2011年1月31日月曜日

班田収授法の実際(4)

 班田収受法もうまくは、続きませんでした。奈良時代は、天候も悪く、ときの天皇は、自分に徳がないためと雨乞いしたり、神仏に祈ったりしましたが、いっこうに改善しませんでした。日本の天皇は、古くから超能力を有していると民からは思われていました。しかし、超能力を持っているわけではなく、雨が不足しているところには、日照りが続き、雨が多いところは、洪水が起こりました。 

 このために、本籍地からの逃亡が相次ぎ、税制度の維持が困難になりつつありました。朝廷は、公地公民制の原則を崩し、墾田永年私財法を出し、開発した土地の私有を認めて耕地の拡大をはかり、増収をねらいました。同法によって開墾された土地を荘園と呼びます。

 そうした苦しい状況であったにもかかわらず、聖武天皇は仏教興隆事業に金をつかいました。神に縋る以外になかったのです。しかし、大仏の建立は、一向に進みませんでした。このために聖武天皇は、とうとう行基の力を借りることにしました。行基は、庶民に仏教を広げ、信者たちとともに道路や橋、灌漑施設を作っていました。

 当初、朝廷は行基集団を弾圧しました。戒壇を受けていない僧は、僧とは認めていなかったのです。だが、聖武はむしろこの力を利用しようと、行基に協力を求めたのです。行基は、これを受け、ついに天平勝宝4(752)年、大仏開眼供養にこぎつけることができました。

 その頃には、奈良時代の律令制度は、根幹から崩れそうになっていました。

2011年1月30日日曜日

班田収授法の実際(3)

 班田収授のしかたが、これまでに書いてきたとおりであるとするならば、1回目の造籍開始直前に生まれた運のよい子でも、数え年でいうと、10歳の春から自分の田を耕すことになり、造籍開始直後に生まれたような運の悪い子は、数え年16歳の春を迎えないとだめだということになります。しかもこれは8世紀のほぼ前半までで、なかば近くからは校田が二冬にわたるようになり、造籍から班田までは満3年となってしまったのです。

 口分田をどこにくれるかという問題もあります。田令では、できるだけ、その百姓の家の近くに口分田を与えよ、となっていますが、725(神亀2)年には志摩国の百姓にたいする口分田を、隣国伊勢や、海のかなたの尾張国で班給している例もあります。

 766(天平神護2)年ころ、越前国坂井郡の百姓たちのなかには、口分田と自宅との距離が直線距離で7~10キロにおよぶものが少なくなかったとあり、ひどいばあいには海を渡って敦賀郡に班給されていたものがあるといいます。当時の人も大変だったようです。口分田をもらうと租庸調を納めねばなりません。いつの世も最下層のひとたちにしわ寄せがいきます。

2011年1月29日土曜日

班田収授法の実際(2)

 一見詳細に見える班田法の諸規定も、具体的な実施状況を考えると、意外な面が出てきます。第一に、満6歳以上という授田資格ですが、これは満6歳になればすぐにも口分田がもらえるのかというと、そうではありません。班田収授は6年に1度しかおこなわれないからです。今の国勢調査も似たようなものです。

 満6歳以後満12歳以前には口分田をもらえるかというと、そうでもありません。すなわち近年、班田法を詳細に研究された弘前大の虎尾俊哉氏の説によって、実施のしかたをのべれば、つぎのとおりになります。まず班田収授は戸籍にもとづいておこないますが、満6歳以上とは、実は6年ごとにつくられる戸籍に2回以上のるということです。戸籍は11月上旬現在の人口でつくりはじめますが、つくり終わるのは翌年5月末日です。こんどはその冬からまた翌年の春にかけて、全国の田の一斉調査、つまり校田をします。戸籍と校田の結果にもとづいて、いよいよ班田が始まるのは、造籍開始から丸2年後の11月で、終わるのは翌春2月になります。

2011年1月28日金曜日

班田収授法の実際(1)

 条里制は、律令国家の土地制度の基本である班田収授法にとって、必要な前提でした。
一つには、班田法も耕地割換制度の一種である以上、地積に規格を必要としたからです。しかし、それよりもっと大切なことは、班田収授のさいの原簿となる田籍に、一人一人の田の所在と面積とを明確に記載しなければなりませんでした。もし条里制がなかったならば、田籍の記載はどれほどめんどうになったことでしょう。あるいは班田収授も定期的には行えなかったかもしれません。

 まず口分田として、満6歳以上の良民の男子には、2段(約21アール)、女子にはその3分の2である1段120歩、賎民の奴、婢には良民の男、女のそれぞれ3分の1を与えました。本人が死ねば、回収するという規定が班田法の骨格ですが、これらの班給規準は日本独自に決めたものでした。

2011年1月27日木曜日

大和、平城京を読んだ歌

有名な佐々木信綱の和歌があります。
 行く秋の 大和の国の 薬師寺の 塔の上なる ひとひらの雲
この歌は、佐々木信綱が37歳のときに初めて大和への旅行をしたときのものです。明治41年です。日露戦争が終わって3年後のことでした。

そのほか、奈良時代に詠まれた歌が多くあります。
 誰もが知る有名な歌が
  あおによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 盛りなりけり
これは、平城京の役人の小野老が大宰府に赴任を命じられたときに歌ったものです。

 伊勢大輔の
 いにしえの 奈良の都は 八重桜 けふここのへに 匂ひぬるかな
そのほか、
 雪(あわゆき)の ほどろほどろに 降りしけば 奈良の都し 思ほゆるかも
また、
 たち変わり 古き都と なりぬれば 道の芝草 長く生ひけり
という田辺福麻呂の歌があります。これは、平城京から平安京に移った後に歌われたものではなく、奈良から恭仁京に移った後に歌われたものです。

 平安京に移ってから、平城京はどうなったのでしょう。平城京址は、現在の地面から1メートル以上も下にありますから、佐保川が氾濫したりして、土砂を平城宮祉の上に運んだのでしょう。これらの土地は、誰が誰から貰ったのでしょう。いずれにしろ、平城宮祉の多くが残って、次の世代に継がれたのは、幸せといわねばなりません。

2011年1月26日水曜日

平城京その後(2)

 平城京は、現在まで町並を残している平安京とちがって、古図はまったくなく、関係文献もはるかに乏しいといわれています。

 平城宮址の重要性を知って、その保存と顕彰とに家財を傾けた人がいます。病んで失明してもなお志を曲げなかった奈良の植木商、棚田嘉十郎氏らのよびかけに応じて篤志家たちが、約一平方キロの平城宮址の1割2分にあたる約3万6000坪を国に寄付し、文部省は代価を支払うことなく入手したこの国有地を中心に、その後1928(昭和3)年にかけて平城宮址全域の6割ばかりを史跡と指定しました。

 東大寺の大仏は、1692(元禄5)年に僧公慶が復興しました。大仏殿は1709(宝永6)年に将軍綱吉の援助を受けて再建しました。これらの努力があって、今日、わたしたちは見ることができます。平城遷都で随分、景色が変わりましたが、平城宮祉に寝転がると奈良時代と変わらぬ景色が見えてきます。東に若草山、西に生駒山。光明子の乗った牛車の音が聞こえそうです。草茫々の平城宮祉が好きでした。おかしな建物が建つとイメージが崩れます。

2011年1月25日火曜日

平城京その後

 貴族・役人・農民・商人・盗人・僧尼、富める者、貧しき者など、三世代近くにわたって何十万という人々の生活が育まれた平城京も784(延暦3)年の冬、桓武天皇が山城の長岡に遷都すると、その日からにわかに荒れはじめた。平城京からの遷都も古来、いろいろの説があります。僧が力を持ちすぎた、呪いなど超常現象に頼る人が多く忌まわしい土地となった、桓武天皇の支援母体が京都にある、大仏を金メッキするときに多くの水銀が使われ、今でいう公害が発生し、健康な生活を営むことができなくなった、などの多くの説があります。都は飛鳥から、藤原京、平城京と北に移って来ました。この遷都には、藤原氏に莫大な利益をもたらしました。桓武天皇は、藤原氏ともある程度の距離がおきたかったと思います。

