2010年11月30日火曜日

1ドル50円時代

 急激な円高は一服していますが、安心するのはまだ早い。「1ドル=50円まで進む可能性がある」と警告するのは同志社大大学院の浜矩子教授(58)です。テレビにもよく出ている人です。国際的な決済に使われる「基軸通貨」としてのドルの役割が終焉するのはさけられず、9月に実施した日本の為替介入は、「ヤブ医者の処方せんで副作用も大きい」と批判しています。

 このところの円安ドル高の動きについて、「ドル高が修正される歴史的な流れのなかで一つの踊り場にすぎない」と指摘しています。中長期的には、円高ドル安の流れは止められないとみています。

 戦後の為替相場は、1ドル=360円の固定レートでスタートしました。1971年8月にニクソン米大統領が金とドルの交換停止を宣言した「ニクソン・ショック」があって、ドルが切り下げられ、1ドル=308円になりました。その後、1973年の変動相場制移行後はさらに円高が進み、95年4月19日には、戦後最高値の1ドル=79円にもなりました。「ニクソン・ショック」以後、ドルは実質的に基軸通貨としての力を失っていたにもかかわらず、各政府が外貨準備などで保有しているドルの価値が減少するのを恐れたこともあって、“裸の王様”であり続けました。

 とどめとなったのが、2008年9月のリーマン・ショックです。08年10月以後、1ドル=90円~100円を推移していたが、今年7月に85円、8月に83円、9月に82円台と円高が加速。そして、11月に80円20銭まで上昇しました。

 民間も政府も借金をしないと経済が回せないのが米国経済です。その結果が経常収支と財政収支の『双子の赤字』になっています。今後肥大化してメタボ状態の米国経済の規模が半分程度となり、1ドル=90円~100円で推移してきた為替も半分の45~50円になるのは避けられない。

 一方、ドル売りの受け皿として買われているのが、日本の円です。しかし、日本の輸出産業にとっては収益を目減りさせるほか、内需産業も割安な輸入品に押されています。

 政府・日銀は9月15日、過去最大規模となる2兆1249億円の円売りドル買い介入を実施したが、浜教授は「歴史的なドル安の流れに日本だけが逆らっても徒労でしかない。まるでヤブヤブ医者の処方せんだ」とバッサリ切り捨てています。浜氏は、多少極端な発言が多いので、多少は割り引かねばなりませんが、正鵠を得ています。

 さらに浜氏は、介入は効き目がないだけではなく、副作用があるといっています。「介入は麻薬のようなもので、一度使うとやめられず、2兆円の次は4兆円といった具合に量も増えて行く。さらに、深刻なのは、介入で日本政府がため込んだドルが、今後ドル安が進めば大きな含み損を抱えることになる」。

 「あす50円になるなら大変打撃になるが、まだ数年の時間はあるだろう。その間に、企業側の新たな生産・輸出体制や政府の新たな通貨体制構築など、手を打つことは可能だ。そもそも1ドル=50円になってドルが基軸通貨の座を失ったら決済に使われなくなるので、レートを気にしなくてもよくなる」とも語っていますが、取引決済にどの通貨を使うか、まさか物々交換というわけには、いかないでしょう。

 ドルに代わる基軸通貨はあるのでしょうか。浜氏は、「基軸通貨は一国が突出して強い場合に成り立つので、ユーロも人民元も無理だろう。複数の決済通貨が共存する“通貨無極化時代”が到来するのではないか」と予言しています。たしかに一国の通貨でお金を貯めていると大変なことになります。今、現実的に一番強いのは、人民元でしょう。割り切って、人民元で決済しますか。それにしても、アメリカの経済は、どうしようもないようですが、国際警察力については、アメリカに頼らざるを得ません。世界の経済についても、もう一度、アメリカは世界の手本になってほしいものです。ただし、ユダヤの商法はやめて、実体経済にあったものにしてほしいと思います。

2010年11月29日月曜日

ダライ・ラマ(6)

 欧州諸国との関係
 イギリス政府は、中華人民共和国との国交関係を元に、同国が掲げる"一つの中国"の政策を掲げており、ゴードン・ブラウン第74代首相が対中関係強化を図っている一方で、王室のチャールズ皇太子は、ダライ・ラマ14世と長年にわたる親交で知られています。

 国連との関係
 ダライ・ラマ14世が率いるチベット亡命政府は、現在に至るまで国連の加盟国ではありません。国連は、2000年8月28日から8月30日にかけて開催した「宗教・精神指導者のミレニアム世界平和サミット」に世界の宗教指導者を1000人以上を招聘しましたが、ダライ・ラマ14世は招聘しませんでした。中国を気にしてのことでしょう。しかし、このことにかかわらず、国連というのは、世界平和のためにある組織ではないようです。

 日本との関係
 日本に入国する際は、日本国政府が中華人民共和国の推進する"一つの中国"の立場を外交政策として掲げているため、中華人民共和国への配慮から「政治活動をしない」等の条件があります。

 オーム真理教との関係
 1995年3月29日に来日した際には、成田空港で日本の記者団より、麻原彰晃ならびにオウム真理教との関係について質問責めに遭いました。麻原とは亡命先のインドで 1987年2月24日と1988年7月6日に会談しています。またダライ・ラマ14世は、オウム真理教から布施 の名目で1億円にのぼる巨額の寄付金を受領しており、1989年にオウム真理教が東京都で宗教法人格を取得した際には、ダライ・ラマ14世は東京都に推薦状を提出してオウム真理教を支援しました。

 なお、麻原をインドに最初に紹介したのはペマ・ギャルポですが、彼は数カ月もしないうちに麻原の問題点に気づき、麻原とはかかわらないようにとダライ・ラマ法王庁に上申しています。これに怒った麻原は雑誌や本などでペマを批判しました。のちに麻原はオウム事件を起こしましたが、ペマは大阪国際宗教同志会の平成11年度総会の記念講演にて「幸いにして、麻原さんが怒って、私のことを悪く書いて下さったもんですから、助かりました。本当のことを言って……」と回想しています。

 パンチェン・ラマ10世との関係
 1989年1月28日、パンチェン・ラマ10世が入寂しましたが、この時、中国仏教協会は追悼式への出席をダライ・ラマに特別要請しましたが、ダライ・ラマはこれを拒絶しました。

 ダライ・ラマに行動を共にしたひとたち、すなわちチベットからインドに亡命したひとたちは、奴隷を使う立場にあったひとたちです。この奴隷を解放したのが、中国人民共和国ということです。したがって、このひとたちが、チベットに戻って来ることを、今のチベット人は望んでいません。ダライ・ラマ14世のみが目立ち、亡くなれば亡命政府も自然消滅でしょう。このときにインド政府がこの人たちをどう扱うのでしょう。難民扱いでしょうか。それとも中国が引き取るのでしょうか。これも早晩、答えが出ます。

2010年11月28日日曜日

ダライ・ラマ(5)

 インターネットでの規制対象
 中華人民共和国国内では、インターネット上でのダライ・ラマ14世に関する議論が制限、統制されています。

 チベット独立を巡って
 ダライ・ラマ14世は、2007年10月17日に行われたアメリカ合衆国議会黄金勲章授章式のスピーチで、「チベット自治区は中華人民共和国の一部であり、あくまでも高度な自治を求めているのであってチベット独立の考えはない」ことを表明しました。

 米国との関係/CIAとの関係
 1998年10月2日、ダライ・ラマ14世側はCIAから170万米ドルにのぼる資金援助を1960年代に受けていたことを認めました。援助資金は、志願兵の訓練や対中華人民共和国戦用のゲリラへの支払に費やされたということです。

 またダライ・ラマ14世への助成金は、スイスや米国での事務所設立や国際的なロビー活動にも充てられました。長年にわたってチベット独立運動を支援したCIAの秘密工作は、中華人民共和国・ソビエト連邦などの共産圏を弱体化させる目的の一環でもあったようです。

 インドとの関係
 1959年3月31日に、ジャワハルラール・ネルー初代首相はダライ・ラマ14世のインドへの亡命を受け入れました。1959年10月20日に開始された中印国境戦争以後もダライ・ラマ14世を保護し続け、インド北部のダラムサラにチベット亡命政府と多数の亡命チベット人を受け入れてきました。

  しかし、2004年10月20日にマンモハン・シン第13代首相は、会談の際インド国内でのダライ・ラマ14世の政治活動を認めないと表明しました。さらに、2008年には、シブシャンカール・メノン外務次官は、ダライ・ラマ14世はインドを拠点に反中華人民共和国活動をしないことを約束している客人であると述べています。

2010年11月27日土曜日

ダライ・ラマ(4)

 中華人民共和国政府の外交との関係
 ダライ・ラマ14世が訪問する場合、その国が中華人民共和国と国交がある国の場合には、訪問先の政府に対して、"一つの中国"を掲げている中華人民共和国の国務院から外交ルートを通じて抗議が入るのが通例だそうです。また、中華人民共和国国内でのダライ・ラマ14世の著書や写真の保有・持込は、治安当局の取締対象になる危険性が高いといいます。

 2008年の動乱
 2008年3月15日、中華人民共和国のチベット自治区ラサ市で、チベット族が漢族を襲撃し、暴徒化したチベット族が商店を略奪・放火する暴動が発生、治安当局が催涙弾などで制圧しました。テレビなどで、海外メデイアが報道したとおりです。

 温家宝首相は、「暴動はダライ・ラマ14世の組織的な煽動によるものだ」と非難しました。また、ダライ・ラマ14世に対して「チベット独立を放棄し、台湾(中華民国)を不可分の中華人民共和国の領土と認めること」を条件に中華人民共和国国務院とダライ・ラマ14世との平和的な対話を呼びかけました。

 これに対してダライ・ラマ14世は、暴動が自身の策動によるとの国務院の見解を否定し、事態を収拾できなくなった場合は、チベット亡命政府の最高指導者の地位を辞任することも表明するとともに、中華人民共和国国務院との平和的な対話再開に前向きな姿勢を示しました。

 この動乱における中国共産党の行ったチベットでの処置について、ダライ・ラマ14世は「文化の大虐殺(en:cultural genocide)に等しい」と述べています。

2010年11月26日金曜日

ダライ・ラマ(3)

 UNESCOに登録されたラサのポタラ宮殿を3ヶ月かけて移動し、ダライ・ラマの夏の離宮であるノルブリンカ(宝石の庭園の意)に入りました。そして、1940年冬には、ポタラ宮殿に移動し、チベットの精神的指導者の座に正式に就任しました。

 1950年に中華人民共和国の人民解放軍がチベットを制圧、全域を自国に併合しました。その後に発生したチベット動乱後にインド北部のダラムシャーラーにチベット亡命政府を樹立し、同政府の長となりました。その後は、チベットの自治権を訴え、チベット人に対して中華人民共和国の中国共産党政府が行ったさまざまな人権侵害行為についての批判などの活動を始めました。

 また、チベット亡命政府の長としてだけでなく、チベット仏教の指導者としても、アメリカ、ヨーロッパ諸国、日本を始めとする世界各地をたびたび訪れ、仏教に関する講演、宗教的な対話など活発に行っています。

 ノーベル平和賞受賞
 1989年には、世界平和やチベット宗教・文化の普及に対する貢献が高く評価され、ノーベル平和賞を受賞されました。ノーベル平和賞の受賞に対しても中華人民共和国政府は完全な無視を行っただけでなく、関連図書の持込さえも禁止しています。中国では、出版も勝手には行えません。

  このノーベル平和賞の受賞について、朝日新聞は社説において「チベットの緊張を高めるおそれさえある。そうなれば『平和賞』の名が泣こう」と批判していました。ときどき朝日は、理解できないことを書きます。

2010年11月25日木曜日

ダライ・ラマ(2)

 かれは、1935年7月6日、チベット北部のアムドのタクツェルの小さな農家の、9人目の子供として生まれました。なお、生家は小農でしたが、地主に従属する小作人というわけではなかったようです。しかし、貴族階級でもありませんでした。わずかな土地を人に貸し、自分たちでも大麦、ソバ、トウモロコシなどを栽培し、ヤクと牝牛の雑種を5~6頭、80頭あまりの羊やヤギ、2~3頭の馬、2頭のヤクを飼っていたといいます。生家はチベットならどこにでもあるありふれた民家だったといいますが、チベットでは、なかなかの資産家です。

 幼名はラモ・ドンドゥプと名づけられました。これは「願いを叶えてくれる女神」という意味だそうです。男なのに女神というのが分かりません。長男のトゥブテン・ジグメ・ノルブはすでに高僧タクツェル・リンポチェの化身として認められており、有名な僧院クムブムで修行をしていました。

 3歳の頃に、ダライ・ラマの化身を見つけるためにチベットの政府が派遣した捜索隊が、さまざまなお告げに導かれてクムブム僧院にやって来ました。お告げのひとつは、1933年に死去したダライ・ラマ13世の遺体が埋葬前の安置期間中に頭の向きを北東に変えたこと。他には、高僧が聖なる湖で湖面にAh、Ka、Maのチベット文字が浮かび上がるのを「視た」ことなどがありました。僧は"Ah"は地名アムドのアだと確信して捜索隊をそこへ派遣したといいます。

 捜索隊は、"Ka"の文字はクムブムのKに違いないと思って、クムブムにやって来ました。捜索隊は付近の村を探し回り、やがて屋根にこぶだらけの杜松が走っている民家を見つけました。

 捜索隊はダライ・ラマ13世の遺品とそれそっくりの偽物をいくつかその子供に見せたところ、いずれも正しい遺品のほうを選び「それは、ボクのだ」と言ったといいます。いくつかの確認の手続を経てさらに他の捜索結果も併せて厳密に審査した結果、3歳の時にこの子は、本物のダライ・ラマの化身で第13世ダライ・ラマトゥプテン・ギャツォの転生と認められ、ジェツン・ジャンペル・ガワン・ロサン・イシ・テンジン・ギャツォ(聖主、穏やかな栄光、憐れみ深い、信仰の護持者、智慧の大海)と名付けられました。

2010年11月24日水曜日

ダライ・ラマ(1)

 11月11日の日経新聞の「春秋」で、「チベット仏教の最高指導者、ダライ・ラマ14世に国家首相や首相が会うと、その国の翌年の対中輸出は平均8.1%落ち組む。こんな調査結果をドイツのゲッティンゲン大学の研究者たちが発表した。『ダライ・ラマ効果』と名づけた」とあります。

 11月12日から14日まで、広島で、世界のノーベル平和賞授賞者が集ります。ダライ・ラマもその一人として参加しますが、菅直人首相が会う予定もなく、会いませんでした。これは日本の歴代首相が踏襲してきた政策でもあります。日本の内閣総理大臣でダライ・ラマ14世と公式に会談したのは、大平正芳氏のみです。また、2008年4月にアメリカへ渡航する際に成田空港に立ち寄った際には、安倍晋三前首相の昭恵夫人と会談を行っています。

 ダライ・ラマ14世は、ノーベル平和賞受賞者の集まりの前に、7日大阪、8日奈良、9日、10日新居浜、11日広島にて法話を行いました。

 ここで、ダライ・ラマ14世について、少し語っておきましょう。
ダライ・ラマ14世(1935年7月6日(在位1940年 - )は、第14代のダライ・ラマです。インドのダラムシャーラーに基点を持つチベット亡命政府ガンデンポタンの長でもあります。
 チベット民族のあいだで尊敬されている宗教指導者のひとりです。また、チベット仏教のゲルク派の最高位の仏教博士号(ゲシェ・ラランパ)を持つ僧侶でもあります。教え・実践両面のすべてで最高の権威者(チューキ・ゲーポ;法王)として広く認められているようです。

2010年11月23日火曜日

正倉院展(3)

 螺鈿紫檀五弦琵琶
 昨日、書いた「伎楽面・酔胡王」よりもはるかに貴重で、芸術的価値が高いのが螺鈿紫檀五弦琵琶です。世界で現存する唯一のものです。全長108.1cm、最大幅は30,9cmです。

 五弦琵琶はインドに起こり、中央アジアから中国に入って唐代に流行しました。その後は姿を消し、この品がただ一つ残っています。

 弦を張った正面にはラクダの上で四弦琵琶をひく人や熱帯の木、鳥、花文を、琵琶の背面には咲き誇る唐花文などを輪のようにつなげて細かに表しています。文様には貝を使った螺鈿やタイマイ(ウミガメ)の甲羅、コハクなどを用い、大変美しく仕上がっています。聖武天皇遺愛の品だそうです。聖武天皇が、政務に疲れ、弾かれていたのではないでしょうか。説明用の機械で聞きましたが、かなり低い音です。当時は、テンポの速い音楽もなかったでしょうから、余計に音が低くなったのでしょう。紫香楽京などのさみしいところで、傍らにお酒をおきながら、弾かれている姿が目に浮かびます。

 道鏡、良弁の書
 珍しく、道鏡、良弁のふたりの書が展示されていました。良弁の書は、さすがに高僧の書く字と思われる達筆でした。几帳面な性格が表れているように思いました。

 意外だったのは、道鏡の書です。有能な僧の書を期待していましたが、角々が丸く、とても能筆家とは思えません。希代のプレイーボーイの字はこういうものかと納得しました。やはり、字は大切です。パソコンを打ちなれた最近は、ほんとに拙い字になりました。少し練習せねばと思いました。

 正倉院展に来て、いつも思うのは、非常に人が多いのです。しかも、中年以上の女性が多いのです。時間はあるのは、分かるのですが、分かっているのでしょうかと、いつも心配になります。

2010年11月22日月曜日

正倉院展(2)

 「献物帳」記載の品がそのまま現存しているわけではなく、武器類、薬物、書巻、楽器などは必要に応じて出蔵され、そのまま戻らなかった品も多くあります。刀剣類などは恵美押勝の乱の際に大量に持ち出され、「献物帳」記載の品とは別の刀剣が代わりに返納されたりしています。

 正倉院の三倉のなかでも特に北倉は、聖武天皇・光明皇后ゆかりの品を収めることから、早くから厳重な管理がなされていました。宝庫の扉の開封には勅使が立ち会うことが必要とされていました。なお「勅封」という言葉は、本来「天皇の署名入りの紙を鍵に巻きつけて施錠すること」を指します。

 奈良時代は、710年に都が藤原京から平城京に移ってから始まりますが、756年に聖武天皇が亡くなり、これを悲しんだ光明皇后が天皇の大切にしていた身の回りのものを大仏に納めました。
 さて、今回、目玉と思える宝物を紹介します。

 伎楽面・酔胡王

 縦37cn、横22.6cm、奥行29.4cmあり、当時の人は、実際にこの面を被って踊りました。

 古代中国の国の一つである呉が起源とされる仮面舞踏劇の伎楽で、酔った一団を率いる赤ら顔をした胡人(ペルシャなど西域諸国)の王の顔を表した面です。高い鼻や彫りの深い顔立ち、濃いひげにエキゾチックな西域の人々の特徴が見られます。

 伎楽は飛鳥時代、朝鮮半島・百済から伝わり、東大寺の大仏開眼会で奉納されました。笛やつづみの音に乗せ、酔胡王が酒宴を楽しむ場面が演じられたのでしょう(読売新聞の紹介より)。
 (明日に続く)

2010年11月21日日曜日

正倉院展(1)

 今年の正倉院展は、平城遷都1300年祭もあって、展示物も良いものが多いとテレビ(NHK)や新聞に書かれていました。わたしも11月11日の閉展間際に見学に行きました。たしかにNHK教育テレビでも報じられた螺鈿紫檀五弦琵琶、伎楽面、銀壺、鳥獣花背円鏡は、見るべき価値がありましたが、そのほかは、特別に思えませんでした。それに、良弁、道鏡の書がありました。これについては、明日、述べたいと思います。

 歴史のおさらいになりますが、正倉院について説明をしておきます。
正倉院は、奈良市の東大寺大仏殿の北西に位置しています、高床式の大きな校倉造の倉庫で、聖武天皇・光明皇后ゆかりの品をはじめとする、天平時代を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していました。

 正倉院自身は中に入ることは、もちろんできませんが、外構すらも、春、秋の正倉院展開催中にしか、見ることが出来ません。

 献物帳、国家珍宝帳に記載されているのは、756(天平勝宝8)年に、光明皇后が、夫の聖武天皇の七七忌に、天皇遺愛の品、約650点と、約60種の薬物を東大寺の廬舎那仏に奉献しました。その後も光明皇后は3度にわたって、自身や聖武天皇ゆかりの品を大仏に奉献しています。これらの献納品については、現存する5種類の「献物帳」と呼ばれる文書に目録が記されており、これらの宝物は正倉院に収められました。

 正倉院宝庫は、北倉、中倉、南倉の3つに区分されています。北倉には、おもに聖武天皇・光明皇后ゆかりの品が収められ、中倉には東大寺の儀式関係品、文書記録、造東大寺司関係品などが収められていました。また、950(天暦4)年には、東大寺内にあった羂索院の双倉が破損した際に、そこに収められていた物が正倉院南倉に移されました。南倉宝物には、仏具類のほか、東大寺大仏開眼会に使用された品々などが納められていました。その後、長い年月の間には、修理などのために宝物が倉から取り出されることがたびたびあり、返納の際に違う倉に戻されたものなどがあって、宝物の所在場所はかなり移っています。倉ごとの品物の区分は、明治時代以降、近代的な文化財調査が行われるようになってから再整理されました。(明日に続く)

2010年11月20日土曜日

自分に甘い岡田幹事長

 民主党・岡田幹事長の出版記念パーティという名の「政治資金集めパーティ」が11月15日夜、都内のホテルで開かれました。岡田氏は先月末、党として自粛していた企業、・団体献金の受け入れ再開を決定した中心人物です。

 「出席者は連合の古賀会長ら経済界が中心で300人ほどが出席しました。会費は約2万円でしたので、合計収入は、ざっと600万円ということになりますが、パーティ券のみ買った人もいるでしょう。

 この日、国会では、重要な補正予算案の採決や、仙谷官房長官らの不信任案で大モメとなりました。

 そのためか、岡田氏は15分ほど挨拶すると、すぐに戻ったということです。「原理主義者」で、甘さを他人に許さない岡田氏も自分には甘かった、ということです。

 それにしても、企業献金を始めるとか、最近の岡田氏、ひいては民主党のやることは、限りなく自民党に近づいています。小沢氏が、大人しくしていると、好き放題にやっているというのが、国会の現実で、青二才に政権を握られた日本は、まさに沈没の恐れがあります。

2010年11月19日金曜日

吉村昭氏と宇和島(4)

 吉村昭氏は仕事の関係上、全国をいろいろなところを歩くそうです。酒も好きなようで、夜になると必ずどこかに行って一杯飲みます。しかし、全国いろいろ行くけれども、自分のウイスキーを置いてあるのは、札幌、長崎と宇和島だそうです。札幌は1本で、長崎が2本、宇和島が2本だそうです。吉村氏が、どうしてボトルを置くかというと、しばしば来るということと同時に、この三つの都市が好きだということだそうです。

 わたしも最近は国内よりも海外、とりわけ中国が増えましたので、国内の移動は、非常に減りましたし、酒をひとりで飲むということはまずありませんので、ボトルを置くということもめっきり減っています。ましてや、焼酎が多いものですから、置いているのは、居酒屋です。吉村氏が行かれるようなところとは、違うような気がいたします。

