2010年1月12日火曜日

カリスマ

 カリスマについて、津本陽氏は、次のように書いています。
 カリスマは、本来、神から特別の賜物を授かった人という意味だそうです。その資質は人から与えられたものではなく、自身の努力で獲得したものではないというのです。つまり、そういう人として生まれてきたというわけです。
 しかし、生まれつきの資質だけで、絶体絶命の場面で人を動かすだけの説得力を持ちえるでしょうか。やはり、何がしかの実績の積み重ねがあってこそ、初めて人を説得し、従わせることができるようになるのです。
 記録によると、信長は生涯におよそ130回に及ぶ、敵味方入り乱れての野戦を戦っています。家康と秀吉はそれぞれ150回、毛利元就に至っては260回に及ぶそうです。野戦では陣営をまとめるために、大将みずから旗や馬印を挙げ、自分の居場所を示します。これは非常に危険なことで、敵は手柄を立てるため大将をめがけて攻めてくる。大将は足軽などよりも、はるかに危険な立場にあったのです。こうした野戦を生き延びてきた百戦錬磨の経験が、みずからを成長させ、また家臣を瞠目させたのです。こうして彼らはうまれついてのカリスマ性を、さらに高めていきました。
ところが、明智光秀は生涯において、野戦の経験がほとんどない。唯一の例が、秀吉と天下を争った山崎の合戦でした。その他の戦いは、すべて城という要塞を攻める補給戦でした。彼には決定的に経験が足りなかった。カリスマ性というものは、血で血を洗うような修羅場をいくつもくぐり抜けることでほんとうの力になっていくのです。
 誰もが、カリスマ性を持ちたいと思うのですが、なかなか持てません。これは、人がそう思うものであって、自らが思うものではありません。むかし、カリスマ性のある人間になるには、刑務所に入った経験があること、大病にかかって生死をさまよった経験があること、もうひとつあったのですが、これは忘れました。戦争の経験があることであったかも分かりません。現代社会においては、野戦の経験などは経験できませんが、今、書いたことはできます。わたしも心臓のバイパス手術の後、院内感染にかかり、もうすこしで死ぬところでした。おかげさまで世の中が、よく見えるようになりました。10日前後、死地を彷徨いましたが、2度と経験したくないほどに苦しいものでした。あまりの苦しさに入院している病院から飛び降りようとしたほどでした。
 みなさんの中でこのひとは、カリスマ性がありそうだと思われる方の名前を書いてください。この人であれば、不可能と思われることでもやりこなすであろうと思われるひとと解しても結構です。JALの法的整理後のCEOに名前が挙がっている稲盛和夫氏もカリスマ性を持っておられると思います。

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