 つぎの平城天皇は退位後、寵姫藤原薬子と平城宮の故地に宮を営みましたが、復位の運動が失敗すると(810年)、平城京の荒廃の速度は以前に増して、速くなりました。このいわゆる薬子の乱から54年の後、大和の国司は「都城・道路、変じて田畝となる」と報告しています。それは、平城の左右両京のことで、外京は平安遷都に随行することを許されなかった東大寺や興福寺、春日大社など大寺、大社に寄生して暮らしてゆく人々によって、門前町に変貌してゆきました。これが、今日まで続いています。

2011年1月24日月曜日

丹羽大使がSMAPと嵐を北京に招聘

 日刊ゲンダイによると、昨年、中国大使に抜擢され話題になった伊藤忠商事の丹羽宇一郎元会長(71)が、新年早々、仰天発言をブチ上げ、現地で大騒ぎになっているようです。

発言が飛び出したのは、今月7日に北京の日本大使館で開かれた新年賀詞会。日系企業の代表が100人以上、勢揃いする前で挨拶に立った丹羽大使は、上機嫌でこう声を張り上げたといいます。

「私は今年、大使館を改革する。大使館内にいくつもの委員会を作るにした。たとえば、文化委員会。ここでは、まずはSMAPと嵐の北京への招聘を検討する。北京のオリンピックスタジアムで彼らのコンサートを開き、日本ファンを増やすのだ。

このことは、友人の劉淇(北京市党委書記)にも披露し、彼らのDVDを渡したら、大変よいことだと言ってくれた。SMAPと嵐を北京に呼ぶには3億円かかる。企業の皆さん、宜しく頼みます」。

これは単なる“思いつき”発言ではない。丹羽大使は事務方に「スピーチ原稿を用意しなくてもいい」と伝えるなど、周到に準備してきたフシがあります。発言のウラにあるのは、たまりにたまったウップンです。

「尖閣問題で日中関係がこじれて以降、丹羽大使は外務省から安全確保を理由に行動を“制限”されてきました。大使として、独自の活動をやりたいのに、いわば監視下に置かれてきたようなものです。あげくが一部報道のうつ病説です。おそらく、大使も堪忍袋の緒が切れたのでしょう。昨年の紅白で司会を務めた嵐とSMAPを招聘するという発言は、「今年はオレのやりたいようにやる」という宣言です。大使を追い込んでいる外務省の垂秀夫中国課長と前原外相は同じ京大のゼミの先輩と後輩。丹羽大使は、前原・垂コンビに、“宣戦布告”したとみられています」。

丹羽大使を起用したのは岡田前外相(現幹事長)。前原氏にしてみれば、それも面白くないのでしょう。これからの丹羽氏の動きと前原氏と外務省との対立が、面白くなって来ました。しかし、丹羽氏は中国には、かれの顔を立ててくれる友人がいないので、日中関係にトラブルが起きるとまたも赤恥をかくことになりかねません。いずれにしろ、まとまって中国に当たってほしいものです。

2011年1月23日日曜日

防人と母(2)

武蔵国多摩郡鴨里の吉志火麻呂は、母は日下部真刀自といいました。聖武朝に防人に選ばれ故郷を発つことになりましたが、妻は家にのこり、母が火麻呂の身の周りの世話をするために西国まで同行しました。

筑紫にあって防人としての勤務をつづけているうちに、火麻呂は妻にあいたくてたまらなくなりました。思いついたかれは、母が死ぬと喪のため1年間の休暇がでるという規定でした。母は信心深い人だったので、火麻呂はいいました。

「東方の山の中の寺で、7日間、法華経を講義する会が開かれます。母刀自も聞きに行かれませんか」

母は湯で身を洗い清めて、息子に同行しました。山のなかにいると、突然ふりかえった息子は、牛のような目つきで母をにらみすえた。

「汝、地にひざまずけ」

「そんなめつきをして。おまえ、鬼に狂ったのかえ」

息子は横刀を拔きました。母は子の前に跪きました。

「木を植えるのは、実をとり木陰に休らうため、子を養うのは、生きなくてはと力づけられ、また子にも養われるためです。頼みにした木陰に雨がもるように、どうしておまえに異心がわいたのだろう」

しかし子は聞き入れようとはしませんでした。母は着ていた衣類をぬぎ、三つに分けて遺言しました。

「いいかい、一つは長男のおまえの分、一つは国もとの次男の分、もう一つは末っ子に私の形見としてやっておくれ」

不孝息子が進みでて、母の首を斬ろうと刀をふりあげたそのとき、足もとの大地が裂けました。母は裂け目に落ち込む息子の髪をつかみ、必死になって、天をあおいで泣きながら叫びました。

「息子はものに狂っておりました。正気でしたのではございません。どうかお許しください」

しかし髪を母の手にのこして、息子は無限の底へ落ちていきました。母は髪を故郷に持って帰り、筥に納めて仏像の前にそなえ、手あつく法事をいとなんだといいます。

「日本霊異記」に書かれている話です。

2011年1月22日土曜日

防人とその母


 防人が東海・東山諸国の兵士たちのうちから選抜され、壱岐・対馬など九州北辺の防備に配属されていたことも、よく知られています。職員令によると太宰府の防人司が指揮し、軍防令では勤務期間が三年とされていました。

738(天平10)年夏、東国の防人を北九州から引き上げ、九州の兵士に北辺を防備させたことがあります。前年秋の詔の実施でしたが、おそらく当時、北九州から畿内にかけて大流行をしていた天然痘のための臨時措置であったでしょう。防人の部隊の帰郷にあたって、沿道の諸国は、規定により一人一日あたり稲四把(現量米約8)、塩二勺(現量約0.8)の食糧を支給し、正税帳という国衙財政の報告書にその旨を記入しました。

東国の人たちを、なぜ遠い北九州の防備に使ったのかということについては、古くから、いろいろの説があります。東人の勇敢さという面が強調されているけれども、じつは被征服者のなかの支配層からは人質をとり、勇敢な戦闘員は他国へうつすという、大和国家以来の朝廷の政策によったのでしょう。東国は56世紀の大和朝廷に征服されましたが、常陸以遠の蝦夷は8世紀にも征討され、降伏者の一部は俘囚として西国へ移住させられていました。東国の人たちが、西国・九州へ送られると、ことばも通ぜず、逃げ帰ることもできなかったのです。防人に徴集される人々の心は重かったことでしょう。

闇の夜の行く先知らず行くわれを何時来まさむと問ひし児らはも

 大伴家持が諳んじていた昔の防人の歌です。

2011年1月21日金曜日

大伴旅人と山上憶良(2)

 730(天平2)年冬、旅人は大納言を兼任して都へ帰ることになりました。おおぜいの大宰府の官人が水城のあたりまで送って来ました。馬をとめて振り返り、はるか太宰府の館を眺め、みなにも挨拶しようとすると、人々のかげに児島という遊行女帰もみえました。彼女は別れの歌を旅人に贈りました。

 凡ならばかもかも為むを恐みと振り痛き袖を忍びてあるかも

 ふつうのおかたならば、ああもこうもいたしましょうに、帥の卿では恐れ多くて、お別れの袖さえ振らずにおります、という意味です。旅人も答えました。

 大和路の吉備の児島を過ぎて行かば筑紫の児島思ほえむかも
 吉備の児島のあたりを通るときには、おまえを思い出すだろうな、という洒落です。
遊行女帰は、宴席にはべる女性です。遊び女ともいいました。宴には歌がつきものであるから、いつか児島のような素養がつくのです。

 山上憶良もやがて帰京し、まもなく死にました。733(天平5)年までの歌が知られています。病の床にあった憶良は、「沈痾自愛文」という長い文章を作り、苦しくて死にたいほどなのに、子供のことを思うと死ねないという歌なども書いています。

2011年1月20日木曜日

大伴旅人と山上憶良

 万葉時代の和歌のスターは、大伴旅人、その子の家持、柿本人麻呂、そして山上憶良でしょう。ここでは、大伴旅人と山上憶良について書きましょう。
当時、貴族の生活は都にあったばかりではありません。この時代の貴族は、一生の間に何度か国司として地方に赴任しなければなりませんでした。期間は、制度上は、6年、4年、5年と時々によって変わりましたが、平均すると2、3年だったようです。国司に律令が課した責務を率先して実行してゆく模範的な貴族がいた一方で、任地でも都と同じように優雅な生活を過ごす貴族もいました。とくに太宰帥のばあいは、次官の大弐以下多数の官人をしたがえていましたので、政務に追われるということはなく、比較的優雅な生活をしたようです。

 大伴旅人が大宰府の長として赴任したのは720年代の後半(神亀4、5年ころ)であったらしい。発令後、近国なら20日、遠国なら40日の装束仮という休暇がでて、出発の準備をしました。出発にあたっては、友人知己がかならず宴会を開いてくれました。後年、旅人の子家持が越中の国守に赴任したときは、妻の坂上大嬢と二人の子を都にのこし、妻の母である坂上郎女は枕辺に斎瓮を据えて無事を祈り、弟の書持は木津川のほとりまで馬で送りました。

 しかし、旅人は老妻と、晩年の子でまだ幼い家持たちを連れて大宰府に出発しました。途中の名所旧跡をゆっくりと眺めながら旅をし、任地に着くと、大宰府の館で宴会をひらきました。宴会はなにかにつけて開かれました。席上、当時の風習として、歌の応答があります。その場で自作を楽器で伴奏しながら歌うのです。できないひとは、おぼえている古歌を唱いました。唯一の楽しみは、酒を飲み、和歌をつくることだったかもわかりません。大宰府歌壇ができたことでしょう。
しかし、老いた旅人は、都を思うと憂欝だったようです。大伴家は武門であっために隼人の討伐に行かされたり、今回は60歳に近いにもかかわらず、遠く大宰府に赴任することとなりました。

 わが盛りまた変若めやもほとほとに寧楽の京は見ずかなりなむ。
酒の歌も作っています。
験なき物を思はずは一坏の濁れる酒を飲むべくあるらし
あな醜賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見れば猿にかも似る 酒を飲めない人には、痛烈です。

2011年1月19日水曜日

蝦夷と隼人(2)

しかし、元正女帝の養老4(720)年春、隼人は再び反乱を起こし、薩摩の東隣の大隅の国守を殺しました。その報が平城京に届くと、朝廷はただちに中納言大伴旅人を征隼人持節大将軍に任じ、副将軍二人をつけて派遣しました。

その秋、あたかも相呼応するかのように、陸奥でも蝦夷が反乱して按察使が殺されました。時節征夷将軍の率いる大軍が太平洋岸にそって北上し、時節鎮狄将軍の軍も日本海側から、蝦夷地へ進撃しました。東夷・北狄ということばもあるが、この場合も同じ蝦夷を東北地方東部のそれは夷、西部のそれは狄と区別したのです。

征夷将軍は、遣唐使の大任を果たして2年前に帰国した多治比県守でした。征討は順調で、斬首・捕虜合わせて1400余人と報告しています。その後しばらくは、東北・西南の地には、なにごとも起こっていません。

2011年1月18日火曜日

蝦夷と隼人

 いつの時代もそうですが、国というのは、常に拡大思考にあるようです。拡大思考がなくなると、その国は衰退に陥るように思われます。今の日本には、拡大思考がないように思われます。まだ、企業に拡大思考が残っているあいだに再び拡大に向かわねばならないでしょう。

奈良時代も土地や人民をふやしたいという朝廷の欲求は、東北の蝦夷、南九州の隼人に不穏な動きがあれば、ただちに大軍を派遣して鎮圧し、「調庸の民」、つまり朝廷に租税を納める民にくり入れるという方向をとりました。版図の拡大を図ったわけです。

709(和銅2)年春、左大弁巨勢麻呂を陸奥鎮東将軍、民部大輔佐伯石湯を征越後蝦夷将軍に任じ、東海・東山・北陸諸国の兵士をさずけて蝦夷征討に向かったのは、蝦夷が先に反乱を起こしたからではありませんでした。また、征討の兵は、行く先々で、兵を調達いたしました。平城京には、征討のための兵は、ほとんどいませんでした。

前年の秋、越後の国司が、その北方、まだ蝦夷の住んでいた地に出羽郡を新設し、越後国と同じような統治をしようとしたため、小競り合いが起こったのが原因でした。その程度の騒動でしたので、秋にはもう将軍たちは凱旋しました。そして3年後には、出羽郡に陸奥国の最上・置賜両郡(今日の山形縣の大半)を加え、出羽国を新設しました。

南九州の隼人にたいしては、かねてから太宰府を通じて同化政策をすすめ、ときには僧を送り込んで教化しようとしました。仏教を用いて、蝦夷や隼人をおとなしくさせようとしたのは、前世紀末の持統朝からでした。文武朝の頃には、西南諸島の遠く石垣島の人々にまで調をたてまつらせるほどになっていました。大宝律令の公布された初期のころは、薩摩地方の隼人たちは、しばしば反乱を起こして、西南諸島から帰りがけの朝廷の役人たちを殺したりしました。そのつど、朝廷は太宰府に命じて、軍を発して征討させました。蝦夷は平安の時代になっても、反乱が起こりましたが、隼人は、西の朝廷の大宰府があったために、蝦夷ほどには征圧に時間がかかりませんでした。隼人はその後、平城京での式典に幾何学模様の描かれた盾をもって参加しました。

隼人は、その後、戸籍を作り官吏を常駐させて、唱更国(意味不明)といいましたが、唱更国はその後、まもなく薩摩国と名を改めました。

2011年1月17日月曜日

和同開珎

 今日は奈良時代の通貨、和同開珎について述べたいと思います。奈良時代以前には飛鳥時代に、富本銭がありましたが、どの程度普及していたかまったく分かりません。奈良時代になって、和同開珎が作られました。

和同開珎が直径は2.4センチばかり、重さが3.75グラムの銅銭が出回っていましたが、同じ和同開珎でも、銀銭だと重さは2倍をこえる重さでした。

銀・銅の2種の銭貨が発行されはじめたのは708八年(和銅元年)でした。銀銭は翌年発行を中止しましたが、銅銭の方は760(天平宝字四)年の万年通宝に交代するまで大量に鋳造されました。奈良時代にはもうひとつ、765(天平神護元)年に神功開宝が発行されていますが、万年通宝も神功開宝も、和同開珎と通用期間や鋳造量をくらべると問題になりません。和同開珎は、今もなお、日本各地はもとより、遠くは8世紀の強国の渤海の東京城からも発見されています。

「和同開珎」を開珍とも読まれますが、開寶()とよむ説もあります。私たちが学んだころは、“かいほう”と読んでいたように思います。「和同」のほうも、中国の古典にみえる吉祥句(縁起のよいことば)を選ばれました。

708(和銅元)2月から、まず催鋳銭司を置き、5月には銀銭を発行、7月には近江国に命じて銅銭を鋳造させ、8月から銅銭を発行、翌年正月に偽造者は官有賎民にするとの詔をだし、3月には、銅銭四文を銀銭一文に相当させていたのに銀銭はオリンピック銀貨のようにみな使いたがらなかったため、四文以上の買物に銀銭を使えと命じ、8月にはついに銀銭を廃止してもっぱら銅銭にします。

各地の鋳銭司から送られてきた新銭を、発行するのはどういう方法によっていたのでしょうか。和同開珎発行当初の方法は、実はよくわからないのです。

711(和銅4)年は、朝廷が和同開珎を交換手段にするために乗り出した年です。発行後、当初はほとんど通用しませんでした。国の威信をかけて、通用させようとしたのです。5月に穀六升(米にすると現量約一升二合)を銭一文と定めたのは、もっとも有力だった交換手段である米にたいする挑戦でしたが、同10月には官人にたいする季禄の大半を銭で支給しました。しかし、官人にしても現物給与ならば、いちおうそのまま着たり食べたりすることができますが、銭貨は現物に交換しなければ役に立ちません。朝廷でも、銭貨などは見たこともないという国民が大半であるという実情は知っていましたから、同時にいわゆる蓄銭叙位法を制定しました。

六位以下の下級官人ならば、銭十貫すなわち1万文(1枚が一文)で位一階、初位以下一般庶民は5貫で一階、ただし、五位以上に位階が上がるようならば、別に考慮する、といっています。五位以上になると、給与が格段に増加するので、蓄銭者としては一時に大量の銭を献納しておけば、将来は有利になるためです。

こうして銭貨の放出と還流の大きな流れをつくり、翌11月には,すでに蓄銭していた人たちに、実際に位階を授けました。

712年の冬には、当時宮城や都城を造営するために雇役していた役夫にたいする賃銀も、銭で支払うことにしたようですし、諸国から都へ送ってくる調庸も、布一常(当時の一常72センチ幅のを四メートル弱)につき銭5文のわりで、銭で送るように命じました。銭の放出と還流の流れは、いよいよ拡大されてゆきました。

712(和銅5)年に命じたいわゆる銭調が、諸国からはじめて都へ送られてきたのは、722(養老6)年でした。そのとき送ってきた国は、伊賀・伊勢・尾張・近江・越前・丹波・播磨・紀伊など、畿内周辺の8カ国です。この範囲は、今日、和同開珎などを多く出土する地域と一致しています。

2011年1月16日日曜日

阿倍仲麻呂の和歌

 遣唐使のところで書きました阿倍仲麻呂の有名な歌があります。

あまの原 ふりさき見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも

 この歌は、古来、阿倍仲麻呂が長い唐での留学生活を終えて日本に帰国するときに送別の宴の席で詠んだということになっています。

 唐で詠んだ歌がなぜ日本に伝わったのだろうと不思議に思っていました。本人は、帰国の船が難破して日本に戻れなかったのです。それなのになぜ歌だけが日本に渡って古今和歌集(9-406)に選ばれたのか、不思議でした。

 最近、これに対する新説が出ています。溝口貞彦氏が「和歌詩歌源流考ー詩歌の起源をたずねて」の中で、これは紀貫之の創作で「土佐日記」の中で劇中劇として、仲麻呂の想いを感じて創作したというものです。

 ほんとうはどうなのでしょう。中学のころは、仲麻呂が唐に留学する折に宴会が開かれ、平城京から三笠山を見ながら詠んだ歌とばかり思っておりました。分かりやすい歌です。溝口氏のように後世のひとが詠んだとは、夢にも思いませんでした。しかも、紀貫之が。万葉集は、すべて万葉仮名で書かれています。土佐日記は、女性が書いたことになっていますので、基本的に仮名です。。万葉仮名ではありません。古今和歌集も万葉仮名では書かれていません。はたして、この歌は、万葉集の中に入っているのでしょうか。入っていないのでしょう。それゆえに溝口氏の説もなりたつのでしょう。いずれにしろ、早速、本屋に行って「万葉集」を買ってこようと思います。

2011年1月15日土曜日

メタボ対策

 日経新聞に目をとおしていますと、標題のことに触れていました。わたしも典型的なメタボですので、非常に関心があります。問題は、簡単なことですが、なかなか実行できないことです。書かれていたことを次に記します。

 大阪府立健康科学センターの西村節子栄養指導班長は、同センターでメタボ解消の保健指導を受け、半年後に4%以上の減量に成功した男性18人に聞き取り調査をしました。
成功要因はまず強い動機だそうです。「糖尿病になりたくない」、「娘の結婚式でかっこよく歩きたい」とかが書かれていましたが、これらは、わたしには強い動機にはなりません。すでに糖尿病ですし、娘も結婚しています。

 改善メニューに無理がないことが大事で、目標が高すぎると挫折しやすいので、がんばれば達成できる目標を立てるのがコツのようです。
体重をこまめに量るなど、家族と一緒にウオーキングするなど周囲の支えも重要だそうです。
体重を落とすには、摂取エレルギーを減らして消費エレルギーを増やす。これは、理論的には、単純なことですが、これがなかなか出来ないのです。体重80キロなら半年で4%減は3.2キロ。2ヶ月で約1キロ落とせばいい。1キロ減れば腹囲も1センチ縮む。食事や運動で体にため込むカロリーを今より毎日120キロ㌍削減するのが目標となりますと、あります。ご飯だと0.5杯分です。

 京都医療センター臨床研究センターの坂根直樹予防医学研究室長は、食べたいと思った食事と似ている低カロリーで健康的なメニューを選ぶ方法を勧めています。牛丼が頭に浮かんだら親子丼にする。トンカツではなくチキンカツ、そばなら具を天ぷらからわかめに変える。酒のつまみは上げ出し豆腐を湯豆腐に、鳥のから揚げを焼き鳥にするなどの工夫です。
どうしてもトンカツなど好きな物が食べたい時は量を減らし、キャベツはドレッシングではなくポン酢をかけるなど、カツ以外では油を控える。食パンを薄くしたり、マヨネーズ、ドレッシングなどを低いカロリータイプにしたりするのもよいとあります。これは、出来そうですが、これでも面倒です。

 また、メタボになると、金銭面でも損失が大きい。標準体形の男性が20㌔(女性は16㌔)太って糖尿病になると、患者一人あたりの年間の医療費が平均的な身長・体重の人の2.5倍になるそうです。仕事を休んで通院する損失や費用を加えれば負担はさらに増えます。

メタボ解消のための生活習慣改善のコツ
◆ その1…成功するための作戦を立てる
◆ その2…毎日記録をつける
◆ その3…周囲のサポートを得る
◆ その4…目標が続いた時のご褒美を自分にご用意する
◆ その5…コツコツ続ける

 まず小さな一歩から踏み出す。そして小さな成功を積み重ね、自信を高めていこう。なんとかいいながら、今年はメタボを解消したいものです。

2011年1月14日金曜日

菅氏の迷走発言(2)

 さらに、『いまや、“一兵卒”の小沢氏をめぐる菅首相のヒステリックな対応は異常です。この国のトップの精神状態はマトモなのかと、本気で心配しています。行政府のトップの首相が、司法にまかせるべき小沢氏の問題をことさら騒ぎ立て、ついには小沢氏の出処進退にまで介入してきた。小沢氏は有権者に選ばれた立法府の一員です。菅首相の頭の中は三権分立の原則すら理解できなくなっているのです』と書いています。

 01年まで民主党事務局長として、小沢合流以前の内部事情を見てきた政治アナリストの伊藤惇夫氏はこうも言っています。

 「小沢氏が加勢する前の民主党は、選挙は常に風にまかせ。偏差値エリートで自己出張の激しい議員ばかりで結束力はゼロ。まとめ役もいなくて、党内運営は学級崩壊状態でした。そこに、“体育会系”のノリで統制システムを持ち込み、常にグチャグチャだった民主党に一本、芯を入れたのが、小沢氏の最大の功績です」。

 さらに、「いま、民主党が小沢氏を失えば、自民党に愛想を尽かして民主支持に回った保守層がゴッソリ離れていくだけではありません。残された政治経験の薄い偏差値のエリート集団では、政治運営など不可能です。この国の政治は間違いなく大混乱に陥ってしまいます」。

 小沢氏を切り捨てれば、政権に残るのは幼稚園児のような未熟な集団のみです。よくいっても青二才です。

 「小沢追放」の大口を叩く前に、菅氏は地方選の一つくらい自力で勝ってみせろよと、政権交代を応援してきたマトモな庶民はそう思っているのだとも書いています。
BSキャスターで政治ジャーナリストの鈴木哲夫氏は、菅氏と小沢氏の会談で、こう言っています。
「小沢さんは自分のことや国内の問題だけではなく、もっと大きな理念の話をしました。菅さんとは次元が違いすぎて話が噛み合わない、言葉が通じないので仕方がない。こんな割り切りと達観の境地にいるのかなと感じました。

 小沢嫌いの新聞はやたらと「小沢が追い詰められた」と書いていますが、小沢氏の受け止め方が違うようです。「コイツはしょうがない」と菅氏にサジを投げたのです。小沢氏にはまだいくつもの“逆襲シナリオ”があるようです。

 まずは、いくら菅が吠えても無視するシナリオ。
「仙谷さんは、『出処進退は過去の例を参照しながら』と言っていますが、そもそも検察審査会による『強制起訴』は過去に例がないのです。今回は、『裁判で白黒ハッキリさせろ』という意味での強制起訴です。それで離党や議員辞職を迫るのはムリがある。勧告決議には高いハードルがあるし、小沢氏も動かないでしょう。

 小沢邸で行われた元日の新年会には、120人の国会議員が集りました。
菅サイドは、一兵卒の小沢の元にこれだけの人数が集ったことに焦りまくっているようです。
“ウルトラC“の切れ札もあります。ズバリ、小沢の単独離党です。
「小沢氏が離党すれば、菅首相は何にも手出しできなくなる。グループの結束が固ければ、党の外から仲間の議員たちに指令を出せる。彼らが行動を起こせば、『内閣不信任案』も通る。

 小沢氏は党外からフリーハンドを操りながら、裁判で無罪になった後、民主党に戻ればいいのです」。選挙で揺さぶる“奥の手”シナリオもあります。地方選挙で連戦連敗の菅-岡田執行部、13日の党大会で血祭りにあげられるに間違いない。小沢氏の強みは地方組織と民主党の最大の応援団「連合」を押さえていることです。両者がタッグを組んでノロシをあげれば菅執行部はグラグラになるでしょう。

2011年1月13日木曜日

菅氏の迷走発言(1)

 政治について書くのは、やめにしようと思いましたが、やはり書かざるを得ません。残念なことです。国民が何をやってほしいかを菅氏はまったく分かっていないようです。菅、仙谷、岡田、枝野、野田、みんな分かっていません。

 ところで、驚いたことに、菅首相が1月4日の年頭会見で、小沢一郎元代表が収支報告書虚偽記入事件で強制起訴された際には、「出処進退をしっかりして、裁判に専念すべきだ」と求めました。すなわち、小沢氏に事実上の「議員辞職勧告」突きつけたわけです。もっと政治に集中すべきときにです。多くの国民が、菅氏と小沢氏の争いは見苦しいといっています。小沢氏は、何も言っていませんから、菅氏が一方的に喧嘩を売っているわけです。

 この間まで菅氏は、「小沢さんは国会で説明を」と繰り返し要求して来ました。そこで小沢氏は年末の28日に、政論審出席を承諾しました。これで十分ではないかというわけです。

 小沢氏は政論審を受け入れれば、続いて証人喚問や辞職勧告決議が起こる危険を承知で、菅氏に協力したのです。それなのに、同じ政権交代を成し遂げた仲間を政界から追放しようとは、菅氏には血も涙もない。人間のやることとは思えないと日刊ゲンダイなどは、書いています。わたしは、大新聞も読みますが、タブロイド版の新聞も見ます。これらの新聞は、短い内容で正鵠を得ているようです。

 菅氏の「辞職勧告」を受け、さすがに小沢氏も「首相は国民のために何をやるのかが問題で、私自身のことは私と国民が判断し、裁いてくれる」とアキれていました。この不況下、国民のために急がなければならない仕事は他に山ほどある。そこがまったくわかっていないのです。

 日刊ゲンダイは、さらに『この2年間、警察と大新聞はグルになって、小沢のカネの問題を追及してきた。いや、佐川疑惑や新生党解党時の資金問題までさかのぼれば10年以上の追及だが、小沢を断罪できるネタが結局、何も出てこなかった。

 09年3月に西松建設のダミー献金事件で、当時の公設第1秘書だった大久保隆規が逮捕された。さらに、昨年1月に石川知裕衆院議員を含む元秘書3人が逮捕されると、大新聞は検察のリーク情報に乗って「水谷建設からの裏ガネ疑惑」を書きたてた。

 しかし、西松ダミー献金事件は今や訴因変更で裁判が維持できないありさまだし、水谷建設からの裏ガネ疑惑もいい加減なものと分かり、小沢本人をはじめ、誰ひとりとして犯罪として摘発されることはなかった。検察の完敗だった。

 石川らが起訴されたのは、政治資金収支報告書の「期ズレ」というイチャモンのような微罪だけ。こんな国民生活に何の関係もないチンケな罪で、小沢も強制起訴されるわけだが、それとてシロウト集団の検察審査会が「とりあえず裁判をやれば」とテキトーに決めたもの。裁判が始まれば「小沢無罪」が、司法関係者の共通認識である』と書いています。

2011年1月12日水曜日

東野圭吾の「秘密」(2)

1999年の映画化では、藻奈美を広末涼子、平介を小林薫、直子を岸本加世子が演じました。2010年のテレビ化では、藻奈美を志田未来、平介を佐々木蔵之助、直子を石田ひかりでした。時間の長さにも相当の違いがあるので、出来栄えを云々いえませんが、志田未来の演技は、すばらしかったと思います。藻奈美役、直子役を見事に演じていました。

さて、この「秘密」について、人気のある作品でしたので、投稿もたくさん寄せられています。

『実は感動の家族愛の話ではない。娘の体に乗り移り一方的に若返ったために、最早夫婦と

最初はなんとか普通の生活をするように努力した。しかし妻の心を持つと言えども、娘の体を持つ以上夫はセックスを出来ない。二人はまだまだ寿命までは長く、過去に夫婦だったからといってこのまま中途半端な関係のまま年をとるのは現実的な選択とはいえない。まして娘に戻った妻はかなり若いので、このさき夫が年をとり死んでいったとき家族もないのに一人きりになってしまう。

まして娘に戻った妻はかなり若いので、このさき夫が年をとり死んでいったとき家族もないのに一人きりになってしまう。

過去の自分には戻れないし、かといってこのままでは自分の老後の将来はない。自分の体は娘で夫もしセックスも含めた家族生活が出来ていたら、妻の選択は違ったものになったかもしれない。道徳的・生物的な問題はおいといて、子供を残し改めて家族を作るという選択肢もありうる。

それはとても現実的な決心であり、それをするための作戦を注意深く考えた。夫をあまり傷つけることなく、なおかつ夫の嫉妬からくる干渉を避け、自分の将来を見据えた人生を歩むための計画を。最後にばれたとしても、結婚してしまえば流石に夫も諦めがつくだろう。

 夫を嫌いになったわけではない。だが現実的な選択をしたのだ。そのために膨大な努力をした。多分女の人ならばこれを理解する人もいるのではないか』など。

結局、何が秘密だったのでしょうか。直子は藻奈美の体を借りて、生まれ変わって来ましたが、結局は、戻ったのは、直子のみだったのでしょう。藻奈美が出現したように直子は、平介を信用させたものと思います。

たしかに平介と藻奈美(心は直子)が、これからも一緒に生活することは、難しかったでしょう。しかし、二人が成長してゆけば、見た目は問題なかったはずです。そして、養子をもらうなども出来たでしょうが、直子は、早々と男性を見つけて結婚しました。「秘密」を知った平介には、残酷です。今から藻奈美の中学時代の橋本多恵子先生を追いかけるわけにもいかないでしょう。結構、残酷な話です。

2011年1月11日火曜日

東野圭吾の「秘密」(1)

 0時をまわってからのテレビ番組でしたので、ビデオに録って観ました。たしか9回か、10回に分けて放送されたと思います。この推理小説は、1999年に第52回日本推理作家協会賞を受賞し、映画化されています。映画化されたものも昨年末に放送されました。2作を見て、すっきりしなかったものですから、結局、原作を読むことにしました。文春文庫で発行されています。

内容は、杉田平介の妻の直子と娘(小学校4年生)の藻奈美が乗ったスキーバスが崖から転落しました。直子はガラスの破片などが心臓近くに突き刺さるというものでしたが、直子はしっかり娘の藻奈美を護っていました。そのために藻奈美は、大事故のわりに体になにひとつ傷がありませんでした。

そして、病院に運ばれた直子が息を引き取る一方、意識不明だった藻奈美は命を取り留めました。直子の葬式の夜、藻奈美は意識を取り戻しますが、娘の体に宿っていたのは、信じられないことに死んだ妻の直子でした。世間的には、妻を失った親子という関係を保ちながら、二人だけの"秘密"を胸に「娘との夫婦生活」が始まりました。

 やがて、40歳の直子は17歳の娘になったことでそのギャップに戸惑いながらも、もう一度10代をやり直すことに新鮮さを感じます。不思議なことに理数が苦手だった直子は、藻奈美の身体では、理数も優秀でした。結局、大学は医学部に進みます。一方、平介は、この秘密がバレないかという不安に包まれながら妻を見守っていました。

2度目の青春を謳歌する直子に対し、平介は疎外感に暮れます。娘と妻に対する嫉妬心で娘の電話に盗聴器まで仕掛けます。二人の想いがすれ違う中、平介と直子はどうしても越えられない壁に行き詰ってしまいます。やはり夫婦として愛し合うことができないのか。一度は、こころみます。しかし、こころは妻でも肉体は娘です。とうとうあきらめます。

 時が過ぎていくうちに、だんだん藻奈美の魂が戻り始めて来ます。直子が眠ると次には、藻奈美が現れるようになります。出てくる時間も藻奈美の方が長くなります。しかし、直接、直子と藻奈美は、話せないようで、コミュニケーションの手段として、手紙をお互いに書いているようです。

 そして、藻奈美が「明日、横浜の山下公園に連れて行ってくれ」と言います。山下公園は、平介と直子が最初にデートに行ったところです。翌日、山下公園で、直子は、「これからは自分はもう出てこれないと思う」と言い、別れを告げます。

 藻奈美は、結婚します。その結婚式の日に、平介は、一度、懐中時計の修理に訪れたことのある時計店に行きます。そうすると、店主が、「内緒にしてくれと言われていたが、藻奈美さんの結婚指輪を直子さんの指輪で作り直した」と言います。これを聞いて愕然とします。この指輪は、直子がテディベアのぬいぐるみの中に縫って隠していたものです。藻奈美が知るはずもないのです。

 平介は、結婚式場に行って、藻奈美に確認しようと思いましたが、あきらめます。直子が認めるはずがないのです。

 花婿に「2発なぐらせろ」と言います。「1発目は娘をとられた分だ。2発目は、もうひとりの分だ」。

2011年1月10日月曜日

平城遷都1300年物語(16)

 この政治的空白期に登場したのが、皇族の橘諸兄でした。諸兄は美奴王と橘美千代との間に出来た子でした。美千代は、美奴王と離婚し、不比等の妻となりました。当時でもこのような大胆な離婚劇は珍しいものでした。不比等の強引さが目に余ります。

諸兄は光明皇后異父兄妹にあたりますが、彼は、大唐から帰国した吉備真備や玄昉といった知識人をブレーンに登用して政治を進めました。

そうこうしていると、ブレーンとして政治を左右するようになった二人を憎んで、藤原広嗣が九州で反乱を起こしました。広嗣は、藤原四兄弟のうち、式家を興した宇合の嫡男でした。宇合は遣唐使の副使として唐に渡ったり、蝦夷の征伐でも大きな貢献をしました。この広嗣は、橘政権と対立して、太宰少弐として九州の大宰府へ飛ばされてしまい。中央政界から離されていました。

これを怨んだ広嗣は、天平12(740)8月、朝廷に上表文を差し出し、玄昉と吉備真備の非道を説き、政権から排除するよう要求しました。そして、その返事を待たずに挙兵しました。ただちに征討軍を構成し派遣しました。征討軍は福岡の板櫃川で広嗣と対峙しました。しかし、凡庸な広嗣は戦をすることもなく、その場から逃れ、船で唐を目指しました。済州島まで近づきながら、烈風に吹き戻されて、五島列島で捕縛され、斬首に処されました。

広嗣の乱には、聖武天皇もこたえたようです。この乱の最中、聖武天皇は突然東国に行幸すると言い出し、その後5年間ちかく、各地に都をつくっては転々として過ごし、平城京に戻りませんでした。

この数年間の彷徨の時代、聖武天皇は各地に七重塔をもつ壮麗な国分寺と国分尼寺、さらには紫香楽宮に大仏を造りはじめています。

さらに悪いことには、聖武天皇の治世は、自然災害や伝染病が頻発しました。そして、このたびの反乱です。「こうした現象が起こるのは、統治者に人徳がないからだ」という考え方が、唐から日本に伝わっていました。聖武天皇はこれを信じ、人徳のない自分を鑑みて、仏教の力にすがろうと仏教の興隆事業を大々的に展開したのです。当時は、仏教は国を平安にするという「鎮護国家」の思想が存在していました。

2011年1月9日日曜日

平城遷都1300年物語(15)

 元明天皇が藤原京から平城京に遷都したのは、和銅3(710)年のことです。以後、桓武天皇が長岡京に遷都するまでの70余年間、都が奈良の地にあったことから、この時代を奈良時代と呼びます。

そして、奈良時代のはじめに政治権力を握っていたのは、大化の改新で活躍した中臣鎌足の息子の不比等た。平城京への遷都も彼の主導のもとに断行されました。この遷都は、藤原氏のために行われた感があります。

 不比等は藤原氏の繁栄のため、自分の娘の宮子文武天皇の夫人とし、宮子の妹・光明子を、文武と宮子の間に生まれた首皇子(聖武天皇)の妻としています。しかしながら不比等は、首皇子が既位するのをみることなく、養老4(720)年に死去しました。 

 これにかわって藤原氏と関係の深い皇族が台頭しました。それが、長屋王です。長屋王は天智天皇と天武天皇の孫にあたる毛並みの良さです。父は、壬申の乱で大活躍し、大海人皇子に勝利をもたらした高市皇子です。そして、長屋王は右大臣となって政権を担当しました。儒教的な教えで政府を導きましたが、堅苦しく、既位した聖武天皇との間には、すきま風が吹いていました。聖武天皇は、体も丈夫でありませんでした。父の文武天皇も早くに亡くなりました。そして、聖武天皇は、1歳にも満たない子を皇太子としましたが、この子が1歳を待たずに亡くなりました。。

そういう中で、不比等の四子(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)も政治力を持ち始めていました。そして、長屋王政権を揺がす大事件が起こりました。

 神亀6(729)年、「長屋王が謀反を企んでいる。亡くなった皇太子も長屋王の呪詛によるものだ」と密訴する者が出ました。

 この訴えを受けて、藤原四兄弟が兵で王の邸宅を包囲しました。もはやこれまでと悟った長屋王は、無念の涙を飲んで妻子とともに自害して果てました。これらは、藤原四兄弟によって仕組まれたものでした。

