2010年6月18日金曜日

読書術(10)

 轡田隆史氏の『1000冊読む!読書術』の10話目です。

 読書には、人生を決めるような出会いがある
国立八代工業高等専門学校教師の村田秀明氏は、『中島敦「李陵」の想像 創作関係資料の研究』(明治書院)という立派な本がありますが、村田氏の中島敦との出会いは、高校の現代国語教科書に収録された『山月記』でした。生まれて初めて読書によって心の奥底から激しく揺り動かされました、と語っています。学校の教科書が、立派な役割を果たしています。

 「感動的な出会い」こそ、読書の醍醐味ではないかと、述べています。その出会いが、人生を大きく左右します。

 4章には、「読む力」は何を与えてくれるのか?~要約力、表現力、発想力を育てる方法があります。

 「読む」楽しさは、ごく自然に「書く」楽しみを誘いだすはずと言います。はたしてそうでしょうか。ここには、疑問符が付きます。

 さて、書くことに目覚めて、自然の情にせかされて、一念発起して机にむかいます。ウーム、とうなって天井をにらみますが、いくらにらんでいても、そこから先には進みません。

 これは、順番を間違えているのです。机の前に腰掛けてから、さあて、何を書こうか、と考えるのではなく、何を書くかをきめてから、原稿用紙に対面すべきなのです。頭のなかが空白であっては、「神」は降りてきてくださりません。毎日、時々刻々、目にふれるもの、耳に入るもの、そうしたすべてにむかって、「なぜ?」と問いかけつづけて、いわゆる問題意識が頭のなかで発酵しているなら、そのひとつに、「神」は降りてくださるかもしれません。

 優れた写真家は、「シャッター以前」とよくいいます。ねらい通りのいい写真が撮れるかどうかは、シャッターを押す前にすでに決まっているというわけです。

 どう書くか。文章は写生なり、と思い定めましょう。本でもいいし、映画もいい、もちろん旅もいいし、食事もいい。大いに楽しんだり、感動したのだったら、楽しんだり、感動している自分の姿を「写生」しましよう。景色をスケッチする要領で。ただし条件があります。写生するには、「面白かった」「悲しくなった」「感動した」「おいしかった」というような、形容する表現を使わないことです。そういう表現を用いなくても、面白かったこと、悲しかったことなどが、読む人に伝わるように、具体的に要約して描写します。
写生するためには、自分の姿やこころの動きを、もう一人の自分が観察しなければなりません。客観的とは、そういうことです。

 「面白かった」では、感想を述べたにすぎません。テレビのレポーターが、おいしい料理を食べておいしかったではだめなのです。「笑いをこらていたけれど、とうとう吹き出してしまった」なら写生です。「写生」というのは、あの正岡子規が俳句を作るときの心構えとして盛んに主張したことです。かれは、「理屈はいらない。ズバリと描写せよ」と述べています。

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