2011年1月8日土曜日

平城遷都1300年物語(14)

遣渤海使

 遣唐使ほどには、歴史で語られませんが、渤海からの使節もよく日本に来たようです。このときに日本は、宗主国のような感じでした。渤海は、朝鮮半島の三国志時代の高句麗の北の方にありました。当時、8世紀だけでも、次のように多くの使節が来朝し、帰国時には、日本から遣渤海使が同行しました。回数的には、遣唐使よりもはるかに多いものです。

渤海は、かなり反映しており、NHKの番組でも報じられていましたが、残念ながら、当時の渤海の領土の多くが、ロシア領になっており、発掘もままならないようでした。したがって、渤海は、謎の多い国になっています。

しかし、当時の日本にとって、渤海は唐・新羅に対する国防上の点からも有利と思われたでしょう。また、かつて同様な事情から友好関係にあった高句麗の後継者とみなし、渤海使を厚遇しました。日本では渤海といわずに、高麗(高句)とよんだことさえありました。

唐に渡った多くの留学生、学問僧は、自費で帰国する際に新羅経由で帰国せずに渤海経由で帰国するひとも多かったようです。渤海のあったロシア領からは、文献などがほとんど残っていませんので、どこまで解明できるか分かりませんが、明らかになることを期待します。しかし、わたしの感覚では、高松塚のような装飾古墳に影響を与えた、あるいは指導した高句麗よりは文化の程度は低かったように思われます。


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