2012年12月24日月曜日

飛鳥から奈良へ(5)


皇極天皇の時に大化の改新が起こり、中大兄皇子が、蘇我入鹿を暗殺します。人心一新のために皇極は天皇を降り、宮を難波に移し、軽皇子が皇位につきます。36代孝徳天皇です。孝徳は、皇后に中大兄皇子らと兄妹で姪の間人皇女(先の間人皇后とは、別人です)を選びます。中大兄は、宮を飛鳥に戻し、間人を難波宮から飛鳥に連れ戻します。孝徳は、悶々のうちにひとり難波宮で亡くなります。孝徳が亡くなると、中大兄は、間人を妃にします。前の皇后を妃にしたわけです。しかも、兄妹相姦です。孝徳の死後も中大兄は、すぐに天皇にならずに皇極が重祚して斉明天皇となります。斉明がなくなった後も、中大兄は、すぐには天皇になっていません。当時でも、中大兄と間人のことは、相当の非難があったと思われます。これを相当に気にしていたのでしょう。中大兄は、孝徳の子の有馬皇子を謀反の罪で殺します。皇位継承のライバルを抹消したと本には書いてありますが、何も後ろ盾のない有馬を怖がることはありませんでした。間人を孝徳にとられたことが、よほど許せなかったのでしょう。孝徳を自らの手で殺せなかったので、その子の有馬皇子を殺したのが真相でしょう。面影などが、孝徳にそっくりだったと思われます。さすがに飛鳥で殺すと、ふたたび非難の渦が沸くので、和歌山の藤白の坂で首をつって死なせます。有馬が護送される途中で詠んだ歌があります。

“岩代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また帰り見む”
(今、私は岩代の松の枝を結んで行く。万一願いがかなって無事でいられたら、もう一度ここに戻ってこの松をみることができるだろう)。

このとき、有馬は、19歳です。父の死といい、なぜ自分が死なないといけないのか。ただ神に祈るしかすべがありませんでした。ここには、藤白神社が建っており、有馬を祀ってあります。境内に立派な大きな楠があります。博物学者の南方熊楠は、この楠にちなんで名前をつけたそうです。
中大兄皇子は、好色で、冷徹な人だったようです。斉明天皇のあと、やっと中大兄皇子は、即位し、38代となり、宮を近江大津に移します。天智の治世は約2年と短いものでした。多くの人を殺めましたが、死ぬときには、大海人皇子を吉野にとり逃し、子の大友皇子は、壬申の乱で破れ、自害することになります。大海人皇子は、飛鳥に戻り、40代天武天皇となります。大海人皇子は、短い期間、吉野の宮滝で隠遁生活を送っていましたが、この場所も、行ってみると分りますが、非常に狭いものです。

飛鳥には、南からキトラ古墳、高松塚古墳、中尾山古墳、菖蒲池古墳、文武天皇陵、天武持統天皇陵、藤原京が、ほぼ同じ経度に並んでいます。後世の人へのメッセージでしょうか。何か意味があるのでしょうか。

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