2010年1月1日金曜日

東大寺への初詣

明けましたおめでとうございます!
 わたしは、奈良にいる時には、必ず東大寺の大仏殿に参詣に行きます。右の写真はわたしのカメラで撮影したものです。大仏殿は、天平時代の創建から2度も火災に遭い、大仏も焼け落ちたりして1mほど高さが低くなっています。体もつぎはぎです。しかし、聖武天皇創建時の雰囲気は、今に残っています。元旦の朝、3時か、4時にまいります。この時間は、さすがに初詣の参拝客も少なく、松明の火で手や身体を暖めて正面から参ります。元日の0時から8時までは、正面の中門から、入れます。大仏殿の外からも大仏が拝めるように観相窓が開いています。大仏様には、今年一年の無事を祈ります。大きな仏像ですので、参拝客全員の願いを聞いてもまだまだ十分に余裕がありそうです。
 東大寺は、728年、聖武天皇が皇太子供養のため建立した金鐘寺が東大寺の始まりです。743年になって、聖武天皇が大仏造顕の詔を公布、745年に造営が開始されると、東大寺と名称変更しました。大仏は752年に開眼供養が行なわれましたが、大仏殿や講堂などの伽藍が完成したのは789年になります。その後、1180年に平重衝によって焼かれ、1567年には松永久秀によって伽藍が焼失しました。現在の伽藍は1709年に再建されたものです。
 大仏殿は、国宝の本尊盧舎那仏(大仏)を安置する、東大寺の金堂です。廻廊と中門に囲まれた壮大な建築で、大仏殿は高さ46.1m、横幅は57.0m、奥行きは50.5mほどあります。創建時よりも、間口が3分の2に縮小されていますが、それでも木造古建築としては世界最大です(木造建築としては、世界第2 位です)。銅造の盧舎那仏は、高さ14.98m、台座の高さ3.05m、下から見上げると頭頂部までは約18m見上げることになります。
 東大寺は良弁上人を開基として奈良時代の8世紀前半の聖武天皇の時代に創建されました。聖武天皇が大仏建立の詔を出されたのが743年、有名な東大寺の大仏の鋳造が始まったのが、その4年後の747年9月29日のことです。それから約2年と1ヶ月の歳月を掛けて749年10月24日に鋳造を終え、752年に開眼法要が営まれました。当時、天然痘が大流行しており、干ばつ、飢饉、地震、藤原広嗣の乱などがあって、世間が非常に不安定でしたので、これらを鎮めようとして国ごとに国分寺を造ることを奨励し、その総国分寺として東大寺を設立しました。総国分寺には巨大な大仏が必要だったのでしょう。大仏完成後の758年に大仏殿の建物が完成しています。現存する大仏は1691年2月に修復したもので、大仏殿の建物は1709年3月に完成しています。しかしそれでも創建当時の横幅86.1mにははるか及ばず、いかに当時の聖武天皇がこの大仏殿建立に力を入れていたかがよく分かります。
オバマ大統領も学生時代に訪れたという鎌倉の大仏とどちらが高いのかいいますと、鎌倉高徳院の大仏は、台座も含めて高さ13.35m、奈良東大寺の大仏が台座も入れると18.03mですから東大寺の大仏の圧勝でしょう。おまけに奈良の大仏は、大仏殿を造ってもらって、風雨をしのいでもらっています。
 しかし、大仏開眼の願いとは裏腹に、この国を挙げての大事業が財政を疲弊させ、余計に民衆などの税負担が増えて貧しい人々をより一層飢えに苦しませるという現実が平城京を見限らせ、平安遷都のきっかけになってしまったという皮肉な結末になってしまったようです。いつの時代も箱物行政は、行き詰ります。本当は、この機会に日本も首都を移せばいいのでしょうが、そういう腹の据わった人はいないでしょう。
 天平勝宝4年の開眼供養会には、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇をはじめとする要人が列席し、参列者は1万数千人に及びました。開眼導師は、インド出身の僧・菩提僊那が担当しました。当時は、想像以上に国際化が進んでいたようです。

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