 好きな都市を挙げろと言われると、郷里の福岡、現住所の奈良を除くと、札幌、熊本、萩、郡上八幡などが好きです。あまり飲みに行きたくないのが、広島です。「サービス三流、値段は一流」というのが、いまだに印象に残っています。 

 吉村氏の褒める宇和島市にも2度ほど行ったことがあります。闘牛を見たかったのですが、行った時期が悪く見られませんでした。街中もぶらぶら歩きませんでしたので、印象がありません。次回は、ゆっくり見て見ようと思います。

2010年11月18日木曜日

吉村昭氏と宇和島(3)

 宇和島藩および伊達宗城について、少し触れてみましょう。
慶長19(1614)年に伊達政宗の庶長子、秀宗が10万石で入封し、それ以降は伊達氏が廃藩置県まで治めました。仙台藩の支藩ではなく新規に国主格大名として取り立てられ、秀宗入府のときの家臣団は、米沢時代の「伊達五十七騎」の中から選ばれたものだったために、仙台藩とは直接関係がない成立でしたが、仙台藩は支藩と主張し、特に秀宗の時代は揉め事が絶えませんでした。

 8代・宗城は最も有名な藩主で、大身旗本・山口直勝の次男に生まれましたが、祖父山口直清が伊達村候の次男だったことから養子に迎えられ、前藩主からの殖産興業を引き継ぎ、更に西欧化を推し進めて富国強兵政策をとりました。幕府から追われ江戸で潜伏していた高野長英を招き、更に長州より村田蔵六を招き、軍制の近代化にも着手しました。伊達宗城は、阿部正弘死後、安政5(1858)年に大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立しました。13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子が無かったため、宗城ほか四賢侯と水戸藩主・徳川斉昭らは次期将軍に一橋慶喜を推していました。一方、井伊直弼は紀州藩主・徳川慶福を推しました。井伊は大老の地位を利用し強権を発動し、慶福を14代将軍・家茂としました。この結果、一橋派は排除されました。いわゆる安政の大獄です。これにより宗城は春嶽・斉昭らとともに隠居謹慎を命じられました。

 謹慎を許されて後は、再び幕政に関与するようになり、文久2(1862)年には生麦事件の賠償金支払いに反対しています。この頃から、島津久光と交友関係を深くし、公武合体を推進しました。文久3(1863)年末には参与会議、慶応3(1867)年には四侯会議に参加し、国政に参与しているが、ともに短期間で崩壊しました。明治維新まで藩政に影響を持ち続け、明治新政府では高官となっています。

 藩主家は明治17(1884)年に宗城の功績を評価され侯爵となり、華族に列せられましたが、仙台の伊達本家は奥羽越列藩同盟に連座して、減封を受けたために伯爵止まりとされましたので、本家を上回ることになりました。

 明治維新以後 は、慶応3(1867)年12月、王政復古の後は新政府の議定(閣僚)に名を連ねました。しかし明治元(1868)年に戊辰戦争が始まると、心情的に徳川氏寄りであったので薩長の行動に抗議して、新政府参謀を辞任しました。

 明治2(1869)年、民部卿兼大蔵卿となって、鉄道敷設のためイギリスからの借款を取り付けました。明治4(1871)年には欽差全権大臣として清との間で日清修好条規に調印し、その後は主に外国貴賓の接待役に任ぜられましたが、その年に中央政界より引退しました。

2010年11月17日水曜日

吉村昭氏と宇和島(2)

 さらに吉村氏は、
「有名なエピソードですけれども、弘化2(1845)年に第七代の藩主宗紀が、江戸から参勤交代で帰って来る。佐田岬半島の三机に上陸しましたときに、たまたま年とった女がイか釣り船から上がって歩いていた。藩主の行列にあってひれ伏すわけですが、宗紀がこの老婆に目をとめまして、『おばば、イカは釣れるか』と言いました。藩主から声をかけられたので、老婆はびっくりしてしまいまして黙っていますと、宗紀がさらに『おばばはいくつか』というので、トクというその老婆が百歳だと答える。すると老婆が持っていた茶碗でお茶をのませろと宗紀が言うので、家臣が茶碗を洗おうとしたところ、『洗わないで長寿にあやかる』と言ってそのまま飲んだ。宗紀はそういう気さくな藩主であった。

 アーネスト・サトゥという人が著した『外交官の見た明治維新』、これは、イギリスの公使パークスが軍艦で鹿児島へ行きまして、慶應2(1868)年に宇和島へ入った。それに乗っておりました通訳のアーネスト・サトゥという非常に優秀な人が、その当時の印象を書いているものです。

 『宗城は顔立ちのきつい、鼻の大きな、丈の高い人物で、年齢は49歳、大名階級の中でも一番の知恵者の一人だといわれていた。

 伊達宗城という人物が、当時日本での指導的立場にあった人物だということを、イギリス人であるアーネスト・サトゥも知っていたのです」と、書いています。

2010年11月16日火曜日

吉村昭氏と宇和島(1)

 幕末から明治維新にかけて、宇和島藩は注目を浴びて来ます。藩主伊達宗城が、薩摩の島津斉彬、福井の松平春嶽、土佐の山内容堂らとともに幕末の四賢人といわれているほどにオピニオン・リーダー的なところもあったからでしょう。この四藩の中では、宇和島は小藩です。それでは、この時代に宇和島藩は、どのような立場にあったのでしょうか。十万石というのは決して大藩ではなく、しかも外様大名です。宇和島は、四国でも江戸から見ますとかなり僻地という印象があるのですが、宇和島は四国の中でも西の僻地ともいえます。ところが、幕末に幕府に対して非常な影響力を持ったのは、薩摩、長州、越前、そしてこの宇和島藩です。特に伊達宗城という藩主は、その当時の世論の指導者的役割を果たしました。

 吉村昭氏も次のように書いています。
「なぜ、このような藩が、さまざまな悪条件を持っていながら、世論の指導的立場に立つことができたのかということを考えて見ますと、いろいろあると思うのです。

 第一に、やはり大きな発言力を持つという背景には、どんな場合でもそうですけれども、経済力がなければならない。最初は徹底した倹約政策です。当時の記録を見ますと、どんな人間でも木綿かさらし以外の着物を着てはいけない、絹物なんかとんでもない。いろいろな細かいことが書いてありまして、かまぼこも色をつけたものを売ってはいけない。同時に経済力を強めるためには、経済学者の佐藤信淵を重んじまして、藩士の小池九蔵を佐藤の門に入れるなど、非常に進歩的な経済政策をとりました。
 第二は、人の和といいますか、宇和島藩の藩論が見事に統一されていた。藩論をひきいる最高の人物は伊達宗城。宗城は、はじめかなり徹底した攘夷論者であった。それが、天皇を議長とした、幕府をそのまま維持する協議会みたいなもので国の政治をやって行こう、という考え方に変わっていきます。それから最後は、開国、大政奉還と、目まぐるしい変わりかたをしています。

 藩士たちが、反発するようなことがなく、宗城の意見のままに従う。そういう藩論の統一が見事になされ、人の和によって宇和島藩が強化された。これによって、小藩といえど力をもったということのようです。

2010年11月15日月曜日

「しいほるとの娘」が生きた時代(2)

 さて、ふぉん・しーぼるとの娘に戻ります。長いですが、引用します。
「私は『ふぉん・しいほるとの娘』という小説を書きましたが、イネという女性、この人は、シーボルトと長崎の遊女の其扇という女性の間に生まれた娘ですが、そのイネは(宇和島の)卯之町にいた。イネは、師匠の二宮敬作、これはシーボルトの高弟ですが、この二宮敬作のいる卯之町から宇和島まで歩いていく。そして宇和島にいた村田蔵六からオランダ語を習っていた。毎日朝早く起きまして、山道をたどり、そして夕方になると卯之町に帰ってくる。

 イネは明治になってから東京で死ぬのですけれども、その原因は鰻の浦焼とスイカの食べ合わせが悪くて死んだのです。イネも父のシーボルトと同じように、鰻の浦焼が好きだったということがわかるわけです。

 イネは上の名前を失本といいまして、失本イネと書いていました。「失本」というのは「シーボルト」を日本流に書いたわけです。宇和島藩の伊達宗城は、「本を失うというのは縁起が悪いじゃないか、あんたの先祖は誰だ」と言ったところが、よくある話ですけれども、「楠木正成の子孫だと言われています」というので、「それでは楠という字を取って、楠本にしろ。それからイネというのも伊篤としろ」と、伊達宗城の「伊」の字をあたえたわけです。

 イネの娘にタダという女の子がいました。イネは産婦人科を学ぶため、岡山の石井宗謙という、シーボルトの門人だった男のところへ行きます。そこでイネは石井宗謙に手ごめにあって女の子が生まれますが、イネは産科の術も覚えておりましたので、自分で臍の緒を切ってこの子をとりあげた。非常に悲劇的な出産であったわけです。イネは自分の娘に名前をつけるときに、何の愛情も持たない男に手ごめにされて一人の娘を産んでしまった、なんにも愛情がない、というわけで「タダ」とつけたのです。

 しかし、伊達宗城が「タダというのはまずいから、タカにせよ」。そういうふうに、非常に心配リといいますか、優しさがあった。タカはその後、伊達宗城の侍女として養われた。そのような心の温かさが藩主にありました」と締めくくっています。当時の宇和島藩主・伊達宗城は、幕末の4賢公の一人として、大きな影響力を持っていました。これまでに述べましたように優しさも持ち合わせていたようです。幕末には、偉人英雄がキラ星のごとく生まれたようです。今は、まったくの不作です。ため息が出るばかりです。

2010年11月14日日曜日

「しいほるとの娘」が生きた時代(1)

 これも吉村昭氏の『白い道』から引用したものです。その前に、フォン・シーボルトについて、述べておきます。

 シーボルトは、東洋研究を志し、1822年にオランダのハーグへ赴き、国王ヴィレム1世の侍医から斡旋を受け、7月にオランダ領東インド陸軍病院の外科少佐となります。

 その後、9月にロッテルダムから出航し、喜望峰を経由して1823年4月にはジャワ島へ至り、6月に来日、鎖国時代の日本の対外貿易窓口であった長崎の出島のオランダ商館医となりました。

 出島内において開業します。1824年には、出島の外に鳴滝塾を開設し、西洋医学(蘭学)教育を行いました。日本各地から多くの医者や学者が集まり講義しました。教え子の代表として高野長英・二宮敬作・伊東玄朴・小関三英・伊藤圭介・長岡謙吉(二代目海援隊隊長)らがおり、のちに、医者や学者として活躍しています。

 オランダ商館長(カピタン)の江戸参府に随行し、道中を利用して日本の自然を研究することに没頭します。1826年には将軍家斉に謁見。江戸においても学者らと交友し、蝦夷や樺太など北方探査を行った最上徳内や高橋景保らと交友しました。

 最上徳内からは北方の地図を贈られ、高橋景保には、クルーゼンシュテルンによる最新の世界地図を与え、見返りとして、最新の日本地図をもらいましたが、これが大事件になります。

 その間に日本女性の楠本滝との間に、楠本イネをもうけます。これが、今回のフォン・シーホルトの娘です。

 1828年に帰国する際、収集品の中に幕府禁制の日本地図があったことから大問題になり、国外追放処分となります。有名なシーボルト事件です。当初の予定では帰国3年後に再来日する予定でしたが、来日できなくなりました。

 1830年、オランダに帰着します。翌年には蘭領東印度陸軍参謀部付となり、日本関係の事務を嘱託され、日本研究をまとめ、集大成として全7巻の『日本』を刊行しました。医者としても研究者としても優秀だったようです。明日以降、「ふぉん・しほるとの娘」について書きます。

2010年11月13日土曜日

『ペリーの来航と鯨』(3)

 吉村昭氏は、「ペリーは、談判の席で、『日本は太平洋をへだてた遠い国であったが、汽船の出現によってその距離はちぢまり、隣国になった』という趣旨のことを口にしている。

 これは決して誇張ではなく、経済都市ニューヨークからアメリカの太平洋岸に赴く日数と、その沿岸から日本に行く日数に大きな差はなく、そうした地理的条件から、アメリカの経済にとって日本は無視できぬ国になっていたのである。

 ペリー来航の嘉永6(1853)年は、アメリカの捕鯨業が最高潮に達した年で、箱館を基地港としたことは最大の収穫であった。が、その年以後、捕鯨業は急速に衰退する。石油の発見によって、それが灯火や機械の潤滑油に使用され、鯨油の価値は無に近いものになったのである。そのため、日本近海にアメリカ捕鯨船の姿をみることはなく、箱館も基地としての意義も失われた。アメリカの経済の変化が、そのまま日本にも及んだのである。

 ペリー来航から百三十年が経過しているが、私には、その歳月がきわめて短いものに感じられてならない」と書いています。アメリカは昔から、唯我独尊で、歴史が浅いというコンプレックスもあったのでしょうが、強引な所作が見られます。こういう国と交渉する時は、相手の歴史も十分に頭に入れておかねばなりません。これは、4000年の歴史を持つ中国も、今はアメリカと同様に唯我独尊になりかねない国だと思っていた方がいいでしょう。

2010年11月12日金曜日

『ペリーの来航と鯨』(2)

 さらに吉村昭氏は、
「ついで太平洋航路問題だが、これもアメリカの貿易政策から生じたものであった。アメリカは、中国を綿布の重要な輸出先としていて、太平洋をへて荷を送っていた。そのうちに汽船が出現し、アメリカは太平洋を一気に横断、中国市場に綿布を送ることを企てた。そのためには石炭を補給する寄港地が必要で、日本に石炭貯蔵所をそなえた港の開港を求めたのである」。

 「会議に出席したペリーは、終始、威圧的な態度で強要したが、日本側もかなり強く抵抗し、結局、捕鯨基地として箱(函)館、汽船寄港地として伊豆の下田を開港することで妥結した。

 日本側が最も恐れていたのは、鎖国政策の基幹である通商要求であった。これに対して、ペリーは、あっさりと要求を撤回し、日本側を驚かせた。アメリカ側にとって、通商などどうでもよいことで、副え物という意味で持ち出しただけであった。アメリカの東洋における最大の市場は中国で、資源も乏しい日本と通商をすることはほとんど意味がないと判断していたのである」。

 歴史では、この部分が強調されており、ペリーは最初から通商交渉を行って来たように教わりましたが、実際は、捕鯨の補給基地、綿花貿易の補給基地のために来航したものでした。今も、このような勘違いをしているようなことが、多々あるような気がします。

 吉村氏も、「最初の出会いであるペリー来航時から、すでに日米の経済を中心とした軋轢がはじまっていたのを感じる」と書いています。

2010年11月11日木曜日

『ペリーの来航と鯨』(1)

 これも吉村昭氏の『白い道』の載っていたものです。
ここで、少し長いが、引用します。
「『海の祭礼』という歴史小説を書いたが、筆を進める間、奇妙な感慨を覚えた。時代はアメリカ使節ペリーが来航した幕末なのに、現在の日本をアメリカの状態をみているような錯覚に襲われたのである」と書いています。

 さらに「江戸時代も幕末に近づくにつれて、日本近海に異国船の出没がしきりになり、船員の上陸騒ぎも起こった。鎖国政策をかたく守る幕府は、それらの船を容赦なく撃ち払うことを布達し、やがて、国際紛争に発展することを恐れて食糧、燃料をあたえて穏便に退去させるよう改めた。

 そのような時期に、ペリーが黒船4隻をひきいて浦賀に来航したのだが、幕府は、アメリカが鎖国政策を全面的にくつがえす自由貿易を強要するものと考え、激しい動揺をしめした。

