2012年1月2日月曜日

佐野眞一の津波と原発(36)

 昨日の原発反対運動をつづけてきた浪江町出身の元大熊中学校教論大和田秀文氏の話の続きです。

「原発の工事が始まると地元で力を発揮したのは、双葉町長の田中清太郎でした。

「田中は双葉町、いや双葉郡一番の土建屋の田中建設の社長です。ミニミニ田中角栄のような人物で、原発に関連する仕事や、それにまつわる公共工事をとっては業者に割り振ったり、談合で入札させていました。自宅が入れ札会場といわれるほどでした」

反対運動が盛り上がらなかったのはなぜだったと思いますか。そう尋ねると、大和田はなかなか含蓄あることをいいました。

「東電がうまかったからです。第一原発を稼働させると今度は第二原発をつくる。それだけでも反対運動が拡散してしまうのに、すぐそばの浪江、小高に東北電力の原発が建設されるという話になる。反対派は、第一はできてしまったから仕方なく安全というほかなくなり、第二はこれ以上増やすな、浪江と小高は土地を売るな、と三つの活動を同時にしなきゃいけないことになった。そうこうするうちに原発でうるおう人が多くなり、反対運動が出来にくくなってしまった」

元双葉町町議で原発反対の立場だった丸添富二は、311日は双葉町の自宅にいた。「でかけようとして車のところに行ったところ、地震がきた。すぐに津波の避難命令が出て、高台にある双葉中学に逃げました。まだ停電していなかったので、テレビをつけると原発は大丈夫、と言っている。本当かねと思いました。一睡もできず、翌日になると、10キロ以上離れたところに避難してください、という指示がきた」

丸添が双葉中学校を飛び出して外に出ると、千葉県警の警察官が大勢来ていることに気がついた。

「地震発生からまだ一日と経っていないときです。しかも千葉県警の警察官の格好を見ると、防毒マスクに分厚い防護服を着込んでいる。これはタダごとではない。原発が大変なことになっていると、確信しました。私は家族と一緒に双葉町を離れ、以来2ヶ月、避難所と転々とし、いまはご覧の通り、猪苗代湖の近くのホテルにいるというわけです」

0 件のコメント: