2011年11月30日水曜日

佐野眞一の津波と原発(7)

 山下はずぶ濡れになった衣服を全部脱がされ、フルチンで屋上の真っ暗な部屋に雑魚寝させられた。自衛隊のへりコプターが救援にきたのは、翌日の午後だった。

36人乗りの大型ヘリだった。中にはちゃんと医務室みたいなものまであった。僕はこれまでずっと自衛隊は憲法違反だと言い続けてきたが、今度ほど自衛隊を有り難いと思ったことはなかった。国として、国土防衛隊のような組織が必要だということがしみじみわかった。

とにかく、僕の孫のような若い隊員が、僕の冷え切った身体をこの毛布で包んでくれたんだ。その上、身体までさすってくれた。病院でフルチンにされたから、よけいにやさしさが身にしみた。僕は泣いちゃったな。鬼の目に涙だよ」

山下はそういうと、自分がくるまった自衛隊配給の茶色い毛布を、大事そうに抱きしめた。

山下はその毛布を移送された花巻の病院でも、ホテルでも子供のように握りしめて放さなかった。

 「この毛布は、運ばれた花巻の病院の毛布よりずっと暖かいからね。ところが、花巻の病院を退院するとき、それはこっちにおいていきなさい、と言われた。でも、看護婦長がもらったものを取り上げることはないと言ってくれたおかげで、ここにもってこれた」

自衛隊の対応がよほどうれしかったのか、山下はもう一度毛布をしっかり抱きしめた。山下は今回の災害で初めてわかったことがあったという。

 「好きで入ったわけでもない花巻の病院から請求書がきたんだ。配給された備品は病院がくれたとばかり思っていたら、実は買わされていたんだ」

 ――それはひどい話だ。

 「これは佐野さんの仕事だ。証拠の請求書の写しをあげるから、このことはぜひ書いてよ」

そう言って山下がくれた東和病院売店からの請求書には、オムツ、尿取りパッド、おしりふきなどの品目が細かく書かれた、合計15659円が品代として請求されていた。

タオルなどの身の回り品ならともかく、介護に必要なこうした品々の代金まで請求するのは、災害救援医療の基本精神から言って確かに問題だろう。

 「要するに菅直人はじめみんなが混乱して、今回の大震災に誰も正しく対応できていないんだ」と言った。

 ――今回の大震災から一番学ばなければならない教訓は何だと思いますか。

 「田老の防潮堤は何の役にも立たなかった。それが今回の災害の最大の教訓だ。ハードには限界がある。ソフト面で一番大切なのは、教育です。海に面したところには家を建てない、海岸には作業用の納屋だけおけばいい。それは教育でできるんだ」

 ――つまり日本人の防災意識を根本から変えなくちゃいけない。

 「反省しなきゃならないのは、マスコミの報道姿勢だ。家族のことが心配で逃げ遅れて死体であがった人のことを、みんな美談仕立てで書いている。これじゃ何百年経っても津波対策なんかできっこない」

津波による溺死者の死の形相を「溺鬼」と表現した碑があることはあとで知った。

山下自身も明治大津波では一族9人が溺死し、昭和大津波には9歳のとき遭遇して危うく溺死を免れている。「津波だ!逃げろ!」の声を聞いたのは、寝ぼけながら小便をしていた最中だった。

山下はこのとき小便の途中だったから、下半身素っ裸で逃げている。生涯で2度目の津波に遭った今回もフルチンで助けられていることを思えば、不思議な暗合を感じる。

山下の綾里の家は、明治大津波にも昭和大津波にも流されなかった。だが、今回の平成大津波は、高台にある家の屋根を越え、明治19(1886)年に建てられた家はついに流された。

2011年11月29日火曜日

佐野眞一の津波と原発(6)

 ――今回の災害のテレビ報道では、東京大空襲の後のような映像が毎日流されました。山下さんは釜石が、米軍の艦砲射撃で焼け野原になったのを覚えているそうですが、それと今回の災害と比べてどうですか。

 「どっとがどっちとも言えないけど、残骸の多さでは津波の方がひどいんじゃないかな。戦争のときはわりとさっぱりしていた」

 ――えっ、さっぱり?

