2011年12月11日日曜日

佐野眞一の津波と原発(17)

原発には唄も物語もない

佐野氏は、いわき市内のホテルで現在も福島第一原発で働く労働者に会いました。東電の協力会社に所属する彼の年齢は50歳少し前で、311当日は、第一原発のC区域で働いていました。

福島第一原発で再び働きだしたのは、320日過ぎでした。

「とにかく人手が足りないというので行った。給料? 120万という話しもあったが、あれは爆発直後の話だと思う。事故前より5000円ほど上がって、12万弱ってとこかな。

地震後、初めて原発に入ったときは目を疑いました。特に支柱がむき出しになった一号機と三号機の無残な姿を見たときは、足ががくがく震え、避難所にいる母親の顔が浮かんで、目頭が熱くなりました。敷地はどこも瓦礫が散乱し、消防車などの車が10台以上ほったらかしになっていた。地面には、津波で打ち上げられたボラやスズキが散乱していました。

原発に向かうバスに乗り込む前は、必ずタバコを一服します。心を落ち着かせるためですが、一服していると、これが最後の一服か、と思う瞬間がありますね。

作業は暗い建屋の中で、しかも放射線量が高い水溜りに入り、ヘッドライトで照らしながらやります。とても緊張します。室内は暑く、マスクはすぐ曇るので、視界をよくするため、マスクを外したいのですが、外すと内部被曝してしまうので、それもできません。

いまいる作業員の多くは、被曝量がもう限界です。全国から経験者を集めています。柏崎や東海の人が多いですね。最近は九州からもかなり来ているようです」

0 件のコメント: