2011年1月2日日曜日

平城遷都1300年物語(8)

遣唐使(4)~阿倍仲麻呂
 遣唐使として唐に渡ったひとの中で、有名な人に触れましょう。まず阿倍仲麻呂です。仲麻呂は、中級貴族である阿倍船守の子として生まれましたが、霊亀2(716)年に遣唐留学生として唐へ渡ることになりました。まだ17歳の若者でした。今で言えば、アメリカに留学するようなものでしょうが、危険ははるかに高く、その分、帰国した場合の身分は保証されていました。
 この遣唐使は、いわゆる第8次遣唐使です。
 副使は藤原朝臣馬養でした。この藤原馬養は宇合ともいい、不比等の三男で式家の祖です。出世が約束された藤原兄弟にあって、なかなか勇気もあったようです。
 このとき渡海した人物としては、有名な吉備真備や玄昉がいます。総勢は557人でした。養老元年に出発した遣唐使船4隻は無事に中国大陸に到着し、同年10月に唐の都の長安に到着しました。
留学生としてやってきた阿倍仲麻呂は、遣唐使とともに帰還せず、唐に残って勉強を続けることにしました。日本の留学生は、ごくわずかで、このとき残ったのは、吉備真備や玄昉、井真成などを含めて10数人程度でした。
 そうした中で、唯一唐の最高学府・国子監に属する「太学」で学ぶことができたのは、阿倍仲麻呂ただ一人でした。
 なぜ「太学」に入学できたのでしょうか。
 皇帝のお気に入りであった弁正が、仲麻呂の聡明さを見て、皇帝に掛け合うなどして、彼を援助して入学を実現させてやったのだという説もあります。
 弁正とは、第7次遣唐使で入唐した日本人の僧侶です。仏道修業のために、派遣されたものの、非凡な才能があって、皇太子の李隆基(のちの玄宗皇帝)に非常に気にいられ、その遊び仲間となり、ついには仏教を捨てて還俗した人物です。

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