2010年10月26日火曜日

奈良の人々と鹿

 この10月には、天皇皇后両陛下が奈良に来られました。滞在期間も随分、長かったようです。ゆっくりされたかなと思っていましたら、皇后さまはお疲れが出たのでしょうか、眼がおかしくなられたようです。お元気だと思ったのは、長谷寺の石段をスイスイと登られたことです。びっくりしました。登られた方は、お分かりのように結構きつい石段です。今回は、奈良の名寺の多くも行かれましたので、どういう感想を持たれたのかお聞きしたいと思っています。

 さて、奈良公園の鹿ですが、わたしも気晴らしに出かけます。鹿のつぶらな目を見ていますと、心が癒されます。

 奈良公園の鹿は、春日大社の神の使いとして、鹿島神社から中臣鎌足が連れてきたともいわれております。長い歴史があります。

 奈良の町では、昔から鹿は神鹿として大切に扱われ、町の中を自由に歩き回っていました。今もそうですが、慣れ過ぎているので、車が来てもよけません。車を恐いと思っていないのでしょうか、夜によく撥ねられています。車で撥ねた場合は、春日大社の鹿の保護団体に届けなければなりません。お金を必要とするのかどうかは分かりません。天然記念物です。

 江戸時代も、時には病気や野犬に噛まれたりして町の中で死ぬ場合もあります。死鹿が出た場合には町から興福寺一﨟代(興福寺の庶務をつかさどる子院)に届け出て、確かに病死であることを仕丁(興福寺の雑務にあたる人)に検分してもらい、清め銭を払う決まりになっていました。

 万大帳で一番古い鹿の記禄は、延宝3(1675)年3月14日の記禄です。香具屋市右衛門入口に死鹿があって、清め銭700文を町費より払いました。その内訳は、興福寺一﨟代に300文、仕丁2人に400文でした。文が今の貨幣価値でいくらになるのか、残念ながら分かりません。
 
 享和2(1802)年9月18日には、犬にかまれて傷を負った親子鹿が町内に迷い込んできたので、鹿を保護してもらうため鹿守の油坂町又右衛門に連絡をとっています。

 井上町では、病気や傷を負った鹿の保護をしてもらう契約料として鹿守に毎年300文払っていたとあります。奈良の町には、「鹿守」という鹿の保護に携わる人がいたことがわかります。もし、朝起きて、自分の家の前に鹿が死んでいると大変です。どこかに移さねばなりません。このために奈良のひとは、早起きになったといわれています。

 また、鹿守に出動してもらうについても、町から興福寺一﨟代に届け出る必要がありました。神鹿なだけに町民も取り扱いには、困ったようです。

 江戸時代の寛文11(1671)年には、雄鹿の角による被害をなくすために、奈良奉行の溝口豊前守信勝の命により、翌年から角伐りを始めることになりました。以降、今日までこの行事は、続いています。
明治になってからは、明治25年に鹿を収容するための鹿園(現在は鹿苑)もつくられました。鹿は、夜になると、この鹿苑で寝ます。以前は、野犬が多く、仔鹿がだいぶ被害に遭いました。昭和32(1957)年には、鹿は天然記念物に指定されました。指定名称は「奈良のシカ」です。増えたからといって、簡単には駆除できません。奈良公園の鹿は、北海道などと違って、異常には増えていません。農作物などが少ないためでしょうか、奈良公園などの草では、鹿が異常に増えるということもないようです。

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