2011年1月22日土曜日

防人とその母


 防人が東海・東山諸国の兵士たちのうちから選抜され、壱岐・対馬など九州北辺の防備に配属されていたことも、よく知られています。職員令によると太宰府の防人司が指揮し、軍防令では勤務期間が三年とされていました。

738(天平10)年夏、東国の防人を北九州から引き上げ、九州の兵士に北辺を防備させたことがあります。前年秋の詔の実施でしたが、おそらく当時、北九州から畿内にかけて大流行をしていた天然痘のための臨時措置であったでしょう。防人の部隊の帰郷にあたって、沿道の諸国は、規定により一人一日あたり稲四把(現量米約8)、塩二勺(現量約0.8)の食糧を支給し、正税帳という国衙財政の報告書にその旨を記入しました。

東国の人たちを、なぜ遠い北九州の防備に使ったのかということについては、古くから、いろいろの説があります。東人の勇敢さという面が強調されているけれども、じつは被征服者のなかの支配層からは人質をとり、勇敢な戦闘員は他国へうつすという、大和国家以来の朝廷の政策によったのでしょう。東国は56世紀の大和朝廷に征服されましたが、常陸以遠の蝦夷は8世紀にも征討され、降伏者の一部は俘囚として西国へ移住させられていました。東国の人たちが、西国・九州へ送られると、ことばも通ぜず、逃げ帰ることもできなかったのです。防人に徴集される人々の心は重かったことでしょう。

闇の夜の行く先知らず行くわれを何時来まさむと問ひし児らはも

 大伴家持が諳んじていた昔の防人の歌です。

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