現代の発掘によって長屋王の邸宅あとからは、膨大な木簡が発見されましたが、この木簡からは、当時の貴族の豪勢な生活がみてとれます。夏に冬に凍らせていた氷室から氷を切り出して、今でいうカクテルのようなものを飲んだり、あわびその他の海の幸もふんだんに食していたようです。

いずれにしろ、藤原四兄弟は、光明子を念願の皇后(光明皇后)に据え、政治権力を掌握しました。光明子は、父の不比等に似て、かわいらしさのない強い女性だったようです。聖武天皇は、夜、光明子の部屋には行かなかったようです。精神的に脆い聖武天皇は、優しい女性を好んだのでしょう。

権勢をわがものにした藤原氏も、それから十年も経たない天平9(737)年、四兄弟はみな天然痘に罹患し、全員があっけなく死んでしまいました。運命とは、皮肉なものです。

2011年1月8日土曜日

平城遷都1300年物語(14)

遣渤海使

 遣唐使ほどには、歴史で語られませんが、渤海からの使節もよく日本に来たようです。このときに日本は、宗主国のような感じでした。渤海は、朝鮮半島の三国志時代の高句麗の北の方にありました。当時、8世紀だけでも、次のように多くの使節が来朝し、帰国時には、日本から遣渤海使が同行しました。回数的には、遣唐使よりもはるかに多いものです。

渤海は、かなり反映しており、NHKの番組でも報じられていましたが、残念ながら、当時の渤海の領土の多くが、ロシア領になっており、発掘もままならないようでした。したがって、渤海は、謎の多い国になっています。

しかし、当時の日本にとって、渤海は唐・新羅に対する国防上の点からも有利と思われたでしょう。また、かつて同様な事情から友好関係にあった高句麗の後継者とみなし、渤海使を厚遇しました。日本では渤海といわずに、高麗(高句)とよんだことさえありました。

唐に渡った多くの留学生、学問僧は、自費で帰国する際に新羅経由で帰国せずに渤海経由で帰国するひとも多かったようです。渤海のあったロシア領からは、文献などがほとんど残っていませんので、どこまで解明できるか分かりませんが、明らかになることを期待します。しかし、わたしの感覚では、高松塚のような装飾古墳に影響を与えた、あるいは指導した高句麗よりは文化の程度は低かったように思われます。


2011年1月7日金曜日

平城遷都1300年物語(13)

遣唐使(9)

 それでは、遣唐使がどのような構成でどのような手当てをもらって出かけたのか。手当ては、出発前に支給されました。この世の最期と思い、渡航する前に使ってしまった人もいるでしょうし、唐に渡ってから経やさまざまな書籍、絵画を買うために持っていった人もいるでしょう。ここで面白いのは、船長の手当てと神主、医者、画家などと手当てが変わらないことです。また、留学生、学問僧にも与えられましたが、その手当ては、船長の倍以上にもなったのです。唐での滞在費、勉強の費用なども入っていたのでしょう。さらに従者にも手当てが渡されていました。阿部仲麻呂は、羽栗吉麻呂という傔従を連れていっています。宝亀の遣唐使の出てくる准判官羽栗翼とその弟翔とは、吉麻呂が唐の女性と結婚して生んだ子です。

勝宝の副使大伴古麻呂が、日本の対面のためにがんばったことは、先に書きました。再度書きますと、勝宝の遣唐使一行は年内に長安につき、元旦の朝賀をはじめ、7日の大明宮含元殿における諸蕃の朝賀にも出席しました。玄宗が臨御し、百官が居並ぶなかに唐と交渉のあるすべての国々の使人が参列します。その席次の問題でした。会場係の将軍呉懐宝が用意した席次は、東畔(東側)の第一席に新羅、第二席に大食、西畔の第一席に吐蕃、第二席に日本という順でした。席次をみるや大伴古麻呂は呉将軍に抗議しました。

「昔から新羅は日本に朝貢している国である。しかるに日本より上席にすえるとは、道義にそむくではないか」。

呉将軍は古麻呂の顔色が変わっているのをみて、新羅の使人に因果をふくめて、席を交代してもらうことにしました。

これは、無事帰国してからの古麻呂自身の報告ですので、多少の尾ひれがついているかも分かりません。ともかく副使の古麻呂は、抗議ができるほどには唐語が話せたのでした。

古麻呂は大学寮に勤めていたころ、天平の遣唐使に加わったのですが、このことは、あまり知られていませんが、石山寺所蔵の遺教経の末尾には、陳延昌という唐人が、「この大乗の経典は、大学寮の朋古満が、開元22(734)28日、京を発つ日に記した」と書いてあります。朋古満は、大伴古麻呂のことで、在唐中に唐人と親しくしており、仏教にも深く関心を寄せていたのでした。

後年、勝宝の遣唐使に副使として、ふたたび入唐した帰途、大使清河以下の使人たちが唐の官憲に遠慮して鑑真一行の便乗を拒否しましたが、かれ一人は、ひそかに鑑真一行を自分の船に乗せて、ついに日本へ招いたという事件は著名です。これは、かれの仏教に対する帰依の心から出たものと思われます。

遣唐使は、アジア諸国からの使人が唐都に一堂に会する正月に間に合うよう、その前年の夏に出航していました。

留学生は、一行とともに日本に戻らず、唐へのこると、帰国には自ら旅費を調達せねばなりませんでした。僧ならば途中で布施を受けながら、渤海から新羅と、遠い路を迂回しないかぎり、次回の遣唐使を待たねばなりませんでした。

留学生・学問僧の在唐年数

留学生は、諸外国からの留学生と同様に、唐朝の方針で衣食を支給されていましたが、学問僧は勉学の便宜を受けるだけで、9世紀までは配属されていた寺で面倒をみてもらうか、布施を受けていたようです。



2011年1月6日木曜日

平城遷都1300年物語(12)

遣唐使(8)~阿倍仲麻呂(5)
 第12次遣唐使が組織されたのは、宝亀6(775)年のことでした。再び清河を迎える目的で、遣唐使が組織されました。翌年6月、遣唐使は唐へ向いました。
 だが、石根が唐に着いたとき、すでに清河死んでいました。
 じつは、渤海の使節に手紙を托してまもなく死去してしまったのです。年齢は73歳だとも50代後半だとも言われています。
 なお帰路ですが、第二船と第三船は無事に日本に到着しましたが、第四船は済州島に漂着して現地人に襲撃され、荷は略奪され、半数の乗組員が殺されたり拉致されました。
 第一船はさらに悲惨で、荒波によって船が海上で真っ二つに割れてしまい、副使の小野石根ら38人と唐人25人が水死しました。
 残った人々は、船の残骸につかまり、奇跡的に薩摩にたどり着きました。
 この中に喜娘という女性がいました。なんとそれは、清河の娘だったのです。清河は唐で所帯を持っていたのです。ただ、その後、喜娘がどのような人生を送ったかは、記禄に一切残っていません。
 仲麻呂はその後、鎮南都護、安南節度使と唐の重職をつとめましたが、第12次遣唐使を待つことなく、清河に先立つこと三年、770年に死去してしまっていたのです。

2011年1月5日水曜日

平城遷都1300年物語(11)

