2012年12月28日金曜日

飛鳥、そして奈良へ(7)


藤原京は694年から平城京に移る710年までの16年間に過ぎません。藤原京は、北に耳成山、東南に香具山、西南に畝傍山に囲まれています。方位学的には、文句ありません。従来は、平城京、平安京に比し、小さな都と思われていましたが、近年の発掘の結果、平城京の24k, 平安京の23k㎡よりも大きい25k㎡あったことが分って来ました。この藤原京には、41代持統天皇、42代文武天皇、43代元明天皇が住みましたが、なぜこう短期間で奈良に遷都する必要があったのでしょうか。当時でも、万という人が移り住みました。大きな問題は、衛生にあったようです。碁盤目の道路には、水を流す側溝もありました。水洗式のトイレも発掘されていますが、これらの生活用水その他も敷地内に引き込んでいました。このために一度、疫病が流行ると、蔓延するという欠点をもっていました。事実、706年、疫病が発生しました。全国に広がったようです。このために大和の北への遷都を決意します。

いよいよ平城京です。薬師寺は、藤原京から平城京に移されました。創建当時から残っている建物は、あの有名な東塔のみです。白鳳時代を代表する建築物です。わたしのもう一つ好きな建物が唐招提寺の金堂です。巨大な円柱が、ペルシャ建築の影響を受けているとも云われていましたが、今では、そうではないという考えの方が主流のようです。
平城京は、東西約4.2km、南北約4.7km、人口10万人、高級官僚100人、中級役人600人が住んでいました。柱は朱、壁は白、屋根は瓦。青丹よし奈良の都です。余談ですが、平城京は、今は授業では、“へいじょうきょう”でなく、“へいぜいきょう”と教えるそうです。ワープロで“へいぜいきょう”と入れても、平城京とは、出てきません。当時は、多くの庶民が、竪穴式に近い住居でしたので、これら貴族の生活とは、大きな違いです。

東大寺の大仏の完成が749年、751年大仏殿完成、大仏の開眼供養が752年、光背(大仏の背にある飾り)が完成したのが、771年。大仏の高さ14.7m。金メッキを施すのに19年を要しました。水銀約5トン、金約9トンを費やしたそうです。アマルガム法で、水銀に金を投ずると、金と水銀の合金が出来ます。この合金を大仏の表面に塗りつけ、その後に熱して、水銀を飛ばします。蒸気水銀は、気管支炎や肺炎を引き起こします。水銀中毒が、平安京への遷都の理由のひとつという説もあります。ひょっとすると、聖武天皇がしばしば平城京を離れて彷徨したのも水銀中毒が影響したのでしょうか。45代聖武天皇が即位したのが724年。平城京になかなか落ち着きません。聖武は、奈良朝で初めての男性天皇です。 

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