2010年8月30日月曜日

原爆投下の歴史認識

 広島、長崎への原爆投下の記念日(?)が来ると、日本でもアメリカでも、その正当性が議論されます。アメリカ側からは、多くがこれを正当化する発言ですが、日本の中にも久間元防衛相のように、タブーに挑戦でもしたようなつもりで、「原爆投下はしょうがない」と語った人もいます。なぜ、このような被爆者の気持ちを逆なでにするような発言をするのでしょう。この発言の政治的意図も、理解しにくいものです。単なる頭が悪いだけでしょうか。

 問題は、広島と長崎の悲劇から60年余になるのに、いまだに日本人の歴史認識は、あいまいなままにとどまっているということです。
アメリカ側からは、前国務次官で核不拡散問題特使、ロバート・ジョセフの発言が伝えられました。記者会見であらためて原爆投下について語りました。
「終戦をもたらし、何百万人もの日本人の命を救った」。日本から感謝してもらいたい、といわぬばかりの口ぶりです。

 「アメリカの空襲モラルはあったか」(草思社)。米カリフォルニア州立大教授、ロナルド・シェファーの著書があります。
この研究書が明らかにしているように、1945年8月長崎に原爆を投下して2日後にトルーマン大統領は声明を発表しました。

 「けだものを相手にするときは、けだものとして扱わねばならない」。

 相手は人間ではない。だから人間としてのモラルは必要ない。すべてを焼く尽くし、とことん殺戮することに、なんの痛痒も感じていなかったのです。
その著書「原爆を投下するまで日本を降伏させるな」に、「事実は、トルーマン大統領とバーンズ国務長官の恐るべき陰謀であった」と書かれています。
つまり、2人は原爆の威力を実証することを最優先にしたのです。そのために、2発の2種類の原爆を日本の2都市に投下し終えるまで、どうしても日本を降伏させなかったのです。

 ところが、戦後の日本では長きにわたって、米側の主張が信じられてきました。
日本が悪いのだから「原爆投下はしょうがない」という考え方です。
このことについては、ドナルド・キーンという国際的な日本文学研究の第一人者を思い出す必要があります。すなわち、その体験記「日本との出会い」によると、かれは、あの大戦中に海軍将校でした。グアム島にいたときに原爆投下を知りました。

 「私はその瞬間、われわれは負けたと感じた」と書いています。軍事的な勝敗ではなく、もっと重い論理的価値観の問題です。人道に反するのは、人間的な敗北ではないのかと。トルーマンが、原爆を落とすことを命令したのは、隠れもしない真実です。のちのち、あまりの被害の大きさに、相手は人間ではない、という発言を糊塗して来ました。われわれは、やはり忘れるわけにはいきません。当時のアメリカの大統領が、そう思ったということは、多くのアメリカ国民が同様に思ったに違いありません。日本人は、お人よしのところがあり、すぐに相手の言うことを信じすぎるきらいがあります。今後、単なるお人よしではなく、尊敬される国民になりたいものです。

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