 しかし、ペリーの来航目的は、捕鯨業の発展と太平洋航路開発のための港の確保につきていた。

 当時、アメリカの捕鯨業は世界一の規模をもち、採取された鯨油は灯火や機械の潤滑油など用途はひろく、ローソクは重要な輸出品になっていた。捕鯨船は大西洋から太平洋に進出し、日本近海が世界屈指の好漁場であることを知り、殺到した。出没した異国船は、これらの捕鯨船であったのである。
アメリカは、大漁場の中央にある日本に捕鯨基地の港を得れば、漁獲量は飛躍的に増大するので、それを第一の要求事項とした」。

 さて、これほどにクジラをとっていたアメリカが、いまや、捕鯨反対です。アメリカという国は、自国の利益を最優先するところがあり、これは今日まで続いています。極端に言うと、アメリカ海軍は、捕鯨業者のために日本に開港を求めたと言えます。(明日に続く)

2010年11月10日水曜日

小村寿太郎の『凛とした姿勢』(2)

 しかし、「小村は、親戚の借財をそのまま負っていたので、外交官になってからも生活は貧窮していた。廃屋同然の借家に座布団が二枚しかなく、客が二人来ると、かれは畳の上に坐らねばならず、傘もなく雨の日は濡れて歩いた。二度、外務大臣に就任した身でありながら、死ぬまで借家を転々とした。その上、家庭人として不幸で、そのような悪環境にありながら、ひたすら国のために全力をつくした」とあります。

 吉村氏は「現在の政治家が、とかく選挙の票を得ることのみに専念し、国の将来に眼をむけるのを怠っている節があるのとは対照的に、かれは自分の利益など念願になく、外交官としての凛とした姿勢をくずさなかった。
ポーツマス条約の会議場入り口で、日露全権に捧げ銃をした元アメリカ兵士の老人は、小村が短軀であったという印象などなく、むしろ毅然とした大人物にみえたという回想を持ちつづけている」
と元兵士の印象を書いています。

 また、「講和条約締結後、かれは随員に、『日米間には広大な太平洋が横たわっているが、交通機関の発達につれてその距離は短縮され、やがて隣国として武力衝突をすることになるだろう』と太平洋戦争の勃発を予言しています」。先を読む能力にも長けていたのでしょう。

 吉村氏は、最後に「かれは、藩閥とは無縁で、政党に属すこともかたく拒んだ。外交官に徹し、そして死んだ。その後、日本は、太平洋戦争の敗戦へと急傾斜してゆく。明治維新以後の偉大な外交官として、小村の写真が陸奥宗光、吉田茂の写真とともに外務省外交史料館に並んでいるが、当然のことである」と結んでいます。わたしは、3人の中では、小村が一番だと思います。

2010年11月9日火曜日

小村寿太郎の『凛とした姿勢』(1)

 これも吉村昭氏の『白い道』に載っていたものです。
吉村氏の父は、明治24(1891)年生まれで、夕食後には、若い頃、見聞したことをよく口にしていたそうです。その話の中に、日露戦争の講和条約が結ばれた後に起こった日比谷騒擾事件があったといいます。

 外相小村寿太郎が全権となってアメリカのポーツマスに赴き、ロシア側全権のウイッテと講和条約を締結しましたが、その内容に憤激した群衆が、東京のすべての交番を焼き払い、各所に押しかけて放火、投石をしました。戦争が連戦連勝であったのに、小村がロシア側に大譲歩をし屈辱外交をおこなった、という非難の声が一斉に起こったというのです。
吉村氏は、日本海海戦を素材にした小説を書き、その折、講和条約のことも調べたのでが、その条約が決して屈辱的なものではなく、妥当なものであるのを知ったと書いています。

 吉村氏は、「3年前、小村の生地である宮崎県日南市に行った時、小村の着ていたフロックコートを眼にし、一瞬、呆然とした。かれの身長が四尺七寸(1・42メートル)ということは知っていたが、そのフロックコートは、七・五・三の祝いに男児の着るような小さいものであった」と書いています。目に浮かびます。しかし、こんなに小さいとは、思っていませんでした。今では、小学生並みの背の高さです。凛とした気迫があったのでしょう。多分、ロシア語は話せなかったと思いますので、通訳を介しての交渉であったのでしょうが、言霊がウイッテを襲ったのでしょう。今の政治家を見ていますと、どうせ通訳が訳すと思ってか、言葉に魂が乗っていない発言が多いように思います。(明日に続く)

2010年11月8日月曜日

吉村昭の『川路聖謨』(2)

 生活についても、
「日常の生活はきわめて質素であった。勘定奉行という要職にありながら、衣食住ともに粗末で、家族にも贅沢を決して許さない。

 毎朝の鍛錬で強靭になり、プチャーチンの待つ下田まで三島から一日で踏破したりする。天城峠を越えて伊豆半島を縦断したわけだが、その頃、通常の旅なら途中で二泊するのを常としていた。54歳という当時では高齢の身でありながら、脚力のすぐれた若い家臣のみを連れて下田まで半ば走って歩いたのである」とあります。驚くべき体力です。

 また、妻に対しても、当時の高級武士としては、珍しいほどです。
「かれが女性に潔癖であることが、かれの日記からうかがえる。それは滑稽なほどで、思わず頬がゆるむ。それに妻を愛すること甚だしく、まさにべた惚れである。それをつつまず日記に書いていて、まことにほほえましい」とあります。

 生活についても「かれは、入浴ぎらいだが、湯殿に入るときには必ず塩を盛った皿を持ってゆく。体を洗う時、まず睾丸を塩で丹念にもみ洗いする。それが精力の減退をふせぐ妙法と信じていて、その部分を洗わぬと気持ちが悪いのだという」。寝込む前までは、かなり精進していたようです。
「晩年はほとんど寝たきりの身でしたが、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗退し、官軍が江戸に迫る。江戸城が官軍の手に落ちる直前、かれは短銃自殺をする。幕府に忠誠をちかった幕史として、自らに死を課したのである。

 私は、川路の生と死に強い魅力を感じる。それが私に、『落日の宴』を書かせたのである」と結んでいます。正直なところ、奈良などの当時、辺鄙なところにこれほどの逸材が奉行になって来たとは思いませんでした。あらためて興福寺にある記念石碑を見に行こうと思います。坂本龍馬のように華々しくはありませんが、このような実直な能吏が、いつの時代も必要に思います。

2010年11月7日日曜日

吉村昭の『川路聖謨』(1)

 吉村昭氏が『落日の宴』の主人公で『川路聖謨』を取り上げています。わたしは、随筆集の『白い道』しか読んでいませんので、川路聖謨の奈良奉行時代にふれられているかどうかは分かりません。

 吉村氏は川路聖謨を主人公とする『落日の宴』は、平成6(1994)年の『群像』新年号から1年10ヶ月にわたって『落日の宴』と題する歴史小説を連載しました。

 この中で「川路は、幕末という時代に 光のようにひとわき鋭い光彩を放って生きた人物である。軽輩の身から勘定奉行筆頭まで登りつめたことでもわかるように、頭脳、人格とも卓越した幕史であった。それは、幕末という一歩道をあやまれば日本が諸外国の植民地になりかねない激動期に、老中たちがまず人材登用を第一とし、家柄そのほかをほとんど無視したことにもよる。

 彼は外交官としても第一線に立ち、ロシア使節プチャーチンとの間で日露和親条約を締結する。プチャーチンに少しも臆することなく、堂々とした弁論を展開する。それは、かれが外国事情に精通していたからであって、その駆け引きはまことに巧妙である。

 プチャーチンにとって川路は外交交渉の敵であるが、プチャーチンは、川路の聡明さと外交官としての鋭い感性に感嘆し、類い稀な人物と激賞している。川路とプチャーチンとの間には敬意と親愛の念が感じられ、まことに快い」と書いています。今の外務省の弱腰外交官は、見習わねばなりません。川路と今の外交官の差は何でしょう。明日、書きかす小村寿太郎らと差は何でしょう。人間性がないように思います。