遣唐使(7)~阿倍仲麻呂(4)
 清河や仲麻呂の消息は、渤海の使節によって日本に伝えられました。渤海の使節は藤原清河の書簡を携えていました。これにより、行方知れずになり、おそらく死んだものと考えられていた清河が唐に戻っている事実を朝廷は把握しました。
 藤原仲麻呂と光明太皇はこの事実を知って、大いに喜びました。急遽、藤原氏のホープを迎えるため、朝廷は高元度を迎入唐大使とする使節団を編制し、渤海使楊承慶の帰国に同伴させ、同国を経由して入唐させることにしました。
 遣唐使が日本海経由で入唐するのは、このときがはじめてでした。
 ちょうど唐は、安禄山の乱以後の争乱状態にあり、99人の使節が大挙して唐へ押しかけると、殺されてしまう危険もあると考え、人員をリーダーの高元度をはじめとする11名に縮小して、渤海賀正使楊承慶に随行して入唐させました。
 だが、時の粛宗皇帝は「河清は唐の貴族であり、私の寵愛している者である。まだ戦乱がおさまっておらず、彼を帰国させる時期ではない」と高の要求を拒絶しました。「河清」とは藤原清河のことで、清河は唐に戻った後、名を中国風に改め、唐の官僚として活躍していたのです。
 清河を帰国させてほしいと願うと、「まずはお前が先に帰国するがよい。なお、戦乱のために武器が多く失われてしまった。次に使節をよこす際、弓をつくるための牛の角を贈ってほしい」と逆に依頼される始末でした。
 このため、高元度は使命を果たせないまま、日本へ帰国しました。
 天平宝字5(761)年8月、高元度は平城京に戻り、すべての顛末を報告しました。このとき光明皇太后と清河の実母は、すでにこの世の人ではありませんでした。

2011年1月4日火曜日

平城遷都1300年物語(10)

遣唐使(6)~阿倍仲麻呂(3)
 753年元旦、宮殿において玄宗皇帝の朝賀儀式が執行されました。ちょうど新羅の使いも入唐していましたが、この儀式における席次をめぐって、日本側は非常に腹を立てました。
日本の席次は西畔(西列)第二の吐蕃(チベット)の次でした。ところが新羅は、東畔(東列)第一の大食国(アッバース朝)の上だったのです。
 堪えきれなくなった副使・大伴古麻呂は、「昔から新羅はずっとわが国に朝貢してきている。しかるに日本がその新羅より下に位置するのはおかしい」と抗議したのです。
 これを耳にした将軍呉懐実は、日本と新羅の位置を入れ替えました。古麻呂の気概によって、日本が面目を保ち得た瞬間でした。
 玄宗皇帝は、遣唐使大使の清河を特進という正二品にあたる地位に任じました。古麻呂も従三品に相当する地位を得ました。これは、阿倍仲麻呂の助力によるものだといわれています。
 仲麻呂は、今回玄宗に帰国の意志を告げました。すでに入唐してから30数年、仲麻呂も初老を過ぎていました。さすがに哀れに思ったのか、ついに玄宗は、仲麻呂の帰国を認めました。
仲麻呂はあくまで静かに受けましたが、心の中では狂喜したに違いありません。
 753年10月、仲麻呂は、藤原清河とともに唐を後にし、途中、鑑真たちと合流して蘇州へ向いました。
日本へ向けて出発する直前に、人々が送別の宴を開いてくれました。このおりに詠んだ歌が、
天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも
 です。『古今和歌集』にも記載され、百人一首にも載る有名な和歌です。ちょうどその夜、美しい月がのぼり、それを見て故郷の春日山に出る月を想ったのです。
 16日に遣唐使船団は出立したが、風のために進度がバラバラになってしまいました。阿倍仲麻呂と藤原清河を乗せた第一船は、ついに日本の地に到達することはありませんでした。
航海中にすさまじい逆風に遭い、どんどんと南へ流されていき、ついに大陸に戻され、驩州(現在のベトナム北部)に漂着したのです。
 遣唐使一行が上陸してホッとしていると、いきなり現地人が襲いかかってきました。彼らは平然と日本人を殺戮し、船を破壊しました。このとき清河と仲麻呂は、部下にまもられ命からがら逃げのびました。なんと乗員組170人あまりが殺害され、助かったのは清河と仲麻呂らわずか10名程度でした。
一行は苦労して、755年、ようやく長安に戻ることができました。

2011年1月3日月曜日

平城遷都1300年物語(9)

遣唐使(5)~阿倍仲麻呂(2)
 第8遣唐使が迎えにきたとき、すでに彼は唐の女性と結婚して子供もいました。相当に早い国際結婚です。このため、弁正は帰国を固辞し、かわりに中国で生まれた息子の朝元を日本へ遣しました。この少年も親に似て有能だったようで、朝廷から秦忌寸という氏名を与えられ、次の遣唐使のさい、外交官として入唐することになります。
 阿倍仲麻呂は最高学府で学問を学び、やがて科挙に挑戦しました。科挙は、唐の官史登用試験のことです。その倍率は3000倍ともいわれる、驚くべき難関試験でした。科挙のなかでも、進士科の試験は最難関でした。科挙の平均合格年齢は30代後半、進士科になると、50歳で合格しても若いほうといわれました。
 そんな進士科の試験に、仲麻呂はなんと、20代後半で見事に合格したのです。まさに天才的頭脳の持ち主だったといえます。
 仲麻呂は、官位も正九品から従五品にまで昇進。ちょうどそんな734年4月、玄宗皇帝が滞在していた洛陽に十年ぶりに遣唐使が姿をみせました。
 この遣唐使の中には、先の弁正の息子秦忌寸朝元が含まれていました。
 玄宗皇帝は、遊び仲間だった弁正の子が外国の高官に出世して戻ってきたので、これを大変喜び、朝元を優遇するとともに、遣唐使たちもこれまで以上に厚遇しました。莫大な文物を与え、中国人の学者や僧侶、インド人の僧侶など、すぐれた人材を日本へ伴うことを許可しました。
 このとき玄昉や吉備真備ら留学生たちも帰国を果たしています。
 当然、仲麻呂も玄宗皇帝に帰国の希望を申し出ました。
 しかしながら玄宗皇帝は、最後まで首を縦に振りませんでした。この34歳の逸材を失うのは、あまりに惜しいと考えたのでしょう。このとき仲麻呂の従者であった羽栗吉麻呂は、翼と翔という二人の息子とともに日本に帰国しています。仲麻呂は、ますます寂寥感にさいなまれたことでしょう。
 仲麻呂は、漢詩の分野でも卓超した才能を示し、王維や李白といった当代きっての詩人たちとも親しい間柄にありました。
 そして、待ちに待った帰国のチャンスが、それから十数年後に再びやって来ました。
天平勝宝2(750)年、第10次遣唐使が編制されたのです。
 このとき接待係になったのが、朝衡という高官でした。じつは朝衡とは、かつての阿倍仲麻呂でした。名を中国風に変え、玄宗皇帝の側近となっていたのです。

サムソンはなぜ赤字なのか(3)

次世代の有機EL(エレクトロ・ルミネッセンス)テレビも同様で、有機ELは、テレビをより薄くするのに有効な技術とされてきました。

ところが「薄さ競争」が進展し、すでに厚さが1cmを切る液晶テレビまで登場しました。「これ以上、薄くする意味があるのか」と、有機ELテレビの事業性に疑問を呈する声も出ています。個人的には、有機ELテレビをどこまで本気でやるのか、疑問に思っていました。

そして、開発競争は消費者の求めるレベルを超えつつあります。もはやテレビの付加価値を高めることのできる新技術はなかなか見当たらない。それゆえ、テレビ価格の下落はと止まらないと書かれています。

パナソニックの大坪社長は薄型テレビを電機メーカーの「顔」と表現しています。消費者は毎日、リビングルームなどでテレビを目にします。それゆえ、テレビは消費者とメーカーの重要な接点であり、撤退してしまえば顧客とのつながりが損なわれてしまうという考え方です。たしかに、電子レンジや洗濯機、掃除機は、日に1度も使わないことがあるでしょうが、テレビは見るともなしに電源を入れてしまいます。

20117月には、地上波放送が完全デジタル化するのに伴って、薄型テレビの買い替え需要が一気にしぼむことが確実視されています。しかし、他社はどうあれ、自社は生き残ると、各社とも限界まで踏ん張る覚悟のようです。記事では、消費戦は果たしてなく続くと書いていますが、各社とも力押しで戦略がないように思います。日本メーカーには、携帯電話と同様に勝ち残ってほしいものです。