2011年5月31日火曜日

金融政策の失敗がなければ給料が今の2倍

 高橋洋一氏は、夕刊フジの「日本」の解き方で、中国の名目GDPは、20年前は日本の1割強だった。しかし、日本はここ20年間デフレでまったく成長していない。1991年度の名目GDP474兆円であったが、2009年度474兆円と同じ水準なのです。

G7の他の先進国では、名目GDPは年率45%の成長をしています。仮に91年以降、日本がG7の他の先進国と同じ経済成長率であったならば、09年度は1028兆円となっているはずです。なんとこの失われた20年間で554兆円も付加価値を失ったことになります。失われた20年がなければ、今の給料は2倍以上になっていたという計算になります。

経済の長期停滞については、日本の構造問題を強調する立場と金融政策の失敗を強調する立場があります。しかし、90年代になって急に日本の構造問題が出てきたというのは不自然だと高橋は書いています。90年代以降、変動相場制が定着し、金利が自由化されたのでマンデル=フレミング効果により財政政策より金融政策が効果があったにも関わらず、バブル崩壊後に羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹くようにデフレギャップが発生しても金融政策を引き締める気味に運営してきたという金融政策失敗説のほうが説得力があるだろうとも書いています。

日本の構造問題は、いろいろと出て来ますが、最近では「人口が減少し高齢化している日本では、経済成長は難しい、低い成長やゼロ成長はやむを得ない」と論調も見かけられます。多くのテレビに出てくるコメンテーターが、この意見を吐きます。

しかし、世界銀行データベースを使って見ると、人口増加率と実質経済成長率の相関係数は0.2程度と、それほど相関があるとはいえません。実質経済成長率は、人口成長率と1人あたり付加価値(=給料)の伸び率で構成されますので、人口増加率とは相関があってもいいはずですが、実際にはそれほどでもありません。

過去を議論しても仕方がありませんが、幸いなことに日本には、資産があります。今からでも遅くありませんから、これを有効活用してほしいものです。大手企業の中には、本社を海外に移すということを本気で言う人がありますが、この莫大な資産は日本にある企業にしか利用させない(今は海外の金融会社が利用していますが)というかたちにして、日本を活性化してほしいものです。

2011年5月30日月曜日

モナリザの遺骨調査(10)

 2005326日に日本テレビで放送された『ビートたけしのモナ・リザはもう一枚あった!』において、スイス・ジュネーヴの地下金庫に眠っていたもう一枚の『モナ・リザ』が初公開されました。そのもう一枚の『モナ・リザ』はX線写真監査でレオナルドの時代に描かれたことが判明し、現在さらに詳しい調査が行われています。しかし、未だにその発表は行われていません。

 夏目漱石は『永日小品』に所収されている短編『モナリサ』にてこの絵を扱っています。作中での絵の扱いは「気味の悪い顔」、「縁起の悪い画」と評されています。

 松岡圭祐のミステリー小説『万能鑑定士Qの事件簿IX』で、37年ぶりに『モナ・リザ』が日本で公開されるというフィクションが描かれ、「瞳の中の文字」も題材に扱われています。作中、『モナ・リザ』の裏面に「H29の文字」「ジョコンダの走り書き」「王立美術館の赤いスタンプと316という数字」があるという記述は事実に基づいており、2011年春に日比谷公園で開催された『ダ・ヴィンチ展』のレプリカ展示品で確認できました。

 1950610日、ナット・キング・コールがバラード『モナ・リザ』をこの絵に捧げた歌として発売しましたが、300万枚の売り上げを記録しました。

2011年5月29日日曜日

モナリザの遺骨調査(9)

 イタリアの文化財専門家が、『モナ・リザ』の目の中にレオナルドのイニシャルなどの微細な文字を発見したと、英紙デイリー・メールが201012月に報じました。右目にレオナルドのイニシャルである「LV」が描かれ、左目には「CE」あるいは「B」と思われる記号、背景にある橋のアーチには「72」あるいは「L2」のような文字を、高度な拡大鏡を使用することで確認でき、謎を呼んでいまする。

ギネスブックはこの絵を最も多額の保険がかけられた絵画として登録しています。『モナ・リザ』がフランスから持ち出されたのは2度のみで、そのうち日本、ロシアと巡回展示された際には、50億円の盗難保険がかけられました。

2011年5月28日土曜日

モナリザの遺骨調査(8)