 そこで、吉村氏は「私が川路に強く魅せられたのは、その人間性である。

 役人としての分をわきまえた態度が見事である。当時、水戸前藩主徳川斉昭は強大な権力をもっていたが、川路は斉昭の誘いにもかかわらず近づくことを避け、一定の距離をもって接している。大の酒好きであるのに、公務の旅では一切杯を手にせず、家臣にも禁酒を課した。旅中、各藩領を通って大名に迎えられるが、接待を受けるのを避け、贈り物も受け取らない。幕史として、常に身辺を清らかにするよう心掛けていた」と国の税金をいいことにワインを買いだめしている今の外交官とは、大違いです。(明日に続く)

2010年11月6日土曜日

奈良奉行の川路聖謨と奈良(2)

 川路聖謨は有能でしたので、天保改革を担当した老中水野忠邦に重用されました。しかし、その後、奈良奉行に左遷されました。これが、川路聖謨と奈良の出会いです。川路は、妻子や養父母と、江戸から15日かけて、で奈良にやってきました。江戸を離れたがらない実母を残してきたため、頻繁に奈良の様子を江戸に書き送っており、それが往時の奈良の様子を今に残す貴重な資料になって残っています。川路は、幕末の弘化3(1846)年より嘉永4(1851)年までの約6年間、奈良奉行を勤めました。

 奈良は江戸とは何事も異なっており、川路も、最初は戸惑っていましたが、よく奈良を歩き回り、奈良の良い面にも触れて、その奥深さに心惹かれていったようです。

 川路は、罪人が解き放たれ後、働き口もなく、結局、再犯してしまうことに気づき、自らお金を出し、金持ちからも出金を募り、基金を創設してその利子で貧民救済にあたった結果、再犯が減ったといいます。しかも、自らの出金にあたって、名前は出さず、匿名にしました。なかなか出来ません。

 また、やはり自らお金を供出し、一般にも募って、興福寺や東大寺をはじめとして佐保川の堤まで、奈良にたくさんの桜と楓の木を植えました。今の桜の名所となった奈良公園の元を作りました。猿沢の池から大階段(52段)を昇りきった左側に「植桜楓之碑」があります。よく見ないと見過ごします。請われて川路が書いた漢文が刻まれています。

 川路が奈良を離れる際、多くの人が餞別を持って来ましたが、それらは一切受け取らず、かけてあった熨斗だけをもらったという話もあります。何とも潔癖な人でした。

 そんな川路はその後、安政の大獄に連座して左遷、蟄居を命じられました。文久3(1863)年、再び外国奉行に起用されました。長崎に来航したロシア使節プチャーチンとの交渉をまかされ、翌年には、日露和親条約を調印するなど外交に力を尽くしました。そのほか、大坂東町奉行、公事方勘定奉行、勘定奉行格外国奉行等を歴任し、ペリー来航に際しては開国を主張しました。将軍継嗣問題による幕府の扱いに不満を持ち辞職し、隠居しています。その後は、中風で半身不随に陥るなど、晩年は不遇でしたが、1868年、西郷隆盛と勝海舟による「江戸城開城」のことを聞き、幕臣としてこれに抗議するためか、割腹し銃で喉を撃って壮絶な最期を遂げました。享年67歳でした。奈良にとっては、功績のあった奉行でした。

2010年11月5日金曜日

奈良奉行の川路聖謨と奈良(1)

 奈良は、江戸時代は天領でしたので、奉行がいました。奈良奉行です。奉行所は、今の奈良女子大のある場所にありました。

 「寧府記事」は、幕末の弘化3(1846)年より嘉永4(1851)年まで奈良奉行だった川路聖謨(かわじとしあきら)の日記です。かれは、こまめに書き残しています。

 神鹿殺害は大罪として「大垣成敗」(興福寺周囲の大垣=築地塀を3度引き回しのち処刑すること)や「石子詰め」(罪人を生きながらに穴に入れ、小石を詰めて圧殺したという中世以前の処刑法)などの厳罰に処せられたという言い伝えがありました。奈良で観光バスに乗るとガイドがこの話を必ずします。奈良町民にとっては、鹿は厄介な代物だったようです。

 弘化3年7月、角切りのために集めた鹿一頭を誤って死なせてしまった若者の処分を興福寺がどうすべきかと奉行所に求めてきました。この時、川路は、古い典礼によって処分することはできないと返答しています。そして「大垣成敗」や「石子詰め」などは戦国時代以前の話で、歌舞伎などの物語と思っていたのに、実際に興福寺が処分を求めてきたことに驚きました。

 川路は奉行所にたくさんある鹿関係の記録を調べ、鹿を殺し大垣成敗となったのは、寛永14(1637)年4月が最後でそれ以後はおこなわれていないことが分かりました。

 弘化3年8月4日には、奉行所の門前に幕張り矢来を立て、桟敷席を設営し、鹿19頭の角切りがおこなわれました。奉行も任期中一度は見物するのが慣例になっていました。見物人もたくさん集り賑やかだった様子が記されています。現在は、雄鹿の角伐りは秋に行われています。(明日に続く)

2010年11月4日木曜日

検察審査会の議決は疑問だらけ(2)

 昨日からの続きです。郷原氏は、「ただおもしろいことに、この議決書の『犯罪事実』を見ると、石川議員の起訴状の犯罪事実と非常によく似ている。石川議員の起訴状に、一部加えて、一部削除していますが、それ以外はほとんど同じ表現です。起訴状を切り張りしている過程で、間違って『4億円の収入の不記載』の記載が残ってしまったのかもしれません。

 そうだとすると、この犯罪事実は、審査会で議決した犯罪事実とは異なっているということになります」と書いています。今回の補助弁護士の手抜き(?)が見えてきます。

 郷原氏は、次に「この起訴議決で前提として政治資金規正法の解釈が、まずおかしい。収支報告書の記載の正解性について、責任を負っているのは『会計責任者』です。だから、一義的には、会計責任者が正確に記載すべきところ、虚偽の記入をしたというのが『虚偽記入罪』の守備範囲となります。その共犯は、何らかの積極的関与、指示、働きかけなどが必要だというのが、少なくともこれまで刑事事件の実務で前提とされてきたことです。

 また、10月6日の読売新聞によれば、補助弁護士が審査員たちの『共謀』について説明する際、〈暴力団内部の共謀の成否が争点となった判例〉などを例に挙げたといいます。これが事実とすれば、とんでもない話です。

 政治資金収支報告書の虚偽記入というのは、政治資金の処理手続きの問題で、だからこそ、会計責任者に第一的義務が負わされています。そういう政治資金規正法違反の共謀と、拳銃の所持についての組長と組員との共謀のケースなどは、明らかに違うわけです」と補助弁護士の不適さを指摘しています。

 さらに、一つの問題は『供述の信用性』についてです。
検察審の理論展開についても言及しています。「こんな論理を展開するのです。〈5年ほど経過した時点である上、(中略)そのときのやりとりや状況で特に記憶に残るものがなかったとして、何ら不自然、不合理ではなく、本件では、細やかな事項が情景として浮かぶようないわゆる具体的、迫真的な供述がなされている方が、むしろ作為性を感じ、違和感を覚えることになると思われる〉と検察審査会では、挙げています」。

 郷原氏は、「具体的も迫真性もなくて、フワフワと書いてある供述のほうが信用できるというのは、まったくあべこべの論理です」と述べています。

 唯一、まともなことを言っている部分は、最後の「まとめ」にある、〈国民は裁判所によって、本当に無罪なのか、それとも有罪なのかを判断してもらう権利があるという考えに基づくものである〉という点です。