 「戦争は敵の正体わかっているじゃない。でも、津波は正体が分からない。戦争より津波の正体の方がわかっているじゃない。だから今度こそ、津波の正体を身届けてやる。そう思って、最後まで目をそらさなかった」

津波が来たときに、山下の病室には、たまたま巡回診療中の副院長がいた。山下はその副院長に「写真を撮れ!」と言った。さすが津波研究の鬼である。山下に命じられて病室から撮られた迫力あるそのカラー写真は、「岩手日報」の319日付紙面を飾った。

この副院長の妻は津波で行方不明になり、副院長はそのストレスで入院した。妻の遺体はその後、4月になってから見つかった。

2011年11月28日月曜日

佐野眞一の津波と原発(5)

 “定置網の帝王”の異名をとる株式会社山根漁業部専務の山根正治の祖父で山根漁業部を創業した山根三右衛門は、炭焼き業から定置網による漁業に転じて巨万の富を得た立志伝中の人物である。

明治23(1890)年に生まれ、昭和46(1971)年に没した三右衛門は、81年の生涯に大小8つの津波を体験している。

だが、三右衛門は「津波が恐ろしいからといって、漁師が山に逃げていては生きていけねえ」と言って、津波がおさまると、いつも勇猛果敢に海に出た。

昭和2(1927)年には大ブリ6万尾の大漁を記録し、山根御殿と呼ばれる豪邸を建てた。昭和14(1939)年には16(60キロ)の大マグロ7千尾という日本定置網史上最高の漁獲をあげた。

山根氏は、「このままでは日本は、食糧問題で全滅するよ。簡単な話、日本の漁業で年間530万トンを 獲っているうち、1万トンはオレが獲っていたんだ。オレ、ナンバーワンだもん」

被害については、「6艘持っていた船のうち、5艘流された。1艘しか残んねがった」

 「北海道から九州まで全国で船余ってらったら(余っていたら)オレさけろって(くださいと)、売ってけろって。そうせば(そうしたら)オレ、再生できっぺ。船がねば(なければ)どうじようもねんだでば(どおうしようもないんだよ)

このあと、佐野氏は日本共産党元文化部長で在野の津波研究家の山下文男にインタビューします。

 ――高田病院にも行ったんですが、メチャクチャでしたね。あんな状態の中でよく助かりましたね。

 「僕はあの高田病院の4階に入院していたんです」

 ――えっ、津波は4階まできたんですか。

 「津波が病室の窓から見えたとき、僕は津波災害を研究してきた者として、この津波を最後まで見届けようと決意したんです。

 最後まで見届けようと思った。と同時に、4階までは上がってこないだろうと思った。陸前高田は明治29年の大津波でも災害が少なかった。昭和津波では2人しか死んでいない。だから、逃げなくてもいいという思い込みがあった。津波を甘く考えていたんだ、僕自身が。

窓から津波を見ていた。ところが、4階建ての建物に津波がぶつかるドドーンという音がした。

ドドーン、ドドーンという音が2発して、3発目に4階の窓から波しぶきあがった。その水が窓をぶち破って、病室に入ってきた。そして津波を最後まで身届けようと思っていた僕もさらわれ、僕は津波がさらってなびいてきた病室のカーテンを必死でたぐり寄せ、それを腕にグルグル巻きにした。

水嵩は2メートルくらいあった。僕は顔だけ水面から出した。腕にカーテンを巻きつけたまま、十分以上そうしていた..

そうそう。そのうち今度は引き波になった。引き波というのはすさまじいもんだ。押し寄せる波の何倍も力がある」

51人の入院患者中、15人が死んだことは後で調べて分かった。

2011年11月27日日曜日

佐野眞一の津波と原発(4)

 わが国の地震・津波研究の草分け的存在の今村明恒は、津波は高い風浪ではなく、陸地への一時的な「海の移動」だと述べています。今村は1899年に、津波は海底の地殻変動を原因とする説を提唱しました。現在では広く受け入れられている説ですが、発表当時はほとんど受け入れられませんでした。

今村は、震災予防調査会のまとめた過去の地震の記録から、関東地方では周期的に大地震が起こるものと予想し、1905年に、今後50年以内に東京での大地震が発生することを警告し、新聞にセンセーショナルに取り上げられて社会問題になってしまいました。上司であった大森房吉らから世情を動揺させる浮説として攻撃され、「ホラ吹きの今村」と中傷されました。しかし18年後の19239月1日に関東大震災が発生し、今村の警告が現実のものとなりました。

1925年に但馬地震、1927年に北丹後地震が発生し、次の大地震は南海地震と考えた今村は、これを監視するために1928年に南海地動研究所(現・東京大学地震研究所和歌山地震観測所)を私費で設立しました。地震予算を分捕ろうとする今の学者とは大違いのようです。今村の予想通り1944年に東南海地震、1946年に南海地震が発生しました。東南海地震後には南海地震の発生を警告したものの、被害が軽減できなかったことを悔やんだと言われます。

海の水深が浅くなって津波のスピードが落ちてくると、津波の山と山の間が次第に縮まり、前を進む波に後ろの波が次々に追いつき、折り重なってすさまじいエレルギーとなります。

さらに、それがV字形の湾に入ると、前後からだけではなく左右からも圧縮されて急速に波が高くなり、それがそのまま陸地に駆け上がります。