 そんな中、ドイツのハイデルベルク大学図書館は、2008114日、『モナ・リザ』のモデルが、フィレンツェの商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻・リザであることを裏付ける文献が見つかったことを明らかにしました。1477年に印刷された所蔵古書の欄外にフィレンツェの役人によって「レオナルドは今、リザ・デル・ジョコンドの肖像を描いている」という書き込みがありました。この書き込みは150310月になされ、レオナルドが『モナ・リザ』を描いていた時期と重なり、ヴァザーリの記事が裏付けられたことになります。これにより、モデルにまつわる論争には一応終止符が打たれたという見方が有力ですが、それならばなぜすぐに依頼主に引き渡されなかったのかなど、依然として論拠の曖昧さが残っています。

 『モナ・リザ』の左右のまなざしは若干ずれており、右目が正面を向いているのに対して左目はやや左を向いている。また、モナ・リザをX線にかけたところ、レオナルドは、最初に描いた「まなざし」の上に少なくとも一回以上異なった「まなざし」を上塗りしたことが分かっています。

 『モナ・リザ』に描かれている女性には眉毛が書かれていないことがよく指摘され、眉毛は修復の際に消えてしまったという説や、ダヴィンチは元から眉毛を書いておらず、それゆえに絵が未完成であるという主張などが論じられてきました。しかし2007年にフランスの技術者、パスカル・コットによる高解像度カメラの分析によって眉の跡が確認されました。コットは、モナリザの目の周囲に亀裂があることから、修復やクリーニングの際に眉毛やまつげを一緒に拭き取ってしまったと推測しています。

2011年5月27日金曜日

モナリザの遺骨調査(7)

 こうしたことから、20世紀に入ってモデルに関する様々な異説が唱えられるようになり、以下のような人物がモデルとして推定された。

コスタンツァ・ダヴァロス当時ジュリアーノ・デ・メディチの愛人であったナポリ公妃。ただし1503年当時45歳で、年齢的に合わない(これはレオナルドが嘘をついたためとする意見がある)。

イサベラ・ダラゴーナミラノ公妃。年齢が絵と近く、同じ構図の油絵『アラゴンのイザベラの肖像』がある。『アラゴンのイザベラの肖像』は、スイスで個人が所有しており、詳細はよく分かっていない。

イザベラ・デステマントヴァ侯爵夫人。レオナルドのデッサンに『イザベラ・デステの肖像』があります。このデッサンは横顔ですが、衣装、顔、体型が『モナ・リザ』に描かれている女性と非常によく似ていますが、レオナルドの手によるデッサンであるかどうかについては議論があります。

その後もモデルに関する憶測もしくは捏造は止まることを知らず、「この肖像画はフランチェスコ・デル・ジョコンド、つまり男性の肖像画である」という極端な説まで現れました。

また、ベル研究所のリリアン・シュワルツ博士は、レオナルドの自画像といわれる絵と、『モナ・リザ』の顔の特徴をデジタル解析した結果に基づき、『モナ・リザ』はレオナルドの自画像であるという見解を出しました。両者をコンピュータを用いて合成すると、顔の特徴がほぼ完璧に一致するというのです。しかし同じ画家が描いた絵であれば癖や好みなどから特徴が似通った絵となることも多く、レオナルド自身の「すべての肖像画は、画家自身の自画像に通じる」という言葉を裏付けたとも見なすこともでき、必ずしもレオナルドが『モナ・リザ』のモデルであることを証明する物ではありません。

2011年5月26日木曜日

モナリザの遺骨調査(6)

 レオナルドは通常、描く絵について大量のスケッチやメモを残しているが、この肖像画については晩年まで離さず持ち続けていたにも関わらず、何の記録も残していません。

絵を描いた1503年当時、リザは24歳でしたが、描かれている人物はもっと年齢が高く見えます。 フランチェスコの妻と書き記したヴァザーリは、1511年の生まれであり、レオナルドにもリザにも会ったことはありませんでした。また『モナ・リザ』を実際に見てはいないと思われます。

レオナルド存命中の1517年にクルーの館を訪れた人物(ルイジ・ダラゴーナ枢機卿の秘書アントニオ・デ・ベアーティス)が、ジュリアーノ・デ・メディチの依頼によって描かれた「フィレンツェの婦人」の肖像を見たことを記述しています。レオナルドは「フィレンツェの貴婦人の役目は、偉大なジュリアーノ・デ・メディチの死と共に終わった」と述べたといいます。