2009年8月9日日曜日

古橋広之進

 「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた古橋広之進氏がイタリアのローマで80歳で亡くなりました。記憶にあるのは、日本がオリンピック復帰を果たした1952年のヘルシンキオリンピックの400m自由形の決勝でした。早朝、ラジオの前で、応援したのを覚えています。わたしが、まだ小学校でした。予選は、7位か8位の通過で、決勝に備えて、体力を温存していると思っていましたが、負けるはずがないと思っていた古橋は、決勝では、最下位の8位でした。がっかりしたのを今も覚えています。すでに選手としてのピークを過ぎていることは、年齢からも分かっていましたが、気力でなんとかするだろうと思っていました。あとで五輪前年の南米遠征中にアメーバ赤痢に感染した後遺症で実力を発揮できなかったことを知りました。かれは、とうとうオリンピックの表舞台では、ヒーローになれませんでした。 
 戦後の暗い時期に古橋は、公式記録にはなりませんでしたが、世界記録を更新し続けました。1947年の日本選手権では400m自由形で4分38秒4で優勝しました。1948年のロンドンオリンピックは、敗戦国の日本は参加を認められませんでした。このとき日本ではオリンピックの水泳競技の決勝と同日に日本選手権を開催し、古橋は400m自由形で4分33秒4、1500m自由形で18分37秒0を出し、ロンドン五輪金メダリストのタイムはおろか当時の世界記録をも上回わりました。同年9月の学生選手権の400m自由形では自己記録を更新する4分33秒0、800m自由形では9分41秒0を出し、これも世界記録を越えました。これらの記録は日本が国際水泳連盟から除名されていたため世界記録としては公認されませんでした。しかし、国民を勇気づけました。当時の世相を記した書籍には「敗戦でうちひしがれた国民に自信と希望を与えた」として、取り上げられました。
 1949年には、日本の国際水泳連盟復帰が認められ、古橋ら6選手が全米選手権に招待されて参加し、400m自由形4分33秒3、800m自由形で9分33秒5、1500m自由形で18分19秒0で世界新記録を樹立しました。アメリカの新聞は、「フジヤマのトビウオ」(The Flying Fish of Fujiyama)と呼びました。このとき、後輩の橋爪四郎は、古橋に次いで、400m自由形で2位に入っています。
 1952年、日本選手権では思うような記録が出ませんでしたが、その年のヘルシンキオリンピックに出場しました。結果は、先に書いたとおりです。この時、実況を担当したNHKの飯田次男アナウンサーが涙声で「日本の皆さん、どうか古橋を責めないでやって下さい。古橋の活躍なくして戦後の日本の発展は有り得なかったのであります。古橋にありがとうを言ってあげて下さい」と話しました。橋爪は、1500m自由形で銀メダルをとっています。
 エピソードとして、日本大学進学後に水泳を再開した古橋は、「国体に出場するために東京から兵庫県の宝塚市へ向かう途中で「汽車賃がないので、列車に無賃乗車して乗り継いでやっとのことで宝塚に行った」と語っていました。引退後は社業に専念する傍ら、水泳界の発展に尽力し、多くの役職をこなしました。
 話は、変わりますが、わたしの高校の先輩に葉室鐵夫氏という200m平泳ぎで1936年のベルリンオリンピックで金メダルをとった人がいます。この人は、1917年生まれで、日大卒ですので、古橋の先輩にもあたります。かれと、同窓会のときに腕相撲をやりましたが、現役の柔道部の人間も含め、ひとりとして、勝てませんでした。オリンピックで、金メダルを取る人は違うなとつくづく感心したものです。この人たちの活躍や指導があって、水泳日本の伝統が引き継がれているのでしょう。是非。このいい伝統は、残していってほしいものです。

0 件のコメント: