2010年1月7日木曜日

信長と秀吉の構想力の違い

 NHK教育テレビでも朝鮮半島と日本との歴史について何回も放送しています。その中で、秀吉が行った文禄・慶長の役、韓国ではイムジンウェランといいますが、これは、その後の日本に対する朝鮮人の認識を非常に悪くしました。朝鮮国土を荒廃させたうえに多くの職工、職人を日本に連れ帰って来ました。秀吉は、すでに国内には分け与える知行がないために朝鮮の征服を狙ったと書いています。また、これは信長の構想であったと書かれているものもありますが、どうやら信長の構想とは違うようです。信長は、壱岐・対馬経由で朝鮮を従えて明に入るということではなく、一気に明の港を抑えるつもりだったようです。そのあとは、フィリッピンに進出し、インドのゴアに入り、ゆくゆくはヨーロッパまで行くつもりだったかも分かりません。信長は、当時、宣教師に地球儀をもらい、世界がどうなっていたかも聞いていました。そして、彼らが乗って来る帆船も知っていました。こういう構造の船でなければ、速く遠くまで、多くのものを運べません。そのために、大航海の出来る竜骨構造の船も造らせたでしょう。秀吉のように安宅船での海外遠征は考えていなかったと思います。鉄の船まで考える信長です。
 当時、日本には、50万人を超える職業軍人がいました。鉄砲も30万丁ぐらいはあったと推定されます。金、銀ともに大産出国でした。インドのゴアに行って貿易することも可能です。明の港を抑え、フィッリッピンのマニラ、ベトナム、タイからインドまでは、征服したかも分かりません。秀吉は、朝鮮出兵のために2000隻の船を用意したそうですから、信長もヨーロッパ式の帆船でそれだけの船を製造させたしょう。また、安宅船は構造上、大砲を乗せれませんでしたが、帆船には乗せれます。当時のヨーロッパでも50万人の兵はいません。ヨーロッパまでは、行かなかったかも分かりませんが、現在の東南アジアは抑えたかも分かりません。おそらく世界の歴史も大きく変わったことでしょう。それにしても信長はすごい構想力の人物でした。

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