2012年12月25日火曜日

飛鳥、そして奈良へ(6)


天武は、10人以上の妃がおり、それぞれに子をなしています。少子化対策の切り札は、一夫多妻制でしょうか。一夫一妻制になったのは、つい最近のことです。

額田王は、飛鳥で中臣大島と再婚します。女性の恨みは恐ろしいもので、天武が崩御すると、持統天皇は、687年、額田王から「王」を取り、「朝臣」に貶めています。このとき、額田は52歳です。当時で52歳といえば、相当の歳でしょうが、それでも持統は嫉妬したのでしょうか。額田の晩年は、娘にも先立たれ、桜井市の栗原寺で淋しく亡くなるなど、飛鳥時代を代表する美女にしては、悲しい晩年だったようです。小野小町を思い出します。女性は、あまり美人ではない方が、幸せなのでしょうか。美人は薄命ですか。

さて、天武のあと天皇になった持統は、子供の草壁皇子を皇位につけるために姉妹の子の大津皇子を謀反人として殺害します。こうまでして、ライバルの大津皇子を殺したのに草壁は早く亡くなります。それで今度は、草壁の子の軽皇子が成長するのを待ちます。これが42代文武天皇です。その文武も24歳で亡くなります。今度は、持統は、文武の子の首皇子の成長を待ちます。このために愛息の草壁の后で、文武の母の43代元明天皇が継ぎます。首皇子は、文武と藤原宮子との間に出来た子です。宮子は、藤原不比人の娘です。ここから藤原氏の外戚関係を結ぶという戦略が平安時代まで続きます。そして、持統天皇は、飛鳥が手狭になったために694年藤原京に移します。遷都は天武が考えていたものです。元明のあとは、文武の姉の元正が継ぎ、聖武天皇に譲ります。

0 件のコメント: