアフリカなどの商談で受注攻勢をかけるつもりだ」と警戒しています。
三一は権力構造を熟知し、割り切って党に近づきました。ただ、民営の鋭い嗅覚や機敏さは薄れかねません。
吉利にもそんなリスクが潜みます。中国最大の油田を抱える国竜江省大慶市で、自動車工場の建設準備が進んでいます。
「あそこがボルボの工場が建つ土地だ」。
地元住民が指したのは広大な野原だが、敷地を取り囲む道路がきれいに舖装されていました。
大慶には見るべき部品産業がなく、北京など消費地にも遠い。それでも吉利が工場を建てるのは、資金不足でボルボ買収を断念しかけた際、大慶市政府が支援してくれたからだった。オイルマネーから30億円(3800億円)を拠出したとされます。
吉利に近い関係者はため息をつきます。
「難しい場所をあてがわれ、経済合理性を追求しづらくなった」。
李氏は大慶工場の稼働時期を決めていない。それは吉利の最後の抵抗かもしれまない。
農民や労働者が支持し、49年に政権を樹立した共産党。60年余りの一党支配の末、党内への取り込みを決めた資本家との距離は危うさを秘める。
 日経新聞より。