 要は、よくわからないが、疑わしいと思われる事案の最終判断は、裁判所に委ねるということを意味しています。

 結論として、郷原氏は、「現時点で軽々しく『政治的責任を取るべきだ』『議員辞職すべきだ』『党として除名すべきだ』と声高に叫ぶのは、今回の検審制度の趣旨にも合わない。こんなことを言っている人は、法的センスも見識も疑われます」と書いています。郷原氏は、東京特捜部に在職していた弁護士で、今回の一連の小沢氏の件では、もっとも感情的にならず、冷静な意見を述べているように思いました。あの田原総一朗氏のテレビ番組(最近はテレビ朝日の朝まで生テレビなど)に出ての発言からそう感じました。

2010年11月3日水曜日

検察審査会の議決は疑問だらけ(1)

 元検事の郷原信郎氏の寄稿を基にしました。概ね、次のとおりです。

 「検察審査会は、2回目の『起訴相当』議決を出しましたが、その議決書を読んで唖然としました。2回目の議決書には、新たな『事実』が付け加えられていたのです。

 1回目の議決書の『被疑事実』には、こんなことが書いてありました。〈陸山会が平成16(2004)年10月に代金約3億4千万円を支払い、世田谷区の土地を購入したのに、会計責任者の元公設秘書大久保隆規、元私設秘書の衆院議員・石川知裕の2被告らと共謀の上、その年の収支書に記載せず、翌17年の収支報告書に土地を同年1月7日に取得したとして虚偽記入した〉と書いてありました。

 要するに、不動産の取得時期と代金支払いの時期が2ヶ月ほどズレていた。これが政治資金規正法違反(虚偽記入)にあたり、小沢氏がこの違反に「共謀」したという話です。

 これが国会議員を起訴して処罰を求めるに値するような事案かどうかは冷静に考えてみる必要があると思います。2回目の疑決書ではその内容がなぜか異なっていました。

 今回の議決書に『別紙』として添付された『犯罪事実』を見ると、〈被疑者(小沢氏)から合計4億円の借り入れをしたのに、平成16年分の収支報告書にこれらを収支として記載せず、同収支報告書の「本年の収入額」欄に、過小の5億8002万4645円であった旨の虚偽を記入し―〉とあります。つまり、小沢氏から現金4億円が提供されたからという、不動産取得の原資となった収入も含め虚偽記入の犯罪事実として書かれていました。

 検審の『強制起訴』という制度は、あくまでも検察の不起訴処分の不当性を審査するために設けられたものです。

 そう考えると、1回目の議決で『起訴相当』とされた事実について、検察が再捜査して再び『不起訴』とした事実の範囲を超えた事実を、2回目の議決で『起訴すべき事実』にするのは、検審の強制起訴手続きの趣旨からいっても、明らかにおかしいと思います。検察が再捜査の対象とせず、当然、再聴取を受けた小沢氏にも弁解の機会を与えていない『犯罪事実』が、突然現れて、それで起訴されるなんてことがあっていいわけがありません。

 ですから、今回のような場合、強制起訴はできないのではないかと考えています。もっとも、1回目の議決の範囲を超えた事実が2回目の議決に入る実態など予想されていませんから、検察審査会法上で『無効な議決が行われた場合の手続き』は定められていない。しかし、起訴議決が無効であれば、それに基づいて「検察官の職務を行う弁護士」を指定することは許されないはずです」と書いています。(明日に続く)

2010年11月2日火曜日

大久保秘書の取調べをした前田検事

 上杉隆氏の「『起訴議決』は捏造調書で」から引用します。
「FDの証拠品を改ざんして逮捕された前田検事を、陸山会事件の取調べもしていたのです。彼は取り調べに大きくかかわっています。逮捕された元公設第1秘書の大久保(隆規被告)氏の取調べを担当したのです。大久保氏が逮捕された後、大阪から急に応援で「割り屋」が来るということになりました。
 “捏造犯”である前田検事が、小沢事件のキーパーソンの一人である大久保氏の取調べを行ったとなると、これは大問題です。

 捏造調書が今回の検審の議決にもかかわっていることです」と述べています。

 また、「検察審査会は、検察が作り上げたウソの証拠をもとに、人を窮地に追い込む危険性をはらんでいます。権力側が意図的な操作しようと思えば、検審はおそろしい組織なるのです。この危険性は強く訴えていきたい」と検察審議会の危険性に警告を発しています。

 さらに「今回の検事の証拠改ざん事件で、逮捕された前特捜部部長は、作られたストーリーによって逮捕された」と否認していますし、前副部長は「取調べの全面可視化」を求めていますが、「ほとんど笑い話ですよね」と述べています。

 たしかに、大久保氏の調書を作成したのが、黒の前田検事であるので、かれが作った調書は、大きな疑いが持たれ、この前田検事の調書をもとに小沢氏の起訴相当と判断した検察審査会の結論もおかしいということになります。検察は、前田検事が取り調べを行い、調書を作成した事件には、再調査の必要があるように思います。

2010年11月1日月曜日

小沢起訴は無効か(3)

 一昨日からの続きです。10月22日の週刊朝日の記事をベースにしています。
 そもそも小沢氏の「政治とカネ」をめぐる疑惑は、その背後にゼネコンによる「ヤミ献金」があるというのが「悪質性」の根拠でした。具体的には、陸山会の土地購入のために小沢氏から借り入れた現金4億円には、こうした“裏ガネ”が使われた、混じっていたというものです。

 09年3月、東京地検特捜部は、準大手ゼネコン「西村建設」からの政治献金が政治資金規正法違反(虚偽記入)に当たるとして、公設第1秘書だった大久保氏を逮捕しました。

 当時、新聞やテレビに出ていた検察OB たちは、「秘書の逮捕は、事件の入口に過ぎない。今後、小沢氏のあっせん利得罪に発展していくはずだ。検察はまだ隠し球を持っている」としたり顔で解説していました。ところが、特捜部が鹿島建設などのゼネコンの一斉聴取、捜査をしました。わたしもそこまでやると何か出て来るだろうと思っていました。世の中の多くの人がそうだったと思います。ところが、大山鳴動してネズミ一匹も出て来ませんでした。捜査は大失敗だったのです。

 その検察が次のチャンスとして食いついたのが、巨額脱税事件で服役中だった、中堅ゼネコン「水谷建設」元会長の水谷功氏(65)の証言でした。

 「岩手・胆沢ダムの工事を受注するための見返りに、都内のホテルで(当時、小沢氏の秘書だった)石川議員に5千万円を紙袋にいれて渡した」というものでした。
検察は、陸山会の土地購入資金の中にこの裏ガネが含まれていると考えていました。政治資金規正法容疑で石川氏らが逮捕されましたが、この時もさんざん指摘された裏ガネの存在は立証することができませんでした。こうして2度に渡って失敗したのでした。

 「裏ガネ」がなければ、この事件は単なる「記載ミス」でした。それを、検審の議決に乗じて無理やり、“大疑獄事件”のように見せているのが実情なのですと書いています。

 先の細野氏が、こう指摘しています。
「この事件は政治資金規正法違反ですらありません。検察は、小沢氏と陸山会の間の資金移動が政治資金収支報告書に記載されていないことが違法だと言いますが、単式簿記を前提とした現行法では、どこまで記載すべきが、その記載範囲に正解はない。作成者のよる裁量の余地を多く残しているのです。それを検察の一方的見解で、小沢氏の狙い、現職の国会議員らを逮捕したのは、国策捜査としか言いようがない」とまで、述べています。

 「悪魔の証明」だとよく言われますが、疑われた人が、その無罪を証明するのは、至難の業だと思います。無罪が確定した村木氏も、自身の経験から「やっていないことをやっていないと説明しても、信じてもらえない。理解してもらうのはむずかしい」と語っています。

 今回の検審の決議は、シロかクロかわかならいから法廷で判断してもらおうという趣旨で「起訴すべき」の判断となったわけです。『不当逮捕された村木厚子さんは、無罪が確定するまでの1年3ヶ月もの長い間、休職しました。「『小沢さんも休職すべきだ』などと、とんでもないことを言い出すひともいます。むしろ、村木さんのような人を一人も出さないためにどうすべきか、ということを議論すべきなのです」と週刊朝日も書いています。