2010年6月9日水曜日

読書術(2)

 次に1008年に生まれた「菅原考標の女」としか名前の知られていない女性の晩年の回想日記である「更級日記」の冒頭部分に「源氏物語」が読みたくて読みたくて仏様に手を合わせて祈ったとあります。「源氏物語」は彼女が2歳頃に完成していて、紫式部が書くやいなや、当時の最高権力者の藤原道長は読みふけりました。娘の中宮彰子にねだられて写本づくりを命じました。遠い上総の国で暮らす少女にとっては、うわさに聞くだけの夢物語でしたが、この願いが4年後にかなえられました。家族とともに上総から京に帰った少女は、おばから「源氏物語」を贈られたのです。夢中で読みました。
 この興奮を次のように書いています。

 はしるはしるわづかに見つつ、心も得ず、心もとなく思ふ源氏を、一の巻寄りして、人もまじらず、几帳のうちに打臥して引きいでつつ見るここち、后の位もなににかせむ。ひるは日ぐらし、夜は目のさめたるかぎり、火をちかくともして、これを見るよりほかのことなければ、おのづからなどは、そらにおぼえうかぶを・・・

 こうして、14歳の少女は、「源氏物語」全54帖を暗記するまでになりました。このことは、彼女が書き残した「更級日記」という書物のおかげで分かるのです。すべては書物があってこそです。夫の死後、52歳の頃に少女時代の頃からを回想した日記が1000年の時を超えて読む人に感動をもたらします。

 イタリアの作家、イタロ・カルヴィーノの「なぜ古典を読むのか」という本があります。 古典とは、ふつう、人がそれについて、「いま、読み返しているのですが」とはいっても、「いま、読んでいるところです」とはあまり言わない本であると書いています。 
 「『源氏物語』をお読みになりましたか?」と質問されて、「いいえ」と、ほんとうのことを答えるのは恥ずかしいから、「遅まきながら、いま読んでいるところです」と答えたりしていますと世の知識人は答えます。しかし、読んだ本よりも読んでいない本の方が圧倒的に多いのです。
 そこで、ピエール・バオアールは、「読んでない本について堂々と語る方法」について述べています。その「こころがまえ」として、①気後れしない、②自分の考えを押しつける、③本をでっちあげる、④自分自身について語る、の4点を挙げています。さらに彼は、「読んでいない本について語ることは、まぎれもない創造の活動なのである」とまで語っています。
 また、丸谷才一氏は、わかりやすく人びとを熱狂させるものは原典を読まなくても伝わっていくとも書いています。「たいていのマルクス主義者は、『資本論』なんて読んでいませんよ。徳川光圀の編纂した『大日本史』を幕末の志士たちは、読んでいなかった。読んだとしてもダイジェスト版でした」とも書いております。なかなか真意を語っています。必ずしも読まなくてもいいようです。
 頭の痛いことで、中国の書物には、本を大事にするだけで読まないことを「高閣に束ねる」というそうです。高いところにただ積み上げておくだけという意味です。多くの人にこの傾向がありそうです。わたしも今、買っておかないといつ会えるか分からないと思って、買った本がたくさんあります。
 『鉄仮面』は、1961年、得体のしれない囚人が一人、極秘裏にサント・マルグリッド島に運ばれてきました。これは、アレキサンドル・デュマとボアゴベの二人が書いていて、デュマのは鈴木力衛が訳し、ボアゴベのは黒岩涙香が翻訳して大評判になりました。戦後は、長島良三の翻訳が出ましたが、これもすこぶる評判がいいそうです。
 明日に続きます。

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