2009年11月19日木曜日

纒向遺跡(1)

 奈良県桜井市の纒向遺跡から3世紀前半と思われる国内最大規模の大型建物群など2棟が見つかりました。これは、新聞などで報道されましたので、多くの方がご存じと思います。14、15日に現地で説明会が行われましたので、14日に行って来ました。俳優の苅谷俊介氏も現地に来ていましたが、彼に言わせると、関東ではこういう説明会をやっても100人も集まればいい方だと語っていました。しかし、纒向遺跡には、14日だけで3600名の見学者が押しかけました。14日は、前日が豪雨で足元が非常に悪かったのですが、15日は天候も良かったので、もっと多くの人が集まったでしょう。わたしが、行った日も名古屋などから、4時間かけて来た人もいました。
 纒向遺跡の調査も今回で166回になります。場所は、JR巻向駅の西側で、駅にも近く、新しい住宅が建ちつつあります。そういう中で発掘作業が進んでいます。今回の発掘面積は、300㎡程度です。これらは、発掘が終わるとすぐに埋め戻されます。前回も説明会の4、5日後に行ったのですが、きれいに埋め戻されていて、近所の人ですら、場所がよく分かりませんでした。したがって、飛鳥の遺跡や平城宮址のようにその発掘地域が買い取られるわけではありませんので、場合によっては、発掘地の上に家が建つということもあるでしょう。次回は、来年度の9月1日から11月30日の3カ月間で約390㎡が発掘される予定です。
 さて、卑弥呼は厳密にいえば、邪馬台国の女王ではなく、約30カ国の国々が共立して、女王となり、卑弥呼は、そのうちのひとつの邪馬台国に住んでいたと伝えられます。卑弥呼は、239年に、建国まもない中国の魏国に使節を送っています。女王国は、南側に接していたと思われる狗奴国と激しい抗争していました。使節は、翌年、魏帝から「親魏倭王」の金印や100枚の銅鏡を下賜されています。248年ころ、卑弥呼は亡くなり、再び戦乱が起こり、13歳の壱与という少女を王にして、治まりました。
 問題は、この宮殿跡が、時代に合うかどうかです。卑弥呼の墓とされる箸墓古墳もこれまでは、4世紀の建立と見られて、卑弥呼の墓ではないと云われて来ましたが、以前にも書きましたが、100年ほど遡って、卑弥呼の死亡時期に合うと言われたりしています。
 わたしが、現地を見て思ったのは、この位置は、大和の神体山である三輪山の西北の方向になります。この宮殿の位置からは、三輪山の眺めがよくありません。真東から見ますと、秀麗な山姿が見えます。シャーマンであった卑弥呼であれば、眺めのいい位置に宮殿を作り、三輪山の神の力を借りようとしたでしょう。当時から、三輪山は崇高な山でした。また、魏志倭人伝には、卑弥呼の宮殿には、城柵や楼観があったとあります。吉野ヶ里遺跡のように楼観の周囲に城柵がなければなりませんが、まだ見つかっていません。纒向遺跡は宮殿跡と推定されていますが、わたしは、ここは倉庫群ではなかったかと推察します。地理的に見て、この周辺は穀倉地帯であったと思います。したがって、その中心に倉庫群を建てたと思います。小規模ですが、大和朝廷時代の倉庫群とよく似ています(明日に続く)。

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